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佐藤朝山 記念講演会

2009.11.23 大田区立郷土資料館 【佐藤朝山・ひとりの天才彫刻家の軌跡】

はじめに)

 こんにちは、ただいまご紹介にあずかりました彫刻家の籔内佐斗司でございます。

本日のテーマは明治から昭和にかけて生きた彫刻家・佐藤朝山であります。彼は、76歳の生涯で、いくつかの作家名を名乗っています。本名は、佐藤清蔵といいます。佐藤朝山は、師匠の山崎朝雲からもらった名前ですが、朝雲と不仲になってこの名前を返上し、戦後は阿吽洞玄々とか、佐藤玄々を名乗ります。この講演では、彼の創作活動がもっとも充実していた時期に名乗った佐藤朝山の名前で呼ぶことにします。

 近代以降の彫刻界でもっとも優れた彫刻家をひとり選ぶとするなら、私は躊躇することなく佐藤朝山を挙げます。わが国のみならず、世界に範囲を拡げてもその思いは変わりません。それは彼の卓越した技量と、作品が発し続ける尋常ならざるパワーに由来しています。敬愛してやまない朝山のアトリエのすぐ近くに位置するこの資料館で彼の業績についてお話しさせていただけることに、本日はたいへん感激しています。

 しかしながら、佐藤朝山の一般的な知名度は決して高くありません。ほとんどの方がご存じないといってもいいと思います。それは、馬込のアトリエが、彼の初期の素晴らしい作品群とともに、戦災で焼失してしまったことと、彼の活躍のピークが時代の潮流とずれていたことが大きな原因ではないかと思います。

 ここで朝山の代表作をご覧いただきましょう。

「木花咲耶姫」(1922)

 木花咲耶姫とは、桜の木の聖霊のことですが、古代には高貴な美女の代名詞として用いられた言葉です。朝山は、この作品を制作する前に、唐招提寺に止宿し、奈良の古仏を模刻するなど、古典研究をしています。この像は、奈良のほとけ、とりわけ法隆寺の百済観音などに啓発されたのではないかと、私は思っています。朝山作品としては、たいへん清楚な印象が異彩を放っていますが、彼の初期の代表作であると言えましょう。

 この作品を制作した年に、彼は美術院からパリに派遣され、この地で気鋭の彫刻家・ブールデルと出会うことになります。

「天女の像」(1960)

 朝山は、1949年に京都・妙心寺の一角に工房を構え、晩年の精緻な彩色が施された木彫作品を生み出します。この像は、三越創立50周年事業の一環として当時の社長・岩瀬英一郎氏の依頼によって、この工房において1951年から制作が始められました。そしてこの作品の除幕式の三年後すなわち1963年に、朝山は75歳で亡くなりました。

朝山以前の彫刻界)

 さてここで、佐藤朝山以前のわが国の彫刻界の状況を見てみましょう。

 明治時代の彫刻界は、鎌倉時代以来の活況を示した時期でした。時代は、明治維新を挟んで大きく動きました。彫刻の分野でも、それまでは彫刻イコール仏象と考えられてきましたが、神仏判別令によって仏教が揺らぎ、また西洋から人間活動のひとつとして芸術や美術という新しい概念が導入され、世俗を描写した写実的な絵画や彫刻が紹介されることによって、わが国の美術界、とくに彫刻界に劇的な変革が生まれます。そこには、仏象以外に、寺院の装飾彫りものである宮彫りと、根付けや刀装具・甲冑を飾った精緻で高度な工芸彫りものの下地があったことは見逃せません。そうした工芸を支えたひとたちは、明治になって職を失うわけですが、時の政府は、彼らをうまくプロデュースして、紡績工業などの軽工業が輸出産業として軌道に乗るまで、明治初期のわが国の主要な輸出産品として蘇らせたことは注目すべき点です。

 ここで、そのころの彫刻作品をいくつかご紹介したいと思います。

【活人形】

松本喜三郎(1825−1891)熊本に生まれる。大阪を中心に興行性の強い活人形の展示を行う。

江島栄次郎 松本喜三郎の弟子で、熊本最後の活き人形師。

安本亀八三代(1909年ころ活躍

 ただいまご紹介した活き人形の画像は、2004年に熊本市現代美術館で開催された「生人形と松本喜三郎」展の図録を使わせていただきました。

【木彫と象牙彫り】

笹沢芳渓(1886-1939)長野生。明治天皇ご遺物

吉田道楽(生没年不詳)

