『月刊美術』2000年5月号掲載

美術教育

籔内佐斗司(彫刻家)

 私が小学校に上がる前のことですから、四十数年前のことです。子供の美術教育が心理学と結びついて指導され始めた時期がありました。原色の絵の具をたっぷりと画面に擦り付ける抽象表現主義のような「ぬたくり」絵がもっともこどもらしく、創造性を育むものとしてもてはやされました。戦後に復興した各美術団体展が、フォービズム風や抽象表現主義風な絵画であふれた時期と重なります。私は幼いころから、いわゆる「ませた絵」を描くこどもでしたから、先生が望むような突飛拍子もない色彩の絵の具を塗りたくることができなくて、小さな自尊心を傷つけられた記憶があります。
 小学校の頃はプラスチックモデルが流行り始めた頃で、その精緻な完成度にこころをときめかせて夢中になりましたが、教育熱心な先生たちは、「プラモデルは、子供の創造力を阻害する」として目のかたきにし、こどもながら理不尽な気持ちになったことを思い出します。
 また図画の時間に遠足の思い出ということで、金閣寺の絵はがきを見ながら絵を描いて先生に注意されたこともありました。おぼろげな記憶より、写真を見て描いた方が、細部まで正確に描けるのにと、大いに不満でした。
 もちろん、こどもたちのあいだでは、写実的な絵をさらさらと描くことのできる「絵のうまいやつ」として一目置かれていました。しかし、スポーツ万能君やピアノの上手な女の子、算盤を習っていた暗算名人たちの華やかさに比べれば、お絵描き上手の注目度はぐっと地味なものでした。このあたりの事情は、現在のスポーツ業界、音楽業界、金融業界とくらべた美術業界の市場の大きさをそのまま反映しているような気もしないではありません。


縁(ブロンズ)-蓋置き-

 高校生になると、絵を描く以外に取り柄のなかった私は、「君は、美大でも受けたらええやないか。」と担任からいわれ、早々に一般大学の受験戦線から撤退することになりました。
 そんなわけで、私は美術教育にあまりいい印象を持っていませんでしたから、芸大でも教職課程を履修しませんでした。しかし美術教育とはどうあるべきなのかはいつも考えています。

 美術が、創作活動の側面だけで語られることは、いびつなことです。たまたま私は絵を描くことが好きでしたから美術の時間が大好きでしたが、そういう能力に欠けるこどもたちには苦痛以外のなにものでもありません。美術を生活に取り入れる智恵を身につけることの方が、多くのこどもたちにとって有意義であり重要なことです。
 美術は本来、生活の場すべてにおいて活かされるべきものです。食事や服飾、立ち居振舞い、家屋、庭園、街並み、さまざまな工業製品、娯楽など人間活動のほとんどすべてに美術は関与しているのですから。幸い日本は、「茶の湯」という高度な総合生活芸術を持っています。これは近代西洋美学が作り出した「純粋芸術」概念の盲点です。

 国公立美術館や博物館の法人化の流れのなかで、美術館のありかたが問われています。美術館が「名品」を並べ美術史的知識を学びありがたがるためだけの施設ではなく、美術を生活に反映させるために利用するという提案を積極的に推進すれば、いかようにも発展の道はあるでしょう。また教育現場と連動して生活芸術の体験センターとして脱皮していくのもひとつの選択肢です。
 日本の政治家や外交官、ビジネスマンたちの、自国の文化に対する教養のお粗末さは、外国の人からしばしば指摘されることです。それは、公教育における美術教育の貧困が原因です。
 現代の日本が世界に誇りとすべきは、近代西洋文明からの借り物である思想でも科学でも、もちろん政治でもなく、いかに美しく日常を生きるかをつきつめた生活芸術、生活美学であり、このことから情操教育全般を捉え直す必要があると思います。


卓球童子

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