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文献資料-6
新美術新聞
(1994年10月21日号)より転載
文献資料-5
世田谷文化
(1994年3月5日号)より転載
作業のローテーションを組み、同じ釜の飯を食べながら夜昼忘れて羅漢作りに没頭する日々が始まった。
 籔内さんが驚いたことがひとつある。仏師や面打ちの仕事は見たことがあったけれど宮彫りの仕事はこれまでじかに見る機会はなかった。仏師は仏しか彫らないし、面打ち師は能面しか打たない。
 しかし、宮彫りは動植物から風景まで、森羅万象あらゆるものを題材にする。その技は驚くべき応用力を持っていた。
 彼らが籔内さんの仕事場に入った一週間ほど
、木材に向かっていたままなかなか手が進まない。欄間という仕事には長けていたが、これほど大きさの丸彫りの人物像を手がけたことがなかったからである。
 「しかし、彼らの吸収力はみごとでした。粗彫りしたものを渡すと、めきめきと持ち前の応用力を見せ、私の要求をどんどん具現化してくれました。大きなデッサンができていれば、まことに手際はよかったですね」
 顔や全体の雰囲気を出すのはもちろん籔内さんの仕事。だから口も出せば手も出す。
 「だけど、結局私の仕事の中でのチームワークですから、最後は何も言わなくてもベクトルは同じ方向を向いてくるんですね」
 籔内さんは最近、美術史家の副島弘道さんと雑談をしていてこんな意見の一致をみた。
 これまで美術史家は、たとえば運慶なら運慶だけが傑出した才能と技術をもっていても、工房の徒弟は制作するに当たって天才の手伝いをしただけであると。
 しかしそれは非現実的な空論ではないか。
 運慶に匹敵する技を持ったスタッフを揃えることができたからこそ運慶工房の素晴らしい仏
像群が生み出されたのだ
と。
  このように今回の十六羅漢像は、「実験美術史学(?)」の証明のように、現代にプロ集団の工房が蘇ったから実現できたものであった。
 「私自身、この仕事では本当にいい勉強をさせて頂きました。また参加したすべてのスタッフが大きく成長したことに大変な意義があったと思います。そして専門のスタッフのネットワークが築けたことは、今後にとても大きな可能性が開けました。いつの日か、この連中がまた集まってより大きなプロジェクトを組める日が来ることを楽しみにしています」
それにしても七ヶ月で十六体というのは
 「ひとりでやる仕事が一とすると、同じ力をもった人間が二人寄れば三倍になる。三人寄れば五倍になる。かけ算じゃないんですねえ」
籔内佐斗司が挑んだ
十六羅漢像 東京愛宕山 萬年山・青松寺
現代に蘇ったプロ集団の彫刻工房
羅漢は釈迦の弟子で、世の人の供養を受けるに値する聖人。このほど彫刻家籔内佐斗司が初めて挑んだ十六羅漢像が完成し、奉納された東京都港区愛宕の萬年山・青松寺で九月二十日、曹洞宗の僧侶約五十名による盛大な開眼法要が行われた。十六体は永平寺にある江戸期とみられる羅漢像の作風を下敷きにしながらも、厳粛さとおかしみが不思議にとけあった人間味あふれる籔内流羅漢像になった。制作日数は七ヶ月。十六体はいずれもほぼ等身大の坐像。作品の密度を落とすことなくなぜこんな驚異的なスピード制作が実現したのか。その秘密を籔内さんに明かしていただいた。
 高村光雲、山崎朝雲、平櫛田中が活躍していた昭和の初めころまで、木彫は精緻な彫りの技術では極めて高いレベルにあった。ところが籔内さんが芸大に入学するころにはそのような伝統な木彫の技を継ぐ先生はいなくなっていた。
「ひとりの天才が、神に代わって"自己"表現をすることが近代以降の芸術家のあるべき姿だとされてきました。ところが私はそうして生まれてくる作品についぞ心ときめかされたことがないんです」
 彫刻の歴史を遡って多くの作品をみるほどに
、個人の能力は工房制作のパワーと完成度にはとうてい太刀打ちできないという確信を深めた
。彫刻科から仏像修復の研究に進んだ時期にも
ひとりよりも専門家のチームワークによって得られる成果の方に大きいものがあると学んだ。
 独立して彫刻の仕事場を持ったときも、「自分の仕事を覚えてもらうため、自分にないモノを補ってもらうため」に後輩をアシスタントに入れた。
