奈良県庁講演会(2006年8月23日)
「アーティストがお寺にできること」
於:奈良県新公会堂能楽ホール

1)はじめに

 こんにちは。籔内佐斗司でございます。小一時間ほどお付き合いをお願い致します。また、どうぞお楽にお聞き下さい。
 ただ今ご紹介を頂きましたように、私は彫刻家です。寄木造りという技法で木曽檜を彫刻して、漆を塗って、その上に日本画の顔料で彩色をしています。こういう彫刻技法を使っている作家は、現代の彫刻界ではたいへん少数です。しかし、実はこうした作り方は、平安時代以来連綿と続いてきた仏像技法を基にしているわけで、わが国の彫刻家の本道を踏襲していると密かに自負しています。  そして私がこの技法を、いつ、どうやって修得したかというと、実は仏像の修理を通じてなのであります。ですから、私は、「彫刻の作り方を仏さまに教えて頂いた」とよく説明しています。

 奈良は、私たち彫刻家にとっては聖地ともいえる場所ですし、文化財保護発祥の地でもあります。  今日は、そこら辺の事情をお話しながら、現代のアーティストがどのように寺院と関連を持ち、お互いによき関係を築き上げているかということをみなさまにお伝えししたいと思います。そして平城建都1300年の記念行事がいろいろ企画されていることと思いますが、奈良県がわが国のこころの故郷としてますます活性化してくようなアイデアを見つけて頂いて、今後の奈良県政に反映して頂ければと考えております。

2)ほとけさまに教えて頂いた彫刻技法

 今を去ること30年ほど前ですが、私は東京芸大と大学院で6年間、いわゆる西欧風の彫刻技法を学びました。たとえばギリシアやローマの大理石彫刻やロダンの人体彫刻、ヘンリームーアなどの抽象的な彫刻を思い浮かべて頂ければはやいと思います。しかし、どうも自分自身に納得できないものがありました。大学で学んだものを基にして自分なりの彫刻表現をしようとしたとき、その概念や技法がすべて外国からの借り物を背負い込んでいるような気がして、違和感を感じてしまったのです。
 その一方で、大学を出たばかりの若者が彫刻家で生活をしていくなどもちろん至難のことでしたので、何か手を動かして生活できる道をみつけようとも考えておりました。そこで、大学院にあった保存修復技術研究室という地味な小さな研究室にもう一回入学をし直したわけです。自分が本当に納得できる彫刻技法を学び、ついでに仏像の修復技術を習得して生活の糧にしょうと、今から考えるとたいへん安易な考えだったわけですが、当時の私は真剣でした。
 そのころ、この研究室の主任教授は、西村公朝先生でした。奈良のほとけさまも大半がお世話になっておられる財団法人美術院の国宝修理所長を兼務しておられたわけです。残念なことに私が入学した年に人事異動があり、私自身は先生から学生として直接ご指導を頂いたことはありませんでしたが、折に触れお話やお手紙で励まして頂いた記憶があります。
 私は、この研究室に一年間だけ学生として在籍し、あとの五年は、助手として研究室運営に携わりました。したがって、私の最終学歴は、東京芸大大学院中退になっております。中退した人物が、25年後にそこで教授に採用され、今では博士号の審査までしているというたいへん名誉なというか、妙なことになっているわけであります。
 そして、お茶くみ電話番をしていた5年間に、たくさんの仏像の調査や修復をさせて頂いた経験が、その後の私の人生を決定づけました。

