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文献資料-芸術新潮1996年3月号「特集・」

依り代としての資格

 私は、東洋的自然観あるいは仏教的世界観が濃厚に感じられる彫刻作品をたくさん作っています。しかし個人的には、特定の宗教や宗派に帰依しているわけではありません。また神秘体験や心霊現象も決して否定はしませんが、自分自身で経験したことはありません。たぶんそれは、いきものである人間の生体反応のひとつに過ぎないと考えています。そして幸か不幸か、神仏にすがりつきたくなるようなカタルシスも経験したことのない、まことに凡庸で平穏な人生を送ってきました。ですから、編集部から「どんなときに『神』をお感じになり、またそれはどんな感覚なのでしょうか。」というご質問をいただきましたが、私にはそれにお答えする資格はないかもしれません。
 私は、いたって素朴な汎神論的世界観を持っています。それは信仰と呼べるほど大それたものではなく、山川草木やそこに住まうすべてのものを統御する存在の法則への畏敬の念とでもいえばよいでしょうか。その大法則を、ひとつに集約するものとして見るか、個々に現れたひとつひとつの現象に見るかで、いろいろな信仰の形式が生まれたのだと思っています。
 建築家や音楽家そして画家や彫刻家などは、宗教的な空間を荘厳し神や仏の世界を演出するのが本来の仕事でした。神あるいは仏の世界は数千年来のひとびとの思惟と直感の集積ですから、ひとりの芸術家が一生かかっても表現しきれるものではありません。こうした世界にひたり、思う存分才能を振るえた時代は表現者にとって幸福な時代であったような気がします。
 それが西洋では近世になってひとが神から自立し、美術は人間賛歌を表現することへと変わり、19世紀末には自我の苦悩や矛盾を表現するようになりました。そして20世紀になると、芸術家個人の創造性に対する過度の期待が美術そのものを袋小路へ追い込んでしまい、現在に至っているように思います。
 ひろい意味での神性が感じられなくなった芸術は醜悪でさえあります。

 さてわが国の美術は、幸せなことに広義の「神」を表現し続ける分野を失うことはありませんでした。山や川を描いても風景画にならず、花や壷を描いても静物画にならず、鳥や動物を描いても単なる写生画に終わらない世界が残されています。また食べ物や飲み物をいれるだけでない器も作られています。もちろん形骸だけに終わっているものが大半かもしれないし、日本という囲いを取り払ったときに芸術の体を成しているほど強靱ではないかもしれません。
 しかしそこには日本人の神が宿っています。そして私自身、床の間に掛け軸を掛け花器に花を活け香を焚いたとき、露地の打ち水や障子に映った草木の影などにはっとする瞬間、あるいは青みの残った藁たばの湿度を感じたときなどに、自分の遺伝子のなかの遠い記憶とともに、連綿と続く生命の繋がりを感じることがあります。そして青竹の色、炭の香り、檜の森の風のそよぎなどに接して、ここちよいと感じられる自分を発見したとき、私にも日本の神々が宿る依り代としての資格はまだ充分に残っているような気がして、なんとも表現しがたい安堵感を覚えるのです。私にとって神を感じるときはそんなときかもしれません。

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