『月刊美術』2001年5月号掲載

籔内佐斗司(彫刻家)

 連載のテーマに窮すると、辞書を引くことにしています。今回も、とっくに締め切りを過ぎたにもかかわらずテーマが見つからないので、和英辞典に手が伸びました。ぱらぱらとページをめくっていると「よく」という文字が目に入りました。そこで今回は深遠なテーマで「欲」です。
 手許の和英辞典には「欲」として、四つの単語の解説が出ていました。
【greed】貪欲。お金や物・権力などをむやみと欲しがって卑しい感じを表す。
【desire】欲望。精神的、あるいは肉体的な欲望を表す。とくに性欲。
【lust】色欲。好ましからざることや反道徳的な行為に対する欲望を表す。
【appetite】食欲や性欲。一般的な生理的欲求を表す。
 なるほど「欲」の性質が端的に表現されています。そして、いずれも背徳的イメージが付きまとっています。特に性欲に関する語が多いところが、古今東西この欲にひとびとがいかに悩まされてきたかが垣間見えるようです。

おんなのとるそ・末広

三英傑像
 私は、人間には三種類の大きな欲があると思っています。すなわち食欲、性欲、優越欲です。 食欲は個体維持、性欲は子孫維持に必要です。生き物は、これらの欲を持っているから「無機物」と区別されます。捕食、生殖はすべての生命体が死を迎えるまで求める業(ごう)でもあります。
 優越欲は、物欲や独占欲、名誉欲などを総称した私の造語で、個体維持に不可欠ではないにも関わらず、高等生物、特に人類に顕著に見られる欲です。知的欲求なども、多かれ少なかれ他の人が知らないことを知っていたいという気持ちがありますから、優越欲の一つに分類します。競争心や闘争心も、この欲から発します。そう考えると、優越欲も生き残るための本能に根差しているのでしょう。
 さてこの優越欲も、生理的な作用なのでしょうか?もしそうだとすれば、優越欲ホルモンは、全く手の届かない相手や物の前では分泌しないようです。大臣の椅子や勲章などがその好例で、背伸びすればなんとか手が届きそうになると、急に欲しくなる。そして手に入れるまで分泌し続けます。また所有していたものを失いかけると執着ホルモンがさかんに分泌することは、どなたも濃いに破れたときなどで経験のあることでしょう。

 欲を充足しようとして他者を傷つけると犯罪になります。欲が国家間でぶつかり合えば戦争が起きます。欲は、とかくもめ事の種となりがちです。
 しかし近代文明は、人権思想を背景に個人ひとりひとりの欲を充足させることを目的に発展したといえます。また近代産業は、個人の欲を刺激し助長することで成り立っています。衣食住の欲を満たすために、農業革命や産業革命がおこり、さまざまな製造業が発生しました。近年、ひとびとに快楽を提供するためにサービス産業が勃興し、現在では娯楽産業が隆盛を極めています。また、すこしでも永く生きながらえたいという欲に応えるために、医学は長足の進歩を遂げました。知りたいという欲を満たすために、マスメディアが巨大な怪獣のように成長しています。20世紀は欲に執着することを「善」としてきたわけです。
 しかしながら、古来よりほとんどの宗教や賢人の智慧は、個人の欲を「悪」として抑制することを説いてきました。そのことを考えると、人類が宗教や倫理観を持ってからの数千年の歴史のなかで、前世紀は極めて異常な百年間であったといえます。
 仏教にはやまのように教典がありますが、お釈迦さまが言いたかったことは、「知足(足ることを知れ)」という遺言に尽きるのではないでしょうか。しかし欲や執着からの完全な解脱など、生きて実践することは至難の業です。凡夫たるわが身を諦観して、カタログ雑誌やCM情報に埋もれながら、「欲」という不治の病と死ぬまでつき合っていくことにしましょうか。

知足大黒坊
 

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