3)文化財の保存と修復というしごと

 さて仏像の保存修復というのは、よく医者のしごとに喩えられます。
 表面の彩色や漆塗りの層が剥落しているのを直すのは、水虫ややけどを治す皮膚科のようなものです。玉眼という水晶でできた目が外れていたりするのをもとに戻すのは眼科です。鼻先や指先が欠けてなくなっているのもよくある症例ですが、これはさしずめ整形外科になります。彩色をし直して綺麗に化粧直しをすることもありますから、美容師のようなこともします。
 木の表面が虫食いや木材不朽菌でぼろぼろになっているのを直すのは、合成樹脂を注射器で注入して固めるような皮膚科的処置で済む場合もありますが、新しい材料で補作したりする外科手術のような処置をすることもあります。
 像全体ががたがたに緩んで、自立出来ないようなものも多く見られます。こういった場合は、もっとも重い治療である全面解体修理という大手術を行います。
 20年ほど前に東大寺南大門の仁王さまの大修理が行われましたが、これなどは全面解体修理の代表的なものです。
 また修復をするまえには、さまざまな検診を行って、病状を把握することも大切なしごとです。
 お医者さんが患者の状態を書き込むカルテを、我々は「調書」と呼んでいます。そして寸法を測ったり構造や材質を記したり、写真撮影やX線撮影をし、目視による診断をして、治療の方針を立てていきます。
 そのほかに私どもの研究室では、3Dレーザースキャニングというデジタル技術を用いて仏像の三次元データを収得しています。CTやMRIなどの先端医療技術のもう少し簡単なものとご理解頂ければ結構です。このことによって、貴重な仏像の完全な形状を記録することができますから、今後彫刻文化財の保存修復の現場では、この3Dレーザースキャニングが、仏像調査の標準的な調査となっていくことと思います。

 私は阪神淡路大震災が起きたとき、最初に心配したことは京都や奈良の仏像のことでした。もしも倒壊や火災で焼失してしまったら、現状では形状を完全に復元することは不可能です。どんなにたくさんの写真や図面があっても、二次元の情報から立体を復元することはできません。しかし、3Dデジタルデータがあれば、すくなくとも形状だけは完全に復元することができますから、彫刻文化財の保護の観点からも、3Dデータの取得と集積は緊急に推進されるべきだと思っています。
 また、すこし余談になりますが、デジタルデータはモニター上でどのような加工も、また様々な表現も可能にします。いろんなイベントや美術館・博物館での活用もまだ緒に就いたばかりで、無限の可能性を秘めていると言っていいでしょう。本日、会場に関連部署の方がいらっしゃいましたらぜひ前向きにお考え頂きたいと思っています。

 だいぶ話がそれてしまいましたが、このような、わが国の文化財修復の発祥の地は奈良県であります。明治39年、東大寺の勧学院という建物に、岡倉天心の薫陶を受けた新納忠之助らに率いられた美術院第二部が事務所を設置して三月堂の仏像の修復をはじめたのが発祥なわけであります。彼らの修復理念は、作られた当時を尊重し、現状を大きく変更しないという現在の大原則を世界に先駆けて打ち出した近代の文化財保護理念の先駆的なものでありました。そんなご縁もあって、毎年9月2日の岡倉天心の命日に、東大寺で天心忌が催されているわけでありますが、今年は特に明治39年から100年目ということもあって、盛大に開催されると聞いています。
 現在、財団法人美術院は京都国立博物館の中にある国宝修理所で、重文以上の仏像や大型の工芸品の修理を行ってきましたが、数年前には、奈良国立博物館のなかにも立派な修理施設がつくられて、そこでも修復作業を行っています。
 なお西村公朝先生以来、南大門の仁王さまの修理を率いられた小野寺久幸先生や、現所長の藤本青一先生も、私どもの研究室の客員教授としてご指導を頂いていますし、卒業生の何人かは美術院職員として作業に従事しています。

4)東京芸大の文化財保存学とは

 さて各地の大学には、医者を養成したり基礎医学を研究する医学部があるように、東京藝術大学の大学院には文化財保存学という部門があります。これは、先ほど申しあげた、わが国の文化財保護の先駆者であった岡倉天心が、東京芸大の前進である東京美術学校の初代校長であったことにも由来していると思います。日本画の団体展である「院展」を主催する「財団法人日本美術院」と、仏像修復の「財団法人美術院」とは、天心が創立した「日本美術院」をルーツにする兄弟の関係にあるわけです。こうして考えていきますと、岡倉天心という人物は本当に偉大であったと思います。