石川光明(1852−1913)浅草の宮彫大工の家に生まれ、高村光雲とともに帝室技芸員、東京美術学校彫刻科教授

加納鉄哉(1845−1925)岐阜に生まれ、南画と彫刻を父に学び、出家して仏画を学ぶ。還俗して、鉄哉を号し、奈良に住んで、正倉院や法隆寺宝物の摸造を通じて古典技法に習熟する。

高村光雲(1852−1934)下谷に生まれ、仏師・高村東雲に弟子入り、東京美術学校教授に就任。

山崎朝雲(1867−1954)福岡に生まれ、上京後、高村光雲に師事、米原雲海とともに光雲門下の双璧といわれる。

根岸昌雲(生没年不詳)京都に生まれ、高村光雲に師事。

ただいまご紹介をしました画像は、京都の清水三年坂美術館が2009年に作成した「超絶技巧の牙彫・木彫」から使わせていただきました。

 このように、活き人形という見世物の分野で活躍した彫刻とはあきらかに一線を画する置物としての彫刻がありました。この分野をリードした人たちは、仏師のほかに宮彫りと呼ばれた欄間などの建築装飾や、根付けなどを作っていた象牙細工のひとたちでありました。そして明治のなかばを過ぎるころには、職人のなかから東京美術学校の彫刻科の教授となって、徒弟制度ではなく学校教育のなかで、アーティストとして彫刻家が育成されていくわけです。またパリに留学し、当時の巨匠であったロダンに強い影響を受けた彫刻家たちが、西洋流の塑像をもたらし、大正から昭和の彫刻界を席巻し、木彫を圧倒するようになります。

 さて佐藤朝山は、明治時代に大活躍した彫刻家たちにすこし遅れ1888年に生まれます。

彼は、それまでの明治期第一世代の彫刻家たちとはあきらかに一線を画する造形表現を行いました。それは、明治の彫刻家たちがお手本にした西洋の美術界自体に大きな変革があったことを反映しています。すなわち、ヨーロッパそのものが、近代から現代への転換期にあったのです。

ここで彼の比較的初期の作品と、中期と最晩年の代表作を見てみましょう。

「問答」(1913)

「婆羅門僧像」(1914)

「木花咲耶姫」(1922)

「天女の像」(1960)

木花咲耶を制作し再興日本美術院院展に出品したあと、彼は美術院からフランスへ研修員として派遣され、二年半パリに滞在します。このときに、ヨーロッパの彫刻を近代から現代へと導いたといわれるブールデルと出会います。彼はロダンの弟子でしたが、美術史では、ロダンを近代彫刻最後の巨人とし、ブールデルを現代彫刻最初の巨人と位置付けています。

 佐藤朝山は本名を「清蔵」といい、1888年に宮彫り師の家に生まれました。佐藤家は代々にわたり山形で建築装飾に従事していたようですが、祖父の代に福島県の相馬の地へ移り住んだということです。18歳で高村光雲の高弟である山崎朝雲(1867〜1954)門下に入り、1913年に独立した時に「朝山」号を与えられますが、1940年ころに師との不和から自ら破門を申し出て、この号を返上し本名にもどります。かなりやんちゃな性格で、朝雲もかなり手を焼いたのではないかと想像されます。

「和気清麻呂像」(1940)

 このあたりの事情は、皇居のお濠端に建てられている「和気清麻呂像」の制作に絡んでのことだと言われておりますが、これはのちほど触れることにいたします。

 そして1948年に「阿吽洞玄々」を名乗り、1963年に75歳で逝去しています。朝山から玄々を名乗るまでは再興院展や帝国美術院に所属して旺盛な制作を行いました。彼の圧倒的な力量は、平櫛田中はじめ同時代の彫刻家たちから高い評価を得、横山大観も彼を天才と評してはばからなかったといいます。

横山大観のこんな言葉があります。「君、この切れ味をみてごらん。これは、ほんとうの天才ですよ。」こうまで言わしめたのは、朝山の芸術の素晴らしさであったわけです。

 惜しむらくは、1945年の大空襲によって朝山時代の代表的作品を東京馬込のアトリエとともに焼失してしまっていることです。失った作品の写真は、今回の図録にもいくつか掲載されていますので、ぜひご参照下さい。これらの作品が、もしも現在も残っていれば、日本の現代彫刻の系譜は今と違ったものになっていたことと思います。

