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加山又造展より-「黒い薔薇の裸婦」

                                     籔内佐斗司(彫刻家)         
 日本画の名手が描く裸婦は、洋画や塑像にはない独特のエロテイシズムがある。一般に洋画家は、最後までモデルを前にして作品を完成させていく。そのため洋画に描かれた裸婦はいかにも「私は、ポーズをとっているの」といいたげにすまして見える。その点、日本画家の多くは、最初の素描の時にはモデルを使うが、何枚もの下図や習作を重ねて作品を完成させる際には使わない。日本画の裸婦が観る者を妖しく挑発するのは、画室のなかで意のままに創り上げられたこの世ならぬ「おんな」なればこそだろう。一九七六年に発表された「黒い薔薇の裸婦」の場合も、一九七四年に描かれた「裸婦習作」とそれにさきだつ素描が残されている。そこに描かれた一糸まとわぬ裸婦のポーズや顔の表情は、完成作品と区別がつかないほど似ているが、それらを見比べると画家が現実の女性から抽出した「おんな」の精髄を画面のなかで巧みに培養し熟成させていく過程が手に取るようにわかる。
(1998.3.8)

 日本画家が裸婦を描くようになったのは、案外新しいことである。花鳥風月・四季山水を主題とする日本画は、性的な香りのする主題を永くタブー視してきたからだ。日本画の裸婦像の嚆矢として、一九五九年に故中村正義氏が日展に発表した舞子像があるが、同世代の加山又造氏が裸婦像を銀座の画廊で発表するのはそれから十三年も後のことになる。油絵の裸婦の多くは「いまポーズをとっているの。」とでも言いた気にすましている。その点加山作品を筆頭とする日本画の裸婦像は、なぜか妙にエッチな感じがする。日本画家は、モデルを写生することから最後の本画に至るまでにたくさんの下図や習作を重ねる。そのあいだに、おとこである画家の願いのままに、現実のモデルの「おんな」のエキスが馥郁と醗酵を遂げるからなのだろう。その醗酵の度合いは、作家の技倆のほかに、天性のエロテイシズムと人格に負うことは言うまでもない。加山氏の描いた裸婦たちに会えると思うと心が躍る。 

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