 先ほど申しあげた保存修復技術研究室が組織を拡大して、文化財保護を総合的に研究し人材を育成するために、現在、私が勤務する文化財保存学が十年前に出来ました。
 この研究室では、たんなる修理技術を学ぶだけではなく、その仏像が作られた当時の材料技法を解明し、それを追体験することによって、古典技法を身に付けた人材を育成し、本当に優れた保存技術者を育てるとともに、わが国の創作分野において伝統的彫刻技術を有した人材の層も厚くしようとしています。

 そのもっとも有効な方法の一つに、仏像の復元的模刻があります。
 ちょうど今年の夏に、柳生の円成寺さまに私どもの学生をお預かり頂き、このお寺に残る運慶が25歳の時に制作した大日如来坐像の模刻作業をさせて頂いています。運慶から900年後の現代の25歳の若者が、同じ年の運慶に挑戦しているわけです。

円成寺「大日如来座像」
 昨年は、興福寺ご所蔵の「龍燈鬼」と、もうひとつ東大寺所蔵で、奈良国立博物館寄託となっている「弥勒仏(通称、試みの大仏)」をふたりの学生がそれぞれ模刻させて頂きましたが、興福寺、東大寺の両寺院と奈良博のたいへんなご理解を頂いて、意義のある研究業績を挙げることができました。
小林恭子(2006年修了)「弥勒仏」
(現・博士課程1年)益田芳樹「龍燈鬼」
 また当研究室では現在、奈良県との境にある浄瑠璃寺の大日如来坐像の修復を行っています。この像は、平安時代最末期から鎌倉初期の慶派の仏師によって制作されたことを窺わせる像として知られていましたが、近世の修理によって像容が著しく変えられておりました。そこでご住職の希望によって、現在私どもの研究室で全面解体修理をして当初の姿に近づける作業を行っています。慶派初期の実に見事な大日如来のお姿が現れつつありますので、奈良の名物がまた一つ増えることになると思います。
 名物といえば、私が保存修復技術研究室に所属していた1983年に高畑の新薬師寺に安置されていた六尺の大きなお地蔵様の修復をさせて頂きましたが、なんとこの像は、体内に等身の裸の像が隠され、その上に板を張り付けて衣を彫り出すというたいへん希有な構造をもった仏像であることが分かりました。
地蔵菩薩構造見取り図
二次像(修理後)
当時美術史界のみならずマスコミにもたいへん大きな話題を提供いたしました。現在その像は新薬師寺の香薬師堂に「おたま地蔵」として多くの参拝客を集めています。
 京都府宇治市の平等院では、私ども研究室とお寺の共同事業として、ご本尊はもちろんと50数体におよぶ雲中供養菩薩について、先ほど申しあげた3D計測によるデータの保存を継続的に実施しています。
 このように、私どもの研究室は関東近県はもとより、関西地区の各地の寺院ともたいへん密接なおつきあいをさせて頂き、お寺の特段のご理解を頂きながら、学生や若い研究者の育成にお力を頂いているわけです。