*日光東照宮、建築装飾ほか

 先に述べましたように、彼は宮彫り師の家に生まれています。宮彫りとは桃山以降に発達した社寺建築を飾る華麗で豪壮な建築彫り物のことです。私は三十代のころに「東照宮と玄々」と題してその相関性を「美術手帖」という美術雑誌に寄稿したことがあります(1987)。しかし今あらためて彼の作品を見ていると、東照宮より遙か以前の天平時代の雰囲気を感じるようになりました。これは恥ずかしながら、私自身が成長したからにほかなりません。朝山は、青年時代に古代インド彫刻に影響され、またフランス留学でブールデルに師事するなど当時の先端の芸術思潮と世界性を吸収しながら、己の原点である宮彫りを超えて遙か彼方に先祖帰りをしていったかのように思えます。

 では年代順に作品に即してお話を進めて参りましょう。

*「問答」(1913)

 この作品は、朝雲門下のころに作り始め独立後に発表した朝山のデビュー作で、平櫛田中の仲介で後に原三渓がたいへん高額な値で購入したといういわくつきの作品です。当時の朝山は、まるで石彫のように硬質な印象の作品を生み出しています。この作品を作った翌年に再興院展に迎えられ、朝山は無鑑査待遇になり、すぐに正規会員である同人に推挙されます。いかに抜きんでた評価をされていたかが窺えます。師の朝雲は、文展、帝展という官立展に所属していたわけですから、いわば在野の院展に出品したところを見ると、このころから朝山と朝雲の師弟間の確執がくすぶっていたことが想像されます。

 その後、再興院展を舞台に、天心も夢見たアジア志向の強い作品を多く制作します。日本美術院創立25周年を記念した「同人の欧州派遣事業」に選ばれ、前田青邨らとともに1922年にフランスへ留学し、巨人・ブールデルのアトリエで過ごします。そして古今のヨーロッパ美術や古代エジプト彫刻などに触れ、また当時の先端的芸術思潮をも吸収しますが、自分の原点を見失うことはありませんでした。惜しいことに朝山時代のたいへん力強い木彫作品の多くが、東京馬込の自宅とともに戦災で焼失してしまったことはさきほど申しあげたとおりです。

 彼が幻の作家になってしまった最大の理由は、初期の代表作を失ったことによるといわれています。本像は写真では大作のように見えますが、高さ65センチほどの像で、初陣にふさわしい清潔感と見事な切れ味の鑿あとが印象的な作品です。

*「蜥蜴」(1929)

 私が初めて彼の作品に触れたのは、東京芸大の学生時代でした。東京国立博物館の平常陳列の近代彫刻展示室にひっそりと置かれていた小さな彩色木彫のこの作品でした。一本の古竹に「蜥蜴」が一匹いるだけなのですが、その迫真の写実力に圧倒されてしまった瞬間を、今もまざまざと思い出します。

 彼のこの作品は、弟子たちにも強い影響を与えたようでご覧のような作品も作られました。

*「鷹」(1931)2点

 私が学生のころの芸大にはかつて教官であった平櫛田中の記念室があり、彼の作品やゆかりの品々のほか、愛蔵の朝山作品も間近に目にすることができました。記念室には、横山大観記念館所蔵の彩色木彫の「鷹」のための未完成の習作も展示されていました。羽根には一枚一枚墨描きの線が残っていて、ラグビーボールのようなかたちをしていました。私の恩師である澄川喜一先生は、「今は展示ケースに入っているけど、僕たちが学生だった頃は、あれをラグビーみたいに投げ合ったもんだよ」などと冗談とも眞実ともつかない話をして私たちを笑わせたものでした。

*「白菜」(1931)

 長い間、芸大の彫刻科で一年生が初めて取り組む木彫課題は「白菜」でしたが、その本歌が朝山の作品(1931)であることを知る者は少なかったと思います。もちろん学生が作る白菜は、朝山の作品とは比べるべくもなく、私が学生のころには、もうこの課題はなくなっていました。

*「和気清麻呂像」(1940)

 先ほどお話ししました皇居のお濠端にたたずむブロンズの「和気清麻呂像」が東京国立博物館の「蜥蜴」と同じ作者であったことを私が知ったのは、ずいぶん後になってからでした。しかし、作者を知らなくとも充分に気になる作品であり、作者を知ってからはさもありなんと感じ入ったものでした。