 十六羅漢像の仕事が来たのは昨年十月。制作にかかれるのは実質七ヶ月しかなかった。しかし籔内さんは、この仕事を今まで自分があこがれていた藤原時代や鎌倉時代の造仏所のシステムを現代によみがえらせる絶好の機会だと直感した。アシスタントのひとりで富山の井波で欄間彫刻をしているKさんのつてで若手の宮彫り五人に新たに参加してもらうことにした。また芸大の後輩で仏像の修復をしているOさんもかけつけてくれた。彩色のスタッフを補強するため芸大で模写を勉強し、近年韓国でめきめき頭角を現してきた画家金植氏もソウルからもやってくることになった。
こんな風にして、籔内さんのアトリエに彫りや彩色などのつわものが、さまざまな分野から集まってきた。食事作りを一手にひきうけてくれたMさんの含め総勢十八人。たちまち仕事場は人でいっぱいになり、
 「この6年間、彫刻技術の最高とされる藤原
、鎌倉時代の仏像の材料と技術を徹底的に研究出来ました。今まで誰も教えてくれなかった事を修得出来、自分の内面を大きく開かれた思いです。修復作業に携わることは当時の彫り師達と同じ体験をすることになり、願ってもない幸運だったと感じています。
 また当時の社会背景や経済状況も伺い知ることが出来ました。大量に仏像を発注した人物の存在とそれを供給してきた合理的な工房システム、各種の材料調達から人材育成、工程管理とかなり完璧に近いものです。また仏像の大小にかかわらず、財力に応じた材料と技術を駆使した完成度の極めて高いものです。しかし、残念ながらこの藤原仏も現存するのは何百分の一というわずかな数になりました。」
 4年前から経堂に「ぶっしゅ」工房を開き、6〜7人と共同作業を続ける。良き指導者の下でこそ各人の技が磨かれ、同時に完成度10の作品が12にも13にも拡大出来るという。個人の力量で仕事を進める西欧流のやり方ではなく、昔からある日本の師弟制度に近似しているのだろうか。今一番大事にしているのは何かとの質問には「人です」と明快な返答。予想していた彫刻刀はハズレました。 
 「自分一人の力や体力や時間には限りがあります。私の目的はいかに他人を満足させるかにあるのです。それを実現させてくれる仲間の存在は大事だと思います。」
 今後のライフワークは、公共空間や生活環境の改善であり、積極的に建築会社や自治体と組んで、街の人達の声を反映した「遊びごころの復権」を具現化することにあると言う。そんな希いを込めて今日も小気味よい鑿音が工房に響いていました。
(杉谷)
彫刻
籔内 佐斗司さん
どこかおかしくて不思議なモノたち
"遊び心"を鑿にたくして
"世田谷美術展'94"に今回初めて「牛頭大王、丑寅を睨む」を出品。会場入口正面にこの地獄の統率者・牛頭大王様がどっかと坐し、来館者ひとり一人の邪気をその霊力で吹き飛ばすかのように眼光鋭く睨み据えていました。
 初めて籔内作品に触れる人はまずこの迫力に度肝を抜かれ、何とも不思議な印象を受けます。そして厳めしい中にもどこかおかしみのある表情にクスリと笑いを誘発されます。自らを"諧謔の鬼才"と称して、ユーモアあふれるたくさんの作品を誕生させました。
 「最初から、アカデミックな裸婦像や抽象彫刻には全く興味を感じませんでした。自分の内面表現の追求よりも、第三者が自分の作品からどういう共感や感動、驚きを抱いてくれるか、それをねらう方がずっとおもしろいと思いました。自分の作りたいものだけの仕事は、どうしても独りよがりになりやすいものです。」
 そんな考えから、創作活動の第一義は「社会性」を重視し、作品も手元に抱えておかずに人前に広くさらすこと。それが現実社会の中にどんな存在意義を持ち、何の目的で設置されるのか。またどういう人間達の集まる環境かを作家は十分考慮し、制作すべきだと考える。よく野外彫刻が配置された瞬間から粗大ゴミ扱いされるケースも多いものだ。
 私たちは一般に彫刻と聞くと、大半がロダンの代表されるような人体美を追求したブロンズ像を思い浮かべます。ところが、籔内さんの手から生み出された作品は、その西洋流科学的合理主義思考に真っ向から対抗するような「木曽の檜」材に霊力を吹き込まれたモノたちです。それは、アジア民族の血の流れとでも言おうか
、大自然の中に住まう仏教的な世界の対象物であり、また東洋的な空間に憩う百種百体の自然の威力が一つのカタチとして刻まれ、最後に命を宿す。その誕生は神秘的な雰囲気を醸し出しつつ重厚な存在感を保つ。そして、籔内作品の真骨頂である"遊び心"我々に語りかけてくるのです。この「遊びごころの復権」が籔内さんの命題です。
 彫刻家になる出発点は、学校で彫刻を学んでも社会に通用せず、手段は教師の道ぐらいでこの現実に大きな憤りを感じた。そんな時天の配剤とも思えるように、芸大の保存修復技術研究室に勤務出来、約40体を超える仏像の解体修復作業を経験します。これが籔内芸術の骨格をつくる基盤となったのです。