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現代に見る富岡鐵斎と文人画

籔内佐斗司(彫刻家)

 絵画や彫刻には、作者自身がこころから楽しんで制作したことが表れている作品と、その苦悩が滲み出ている作品があります。もちろん私は、創作家と鑑賞者の両方の立ち場から、前者を好みます。作者の楽しさが素直に表れている作品に接すると、見ている側の気持ちも和み晴れやかになることは当然のことです。
 近代芸術において苦渋に満ちたような、あるいは難解でとりすましたような作風の表現こそが高尚な思想を持っているかのように見なすことが支配的でした。しかしこれは悠久の芸術の歴史のなかでほんの一時期の風潮に過ぎなかったように思います。芸術の本質は、和ませるにせよ、奮い立たせるにせよ、結果的に人を心地よくする作用を持っていることが必須であると私は考えています。
富岡鐵斎の作品を眺めていると、不愉快になったり不安を煽るような作品は一点もありません。どこまでも楽観的で陽気で、人間味に溢れていて、作家の創造する心の昂揚が素直に伝わってくる作品ばかりです。しかもそれらは、和漢の底知れぬ知性と教養に裏打ちされています。鐵斎の創作活動は、すでにひとつの文化体系を成していると言ってもいいと思います。
生涯「儒者」としての矜持を貫いた鐵斎の姿勢と、ときとして「俗っぽさ」すら感じさせるその画風との間に違和感を感じるひともありますが、それこそが、鐵斎芸術の大きさと深さを物語るものでもありましょう。
「わしの絵は盗み絵だ。」といい、「(自分の絵には)必ず典拠がある」、「自分は画工ではない、儒者だ」と言い切った自然体の潔さこそが、東洋の芸術家の真髄を私たちに教えてくれます。

私が東京藝大に在籍していた頃、海外からの留学生達の集まりに参加したことがありました。その時、彼らは異口同音に「日本の国立の芸術大学にもかかわらず、書と水墨画の専門コースがないことの不思議さ」を指摘していました。そして「日本に来たら、テッサイのような画家にたくさん会えると思ったのに、ぜんぜんいなかった」と、ひとりの留学生が不満そうに語っていたのを思い出します。私は、彼らの国では日本を代表する平面芸術は、「書」と「水墨画」であり、「テッサイ」が北斎や歌磨とならんで日本を代表する画家とみなされていることを知って驚きました。
 恥ずかしながら、そのころの私は「テッサイ」といわれても「幕末から明治にかけての南画家のひとり」程度のイメージしかなく、画家としてどれだけの評価を与えるべきかの知識すらありませんでした。
明治以来、近代西洋美学の範疇になかった東洋知性の総合体である「文人画」を、芸大を筆頭とする美術系大学では切り捨ててきた歴史があります。また戦後の学校教育は、「書」もないがしろにしました。したがって若い世代には、水墨画や文人画の存在すら知らないひとの方が多いかもしれませんし、筆と墨を用いて文章や絵を書く機会などめったにないことでしょう。
これは、昨今の画家でも同様です。私の友人で韓国の美術界で活躍しているある画家は、ふだんは混合技法を用いたとてもポップな絵を描いています。しかしあるとき、戯れに墨と筆で蟹や草花をみごとに描いて見せてくれました。学生時代に墨絵の筆法をマスターしていたそうです。それを見ていた日本の画学生たちはすくなからぬ衝撃を受けたようでした。