 和気清麻呂という人物は奈良朝末期の女帝・孝謙天皇の寵愛を受けたとされる僧・道鏡の専横を押さえて失脚させ、また桓武天皇が平城京を造営する際にたいへん力を発揮しました。今の天皇家に直結する桓武系の天皇家を守護した人物として皇国史観華やかなりし頃にはたいへん重要視された人物です。

 皇紀2600年を記念して、民間の資金でこの人物の肖像を造営することとなり、三人の彫刻家に競作させることになりました。朝山のほかには、上野の芸大のそばに美術館がある朝倉文夫、(彼は官展系の大物でありました。)そして長崎の平和の像で有名な北村西望の三人に試作を提出させることになったわけですが、北村氏が途中で辞退されるなどして結果的に朝山に決まるわけです。

 さきほど、師・山崎朝雲との不和から「朝山」号を返上したといいましたが、この人選の際に、選考委員の横山大観は積極的に推薦したにもかかわらず、師である山崎朝雲が推薦しなかったことが直接の原因になったようです。

 当時の師弟関係というのはたいへん厳しかったのですね。徒弟制といっても差し支えないかと思います。特に山崎朝雲は高村光雲の高弟で、当時の木彫界では官展系のたいへんな実力者でありました。彼は、弟子たちが独立前に、創作をしたり作品を発表したりするのを禁じていました。しかし技量的には抜群であった朝山は、きっと師匠から見れば生意気だったのだと想像します。彼は、独立を目前にした頃には、皆が寝静まったあとに押入に籠もり、ろうそくの灯りで先ほど触れた「問答」という作品を制作していたと言うことです。

 この作品を、朝雲が関連する官展系の美術展に応募したところあえなく落選となります。しかし、この作品の素晴らしさを理解していた平櫛田中は、実業界の大物・原三渓に紹介し、結局彼の所蔵となります。また再興院展に無鑑査で迎え入れられることにもなりますが、たぶんこれも大観や田中らの後押しによるものと思います。この時点で、すでに朝雲と朝山の確執は深いものになっていたのでしょう。

 このあたりの事情は、福島県立美術館・増渕鏡子氏、小平市立平櫛田中美術館・藤井明氏両氏の論文に記されています。詳細は、本展図録などをぜひご覧下さい。

*「和気清麻呂像(原型)」(1940以前)

 今ご覧のこの像は、ブロンズ像の試作として桧で作られた16センチほどの小品です。複雑に木を寄せ、気に入らないところを削り取って別の木を嵌め込んだあとが随所に見られ、朝山の自由自在な制作技法の一端を窺うことができる貴重な作例です。

 木彫家である私も、まわりの方から「削りすぎたら全部やり直しでしょう?」とよく心配されることがありますが、実際の制作途上では気に入った形を求めて新しい木を接いだり修正したりは日常茶飯事のことです。平安末期や鎌倉時代の端正な仏像も、解体してみるとたいへん複雑に木を足している場合がよくあります。今も昔も、木彫家は繊細にして大胆に木を扱って造形していたわけですね。

*「山風」(玄々時代)、「蒼鷹」(玄々時代)、「栗鼠」(玄々時代)

 1948年ころから玄々を名乗ります。そして、動物を主題にしたきわめて完成度の高い彩色彫刻を生み出しますが、いささか形式主義に陥った感は否めません。

*朝山書状

朝山は、実に達筆であります。昔の彫刻家はみんな達筆でした。田中先生も達筆でありましたが、朝山もそれに負けない能筆家でした。いま、これだけの字や絵を書ける美術作家は、皆無といっていいでしょうね。

 ずいぶん前になりますが、彼の木彫作品を見せて頂いた際にその桐箱の署名を見る機会がありました。まるで漆で書いたかと思うほどに粘り気ある墨痕は、高蒔絵のように盛り上がっていました。気圧されるとはこういうことかと思うほど力強い署名でした。彼の強烈な人格や酒癖などに関わる多くの逸話を知らなくとも、あの署名だけで真に天才と呼ぶにふさわしい人物であったことが窺えました。

*「神狗」(1945創作、本像はその後再制作)

 佐藤朝山は、寺社建築に装飾彫刻を施す「宮彫り(みやぼり)」の家の三男として福島県に生まれています。日光東照宮を思い浮かべればわかるように宮彫りのテーマは多種多様であり、華麗な彩色と漆工芸や飾り金具なども用います。彼の卓越した彫技と材料に関する豊富な知識、そして多くの職人を統率した棟梁気質は、宮彫り師の血のなせる事とも理解でき、近現代の狭量な芸術家観には納まりきらない人だったのです。本展にも「山風」「栗鼠」「鷹」などたくさんの動物彫刻が出品されていてとても楽しく見てまわれます。その緻密な装飾的完成度と完璧な技量は凡百の彫刻家の追随を許しません。とりわけこの「神狗」は古典を知り尽くした芳醇な感性のみが到達できる傑作中の傑作だと思います。