5)私がお寺にさせていただいたこと

 では彫刻家としての私が、寺院にどのような働きかけをしてきたかと言うことをお話させて頂きます。

青松寺プロジェクト)
東京港区の愛宕山といえば、かつては鉄道唱歌にも歌われた景勝の地として有名で した。青松寺はその東南の丘陵にあります。その広大な敷地では10年ほど前に、お寺・港区・森ビルの三者共同で「愛宕地区再開発プロジェクト」が行われ、2002年、四十数階建ての超高層ビルが二棟とともに豪壮な七堂伽藍が姿を現しました。  このお寺は、もとは幕府お膝元に位置する永平寺直系の専門道場としてたくさんの修行僧を抱えていた曹洞宗の名刹です。また駒沢大学は、このお寺の修行道場をはじめ、曹洞宗系のいくつかの道場が統合されて設立されたとか。しかし残念なことに、関東大震災で伽藍の大半が崩壊してしまいました。本堂は、昭和の初めに鉄筋コンクリートの耐震建築として再建されましたが、専門道場の機能はながらく停止したままでした。しかし行住坐臥すべてが修行である禅宗寺院にとって、僧堂の復活は歴代ご住職の悲願であったと聞きます。さきほどの二棟の超高層ビルの敷地は、僧堂の復活と維持運営のために、百年の大計をもって再開発事業に提供されたものでした。  十五年ほど前、老朽化した本堂の大改修工事のときに、当時の方丈さまが、「禅寺に釈迦の弟子である十六羅漢像がないのは寂しい。この改修を機にぜひお像を請来したい。」とお考えになっていました。たまたま私の「釈迦十大弟子」の作品を展覧会でご覧になって、「この男にやらせてみよう。」とお考えになったということでした。仏師としての実績などほとんどない若い彫刻家の大抜擢でした。  その後、わずか十ヶ月の制作期間に私と工房のスタッフが総力を挙げて取り組んだ十六羅漢像は、現在、青松寺の山門楼上に安置されています。
山門楼上に安置されている十六羅漢像
 そしてこの十六羅漢像がご縁となり、青松寺境内周辺の一大再開発事業にふたたびお声を掛けて頂きました。新装なった開山堂に「ご開山」と「道元禅師」「塋山(けいざん)禅師」の三高祖像をお納めし、大きな山門に総高三メートルを越す木彫の四天王像をお納めし、そして港区と青松寺との協定公園内に、たくさんのブロンズ作品を設置いたしました。このお寺には、およそ40点の私の作品が収蔵されており、私にとってはたいへんありがたい存在です。伽藍復興が成就した青松寺では、「仏教ルネッサンス塾」という活動をはじめ、在家者に対するたいへん活発な活動が始まっています。  このしごとを通じて、私の工房の若者たちも大きく成長しました。そして彼らが、現実の宗教施設に働くひとびとと身近に接することによって、宗教の意味や現代における意義を学んでくれたことと思います。宗教施設に奉仕することで、信仰とまではいかないまでも、社会的責任感や使命感を持ってしごとをすることの大切さを身を持って体験してくれたようでした。
大仏開眼1250年奉賛 籔内佐斗司 in 東大寺展)
 2002年に奈良の東大寺で「大仏開眼1250年奉賛 籔内佐斗司 in 東大寺」という展覧会をさせて頂きました。南大門のすぐ横に、かつて東大寺学園という付属高校の体育館であった「金鐘会館」という建物があります。普段はお寺でさまざまな集まりにお使いの所ですが、そこを展覧会場にいたしました。私は、3歳のころに大仏さまの柱の穴をくぐって以来のご縁とともに、奈良の寺々から授かったさまざまなご恩に感謝する気持ちを、奉納展覧会というかたちで表現させて頂きました。当時の管長さまであった橋本聖園長老をはじめ山内のお坊さまや職員のみなさまにもとても喜んで頂き、たいへん気持ちのいいかたちで奉納することができました。今もお寺をお訪ねするたびに、あの展覧会のことが話題に出て、ほんとうにいいご縁を頂戴し、ありがたいことだったと感謝しています。

籔内佐斗司 in 醍醐寺展)
 2005年の5月には、京都伏見の醍醐寺の霊宝館ギャラリーとその周辺で春の宝物公開にあわせ、私の奉納の個展をさせて頂きました。櫻が咲き誇る境内で、思う存分私の作品を展示して、みなさまにご覧頂くことができました。