 現代では、画家が自分の絵に主題の解説を画面に書き加えることなどありえないことです。この点だけでも、鐵斎が近代の純粋芸術の文脈から語ることが難しい所以でもあります。鐵斎は、絵を描きたかったのではなく、絵を用いて伝えたい智慧を持っていたといえるでしょう。中国の古い画論である「歴代名画記」の冒頭に「画は教化をなし、人倫を助け、神変を極め、幽微を測る。六籍と功を同じくし、四時と並びめぐり、天然に発し、云々」とあります。また別の絵画論では「画は勧戒のために資す」ともあります。このあたりから、鐵斎が「わしの絵を見るなら、まず賛を読んでくだされ」と口癖のように語った真意が解ります。
「画工」と見られることを、鐵斎自身がもっとも忌避したことはよく知られています。古来中国の教養人の必須の嗜みとして「琴棋書画」があり、士太夫がそれらによって生活するなど卑しいこととされました。漢学の深い教養を身に付け、儒者としての矜持を持っていた鐵斎が、単なる画家と見なされることを嫌い続けたのは当然の成り行きでした。彼は教養の発露として絵画表現をしたのであって、その逆では文人画といえないのです。
昭和の痛快画人・中川一政は、鐵斎芸術を真の文人画として称える文章のなかで、「中国の清貧が日本に来て貧乏になったと思ふ。」とわが国の一般的な文人画を看破しています。しかしこの正鵠を得た指摘は、文人画に限らず明治に始まる洋画や彫刻から現代美術に至るまで同じことが言えます。近代西洋の模倣から出発したこれらの造形は、社会の大きな変革を生き抜いてきた本家の骨太い表現に比べ、中川一政が指摘したように表面的な様式を真似るだけのか弱く貧相な様相を呈しています。そして現代日本の多くの表現者が、模倣の積み重ねによって行き着いた袋小路で、行き場を失っています。それ故、彼らが鐵斎の芸術に接することは、東洋の造形美術が古来から備えていた大切な「要素」に気付き、新しい表現の可能性を発見する好機になるのではないかと私は思っています。

鐵斎の画集を見ていると、いずれも作品解説に年齢が書き添えられています。これはとても有意義なことです。現代社会は、若く健康であることことが全てであり、老いることをネガティブに考え勝ちです。しかし芸術表現では年齢を重ねればこそ開けてくる表現世界があります。鐵斎九十年の生涯と画業を振り返ることは、齢を重ねることの意義を現代人に思い起こさせてくれます。二十代の若さにしか表現できない世界があるように、八十代にしか描けない世界もあります。そしてそれを知ることが、老境の楽しさ、素晴らしさを謳歌し、老いることの誇りを取り戻す契機になるのではないでしょうか。
冒頭に述べたように、作家が表現することの楽しさを持ち続ければ、いつまでも好奇心に溢れ、結果として主題の多彩さへと繋がります。このことは北斎やピカソとも共通するものです。画狂老人と号したほどの北斎は、博覧強記の人として図説百科全書ともいえる「北斎漫画」を残しています。最晩年のピカソは、すべての禁忌から解放された奔放な世界を展開しています。智慧を獲得し経験を積み重ねたひとならではの創作家や啓蒙者として、それぞれの社会的立場を全うしたといえます。

 国学者として出発し、和歌を学び儒学を研究し、また宋元画を源泉とする正統南画と神性を秘めた大和絵のもろともを強靱な消化器官で貪欲に吸収し、鐵斎芸術以外の何ものでもないものを生み出したその姿を、中川一政はつぎのように表現しています「人に餌を与えられる家畜ではなく、原野に出て餌をあさるやうな勉強をしている。」
 維新後100年を遥かにすぎたにもかかわらず、今なお西洋と東洋の超克にあえぐ現代の創作者たちを、鐵斎芸術は朗らかに叱咤し勇気を与え続けているように思います。
(2001.10.14 稿了)


参考文献;
「富岡鐵斎に思う」中川一政(「画聖富岡鐵斎と高島屋」展図録1980高島屋発行)
「鐵斎の生涯と画業の特色」金沢弘(「冨岡鐵斎展」図録1985京都新聞社発行)


籔内佐斗司(やぶうちさとし)
 1953年大阪生まれの彫刻家。東京藝術大学および大学院で彫刻を修め、1982〜87年同学保存修復技術研究室にて仏像彫刻の研究と修復事業に従事した。その後、古典技法をもとにした独自の彫刻技法を駆使し、木彫やブロンズ、版画、執筆、映像などさまざまな活動を国内外で活発に繰り広げている。
 その多彩な表現活動は、日本人がどこかに置き忘れてきた豊かな精神世界を、諧謔と陽気さに満ちた懐かしい造形で蘇らせようとするものである。

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