 なお「神狗」像は、1945年に名古屋の熱田神宮の日本武尊神社のために制作したものが、名古屋大空襲で焼失したため戦後にこの像を再制作し、現在は朝山が晩年を過ごし、息を引き取った妙心寺大心院に所蔵されているものです。

*三越「天女(まごころ)の像」(1960)

 東京・日本橋三越1階ホールに屹立する「天女(まごころ)の像」は、みなさん、ご記憶にありますか?じつは案外、知らないとおっしゃる方が多いのです。百貨店にいらっしゃると、だいたい俯いてショーウインドーをのぞきこんで、あまり上を向かれることがないからでしょうね。

 それくらいこの像は巨大です。しかも中心の「天女」さんよりもその周りのイソギンチャクのお化けのようなものばかり目に入って、全体のボリュームに圧倒されて主題がつかみにくい作品であるのは事実です。よく比較される日光東照宮の陽明門と印象はダブります。

* 日光陽明門 

*三越「天女(まごころ)の像」(1960)

 しかし目を凝らして観察すると、確かに見事な作品です。

 1960年に完成したこの像は、朝山作品ではなく佐藤玄々の作品になります。そして「天女」と書いて「まごころ」と読ませています。構想の段階では「技芸天」と呼ばれていたようですが、いつのころから「天女」になり、最後には玄々自身によって「まごころ」とふりがなを打たれるようになりました。

 株式会社三越創立50周年記念事業のひとつとして当時の同社社長・岩瀬英一郎氏の依頼によって約10年の年月をかけて制作されました。岩瀬社長は相当の豪傑であったようで、戦後、戦災にあった三越をみごとに復興させたひととして語りぐさになっています。今の三越の赤と白の包装紙を抽象画家の猪熊源一郎に依頼してデザインをさせたり、今も続く日本伝統工芸展を開催したり、美術工芸フロアを充実させたり、美術工芸や文化を百貨店経営の中心にすえたスポンサー的経営者であったわけです。

 日本では、百貨店に美術画廊があり、催事場では始終りっぱな美術展が開かれているのはあたりまえに思いますが、デパートの本場であるヨーロッパやアメリカでは、あり得ない現象です。美術展は美術館で観覧し、絵や彫刻を買うのはアートディーラーから買うのが当たり前なのです。

 百貨店が美術作品を扱うというのは、日本独特のスタイルですが、三越や高島屋では100年も前から美術部というのが存在しています。

 元々は呉服商が百貨店になり、茶道具や骨董を扱っていたことがその理由だと思いますが、近現代日本において百貨店が文化を発信し普及させた功績は極めて大きいと思います。わが国の名だたる美術作家や工芸家の大半は百貨店美術部にたいへんお世話になってきたわけです。かく申す私も、百貨店の美術部に育ててもらったといっても過言ではありません。

 この像は、大きいです。近代以降に作られた木彫作品のなかでは最大級のものです。

 総高は10.91メートル(36尺)、総幅4.39メートル(14.5尺)、総重量6.75トン(1800貫)、天女身長は2.73メートル(9尺)、

天女が瑞雲に包まれて今まさに花心に舞降りんとする瞬間を表現しています。像の背面を覆う「彩雲」には48羽の「天鳥」が舞い、上部には宝珠が光り輝いています。

 材質は、樹齢500年といわれる京都府貴船の山のなかで伐採した檜の大木を用いています。そして、妙心寺境内に「阿吽洞」と名づけた巨大な仮小屋を設け、そこで制作を行いました。この像の制作の様子は、先ほども引用させて頂いた福島県立美術館の増渕鏡子氏による論文「佐藤朝山の三越《天女像》について」(「芸術学の視座」(勉強堂)掲載)という労作がありますので、興味のある方は是非ご覧下さい。

 像の中には鉄骨構造の心材が入っており、そこに無数の部分品がボルトや木ねじで取り付けられているわけです。

 また彩色には、膠と顔料という従来の彩色技法ではなく、当時の先端材料であったブチラールという合成樹脂を基底材に顔料を溶いて、漆や七宝焼きのように見える部分にも積極的に合成樹脂を使っているようです。このブチラール樹脂というのは無色透明でアルコールで希釈することができる素材で、最近まで仏像の修復などにも多用されていたものです。

