「歴史は勝者の記録」とはよく言われますが、従来の歴史上の人物の評価が、近年大きく変化しています。

忠臣蔵で悪役になっている吉良上野介は、じつは大いに善政を敷いた名君であり、逆に浅野内匠頭は短気な小人物で、君主には相応しくなかったことが知られてきました。主君を襲った謀反人・明智光秀は、武家でありながら天皇に成り代わろうとした主君・織田信長を討った人物として再評価が進んでいます。

平城のラスプーチン・弓削道鏡(700?〜772)についても、近年、評価が変わりつつあります。彼は、700年頃に今の大阪府八尾市で大連・物部守屋(?〜587)の系譜を引く名家に生まれました。そして、法相宗の義淵の弟子と成り、東大寺・良弁僧正からサンスクリット語を学ぶなど、優れた僧侶として順調にキャリアを積んでいきました。しかし孝謙女帝(後の称徳天皇)に寵愛されたため、女帝をたぶらかし、宇佐八幡神託事件を起こし、帝位を簒奪しようとした極悪人という評価が定着しました。ところが、この道鏡のイメージが、6c以来の物部氏と中臣氏(藤原氏)の世代を超えた怨念に基づき、藤原氏らが編纂した『続日本紀』(799)をはじめ、江戸時代の歌舞伎や国学、明治以降の国家神道のなかで拡大解釈された人物像であったことがわかってきました。そして「宇佐八幡神託事件」そのものが、称徳帝が河内国の由義宮遷都を強行しようとしたことに反対する藤原永手らの陰謀であったと考えられるようになってきたそうです。この時期は、皇統や貴族の再編など、政治が激動した時代で、由義宮だけでなく、長岡京、平安京などめまぐるしく遷都されました。事実、皇位簒奪の大罪があったにしては、事件の後に弓削氏一門から誰も断罪されたものはなく、道鏡本人も下野薬師寺に左遷されただけでした。また、アンチ道鏡派の藤原氏を後ろ盾にした和気清麻呂は、平安京遷都のゼネラルプロデューサーとして辣腕を振るいました。

そんな再評価が進む折り、由義宮(769〜780)の発掘調査の過程で、由義寺七重塔跡の巨大な遺構が確認され、考古学ファンの関心を集めています。そして弓削道鏡顕彰のため、彼の肖像彫刻制作の機運が高まっているとか、いないとか・・・。今後をどうぞお楽しみに。