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「東照宮と玄々は、彫刻におけるポスト・モダンを開く鍵」

*狩野派の絵の立体化
 
 日光の東照宮については、古今の実に多くの人びとがそれぞれの立場から、おおむね否定的意味あいを込めながら、語っています。
 かのブルーノ・タウト先生の桂離宮をほめたたえたい一心の有名な罵詈讒謗は別格としても、伊勢神宮の単純明快な造形性や式年遷宮の美学などと比較して、日本のタイガーバーム・ガーデンとさえいう人もあり、近代高踏的知識人から知性と教養の対極にあるものとして、永らくいじめの対象となっていたように思います。
 こうした間断なきいじめに対し、何ら反論することなく、耐えていた東照宮は、あたかもきらびやかな鎧を纏ったご神君さまが、日光の山奥で有名なご家訓そのままに、時節の移り変わりを待ちながら、ひっそりとうずくまっておられるようで、私はいじらしくさえ思っておりました。ところが、昨今の建築界におけるポスト・モダンのはやり以来、極端から極端に走る前衛的識者のつねにならい、俄然この鬼っ子が脚光を浴び始めたことは、ご同慶のいたりと申しておきましょう。日頃、日本の古典彫刻のエスプリと技法を、さも現代によみがえらせているかのようなイメージで作品を造っている私としましても、あまり高い評価を与えられることのなかった近世建築彫り物ー宮彫りーについて日頃思っていることを少々述べさせていただこうと思います。
 日本において建築の構造材に施された装飾は、意外に平面的なものが主流のように思います。スケールは小さいけれど絢爛さでは、日光にも劣らない中尊寺の金色堂も漆箔と螺鈿が中心です。また宇治の平等院も、柱や梁に彩色を施しているだけですし、壁にはたくさんの丸彫りの雲中供養菩薩がありますが、あくまでぶらさがっているのであって、決して壁面の一部ではありません。
ところが石造建築物の歴史をもつ国ぐにでは、柱や壁に実に華やかに植物や動物を彫り込んでいます。
インドや中国の石窟寺院には、建築というよりは、大きな岩山に寺院を丸彫りにしてしまったと表現したほうがよいようなものまであります。
こうした国ぐににおいて、建築とは、彫るものであり、積み上げていくものであったのですが、日本では丸太を四角に製材し、仕口を加工して組み上げていくのが建築だったのです。すなわち我が国では、建築職人と彫刻の工人とは画然と分けられていたのです。
しかし、この分業が崩れていくのは、仏教の信仰形式の変化と、貴族および貴族的武家の没落、そして新興武家の勃興が密接に関係しているのでしょう。それまでの密教や末法思想に裏打ちされた浄土信仰は、たくさんの仏像を必要としましたが、在家仏教や新来の禅宗は、個人的内省的信仰でありますから、大規模な造寺造仏を必要としなくなります。また新興武家の象徴は城郭です。戦争形態の変化に伴い、実戦的な山城から、大規模な平城へと移るにつれ、内部装飾も大工の重要な役割となっていったのでしょう。また城郭のインテリアの中心を成した障壁画を受けもった狩野派の絵師たちとの交流も考えられます。そして、それまで階級的優位をもっていた仏師たちは衰退し建築職人の力が増大します。こうした時代背景をもとに東照宮は、桃山時代の総決算として造営されたといえましょう。ここで確認しておかなければいけないことは、東照宮における建築装飾の意匠、すなわち意味付けや下絵、彩色は決して彫り物大工の創意ではなかったということです。東照宮造営の総括責任者は甲良宗広という大工の大親分ですが、彫り物の意匠や彩色に関しては、狩野探幽を初めとする狩野派の絵師であったということです。これは重要な問題です。すなわち東照宮の彫り物は、狩野派の絵を立体化したものであるということです。『日光社寺建築彩色図譜』(財団法人・日光社寺文化財保存会発行)に掲載されている図様と彩色記録は、かつて彫り物大工たちが与えられたであろう下絵を彷彿とさせたいへん興味深いものです。その中には有名な三猿や眠り猫も収められ、もしこの図を私が与えられて彫ったなら、どういうものになるだろうと考えてしまいます。このような下絵はいく度も写し替えられ宮彫りの家に代々伝えられていったのです。地方の古い家柄の大工を訪ねると驚くほどたくさんの彫り物の下図に出会うことがあります。


*木彫家、佐藤玄々

 こうした東照宮の彫り物を見ていますと私は一人の木彫家を思い出します。それは、佐藤玄々(または朝山、1888ー1963)です。といってご存知ない方でも、東京日本橋の三越百貨店の巨大な天女像(1960)の作者といえばご記憶の向きもおられるかと思います。彼は、福島の地に代々続いた宮彫りの家に生まれ、戦前は日本美術院を始め帝展、文展に出品し朝倉文夫、平櫛田中、北村西望などと並び称せられた巨匠ですが、生前より奇矯な振る舞いで知られ特異な性格から人に疎まれることも多く、最晩年の、そして彼の総決算でもあった三越の天女像の不評が、その後の彼の評価を決定づけたのかもしれません。しかし彼の作品に間近に触れた人たちは、伝統に裏付けられた感性と技倆に驚嘆させられます。今も隠れたファンは多いと見え、まれに市場に出れば、数千万円の値が付くと聞きます。以前、銀座のある画廊で、兔が跳ねている作品を見せていただきましたが、これは宮彫りのモチーフとしてよく用いられ、東照宮の五重の塔初層にもありますし、幕末に完成した静岡の神部神社浅間神社本殿の蟇股にもなかなか出来のよいものがありますが、それらと比較しても格段に秀れたものでした。従来、玄々の作品は、戦前の構成的な人物像などを高く評価し、晩年の動物を題材とした宮彫り的な彩色の作品には眉をひそめる人が多いのです。しかしロダン、ブールデル以降の重苦しい近代彫刻や、無味乾燥な現代美術に飽きた眼には、伝統に裏付けられた丹念な彫りと彩色は、果汁をたっぷり含んだみずみずしい果実にように見えてしようがないのです。
 彫刻におけるポスト・モダンを開く鍵は、今までの不当に低い評価の故からも、東照宮を始めとする建築彫り物と、その伝統を引いた奇人・佐藤玄々にあると思うのですが、いかがでしょう?

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