 百貨店ホールというのは、温度や湿度の面で、彩色像にはきわめて過酷な環境です。従来の膠を用いた彩色や漆塗りでは、数十年で剥落や亀裂が起きても不思議はありませんが、この像の彩色は今もしっかりと残っています。合成樹脂の使用は、建築装飾の彩色を知り尽くした朝山ならではの選択であったような気がしてなりません。

 十年にも及ぶ制作期間のうち、完成するころは72歳という年齢やお酒の影響もあるでしょうが、足腰がかなり弱っていたために、実際の制作や組み立て作業は延べ数十人に及ぶ弟子や職人が携わりました。設置の時にも朝山は椅子に座りマイクで足場の上のスタッフに指示を出していたそうです。

 当初の計画では、ホール中央の階段の左右にもっと小さな像を一体づつ設置する予定であったそうです。吹き抜けホールの脇役であったわけですが、いつのまにか主役になってしかもこんな巨大な像になってしまった。制作費も当初の覚書では400万円であったものが、最終的には数億円、50年前の数億円ですよ!そこまで膨れあがったそうです。今の貨幣価値でいえば50億円以上の金額です。作る方も作る方ですが、やらせる方もやらせる方です。

時代の勢いとでもいいましょうか。しかし、彫刻家なら一生に一度はやってみたい大仕事ですね。

 朝山はこの作品の完成を見た3年後に、先に亡くなったみちの夫人のあとを追うように妙心寺で静かに息を引き取りました。

 この「天女の像」の破天荒なまでの豪華さは、朝山芸術の集大成といえます。そしてわが国の近代彫刻の頂点を示し、宮彫り師として大輪の花を咲かせました。しかし60年代以降は、作家の技量や工芸的要素を排する観念的な美術がもてはやされる時代になり、この作品は無視され続けました。しかし近年、ようやく佐藤朝山とともに天女像を正当に評価する動きが出てきたことはたいへん喜ばしいことだと思います。

「天女(胸像)」(1960)

 この像は、三越像の頭部を石膏で型取りしたものです。完成像は11メートルの巨像のため顔を間近に見ることはできませんが、この複製でじっくり観察することができました。彩色が施されない緻密な細部や造作を見ていますと、朝山のただものでない造形力にため息が出ます。

 皇居お堀端の和気清麻呂像と三越「天女の像」のほかに朝山作品の実物を目にする機会は、ほかの彫刻家に比べ極端に少ないのは本当に残念なことです。これだけの作家でありながら、個人美術館はもちろん、常時公開されたコレクションさえほとんど存在しないからです。それは、戦災で多くの代表作を焼失したことと、数少ない現存作品もあまりにも魅力的であるために所蔵者が秘蔵し滅多に公開されないからだと聞いたことがあります。  年に開催された展覧会は、関西のあるコレクターの収蔵作品が中心に構成されていると聞いております。準備段階で、美術館では所在不明の像を熱心に探されたようですが、新発見は出てきませんでした。私も会場を一巡し、素晴らしい作品群に感動しながらも、しかし「やはりこれだけしか残っていないのか」というのが正直な感想でもありました。文字通り幻の作家といっていいでしょう。

 長いあいだ、佐藤朝山は作品を見ることはおろか、作品集を入手することすらたいへんむずかしいことでした。初期の貴重な作品が収録されている「朝山彫刻集」(1935年、日本美術院発行)のほか、図録「天女完成記念 佐藤玄々名品展」(1960年、同展運営委員会発行)、「佐藤玄々作 天女写真集」(1960年、三越発行)などが残されていますが、これらも私の手許には複写したものがあるだけです。

 2006年に半世紀ぶりに小平市と井原市の平櫛田中美術館で朝山の回顧展が開催されました。彼のよきライバルでありお互いにその技量を認め合った平櫛田中ゆかりの美術館で相次いで開催されたということは、まことに喜ばしいかぎりです。今日ここに紹介した朝山作品の図版は、この展覧会の図録から使わせていただきました。

 その実力と才能に引き比べ、現代の評価があまりにも低くすぎたこの天才にとって、まだまだ正当な評価がなされていません。

 私の話はこれでおわりです。ご清聴ありがとうございました。

(彫刻家、東京藝術大学大学院教授/文化財保存学)

2009.11.


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