羯磨会)  
この他に、ピアニストとのコラボレーションとして演奏と私の作品、および映像による奉納演奏会を開催しています。ピアニストは近現代のピアノ曲を得意とされる堀江真理子さんで、私が監修した映像詩とともに奉納するイベントで、これを「羯磨会」とよんで、今までに三回開催しています。
*羯磨会(護国寺)での展示風景(2005.1.)
*羯磨会(清水寺)での奉納演奏風景(2005.5)

6)宗教と芸術

 かつて宗教と芸術は、不即不離の関係にありました。宗教なくしては絵画も彫刻もその主題を得ることはできませんでした。またそうした宗教的美術の存在なくしては、宗教活動そのものも成り立たなかったのです。これは音楽や建築、そのほかの工芸すべてにいえることです。しかし、ヨーロッパで近代が始まった頃から、芸術は宗教、特にキリスト教から独立し、純粋芸術としてそれだけで完結することを求められるようになりました。西欧において、キリスト教的世界観から脱却して、人間中心の世界観を築き上げることはそれなりに必然性があり、その結果、世界を制覇するほどに強力な勢力となったことは事実です。そして、それ以後の芸術の発展ぶりも確かに目を見張るものがあります。
 しかし20世紀の後半から、その西欧諸国において、人間中心主義の世界観に対する強い反省が起こってきたのはご存じの通りです。人類だけの幸福を追求すると、結果的には人類そのものが滅びてしまうということが、はっきりと見えてきたからでしょう。
 さて私たちの国では如何でしょう。わが国の信仰は、「山川草木、悉有仏性」という生命観と神仏習合という西欧とは異なる宗教形態を持って千数百年の歴史を刻み、そしてわが国の芸術家は、そうした世界観を表現し続けてきました。仏像や仏画だけではありません。茶の湯やすべての芸道と、それに使われる工芸品や建造物も、やはり日本人の精神世界を具体化するために表現してきたといえます。わが国では、信仰と芸術、すなわちこころとかたちが分けられることなく19世紀半ばまで続いてきました。
 しかし、この事情が大きく変わったのは明治維新と、もの一辺倒の価値観が決定づけられたのが1945年の敗戦だったと思います。明治維新で神仏習合の概念が崩壊し仏教が弱体化し、敗戦で国家神道と産土神への帰依が崩れ去ったのです。
そしてその後は、こころの尺度を失い、ものの尺度だけを持ったいびつな社会ができあがってしまいました。
 
 しかし、今、状況が変わりつつあります。1945年以後続いてきたアメリカ一辺倒の文明の受容ではなく、わが国本来の文化と精神世界を再構築しようという動きがあらゆるところで見られるようになりました。この動きは、一部の政治家が煽動しておこるような狭量な民族主義や国粋主義ではなく、もっと大きな規模と視野を持ったうねりのように思います。
 近代工業化の道を邁進してきた百数十年の間、経済発展と引き替えに、わが国の国土とひとびとのこころの荒廃は行き着くところまで行ってしまった感があります。そしてわが国は今、こころの再生に向け大きく梶を切りつつあると思います。そして、ものとこころの調和が取れた社会を再構築しようとするとき、この奈良の歴史と風土が重要な意味をもってくるように思います。
 この地は、神々のさきわう土地であり、わが国の原点であり最初に仏教が栄えた地でもあります。まさに私たちのこころの故郷といえる場所なのです。わが国の未来を展望するとき、奈良の存在は、奈良に住んでいる人が感じる以上に、重要になってくると思います。
 話がすこし高邁になりすぎましたので、ちょっとトーンダウンをいたします。

 私どもの研究室の学生は、毎年何名かは奈良県内にある仏像の模刻を行っています。その主な作業場は、東京上野公園にある芸大の研究室を使用するわけですが、先ほどお話致しましたように、夏休みや連休などには、奈良市内に作品を持ち込んで一生懸命制作に励んでいます。しかし彼らの宿舎や作業場を探すのにいつもたいへん苦労しているのが現状です。今年は、円成寺さまの特段のお計らいを頂き、お寺の庫裏に寝泊まりさせて頂きながらしごとをすることができましたが、毎年そういうわけにもいきません。昨年の女子学生は、駅前のホテルに泊まり込んで、奈良博通いをして何週間も頑張りました。そして、彼女にとって青春のとてもいい経験になったことでしょう。
 こうした経験が、若いアーティストの県内への定着の促進に繋がっていくことは、大いに考えられることです。仏像の模刻や修復だけに留まらず、様々な専攻分野の将来のアーティスト達が、この町に住んで様々な活動を繰り広げることは、奈良県の活性化に大いに寄与することと思います。かつてパリやロンドンやニューヨークがそうであったように、また今のベルリンや北京がそうであるように、アーティストが暮らしやすい街は必ず活き活きしてきます。外国のことばかり言いましたが、かつて源平の戦で奈良が灰燼に帰したあと、この街を再生させたのは、慶派と呼ばれた清新なアーティスト集団であったことも思い出して下さい。
 奈良町という新しい街作りもずいぶん定着してきたように思いますが、あそこに目的意識を持った若い人たちがどんどん移り住んで来るようなことになれば、活性化することは間違いありません。

 平城建都1300年に向けてさまざまな企画が進行中と思いますが、若い才能にぜひ機会を与えてほしいと思います。
 そのようなお手伝いでしたら、奈良へのご恩返しのつもりで、私はできるかぎりのことをさせて頂こうと思っています。

 今年の夏に東北へ短い旅をしました。そのおりに、福島県の会津地方に立ち寄りまして、慧日寺跡と湯川村の勝常寺を訪ねてまいりました。
 ご存じのことと思いますが、この土地と奈良は1200年以上前にたいへん深い関係にありました。南都法相宗の学僧・徳一がみちのくのこの地でたくさんの大寺院を建立し、第二の奈良を現出していたのです。時あたかも平安京に遷都され、南都仏教が最澄や空海の新仏教におびやかされそうな時代に、徳一の壮図は行われたのです。おそらく藤原氏によってみちのくの鉱物資源と蝦夷地開発の前線基地の意味合いがあったものと考えられますが、おそらく天平時代に造寺造仏を担った優れた工人たちの後裔を率いての大事業であったろうと思われます。一面に拡がる田園地帯にたたずむ勝常寺には、平安初期の堂々たる国宝の薬師如来と重文の仏像が安置されています。これらは、材質こそ欅で作られていますが、その造形力は奈良に持ってきてもまったく遜色のないみごとなお像で、南都の工人たちが作ったことを充分に感じさせる傑作です。
勝常寺薬師如来座像
勝常寺増長天
 その後、仏都会津は永らく栄えますが、戦国の動乱で徐々にその伽藍を焼失していき、明治初年の廃仏毀釈によって徹底的に破壊されて、徳一の業績とともに歴史の彼方に埋もれてしまいました。このあたりは、奈良の寺々と共通した歴史を有しています。  今、会津の慧日寺遺跡は、復元事業が行われています。本堂の立柱式には、南都の法相宗を代表して興福寺の多川貫首もご臨席になったと聞いています。
慧日寺跡
徳一廟
徳一像

7)さいごに

 歴史を振り返ればすぐにわかることですが、アーティストは、いつの世にも時代に鍛えられ育てられるものです。また彼らは、その創造力でもって、社会にご恩返しをするのです。またその積み重ねが、文化の継承と創造にも繋がっていることを実感しています。これは、仏像の保存修復事業にたずさわっていた二十代の頃からの思いでもあります。

  奈良は、日本という概念が確立する前から、海を越えてひとびとや文物が集まる世界性をもった都でした。平城建都1300年を目前にして、さまざまな催しが行われることと思いますが、私たちアーティストを上手にお使いになって、この記念行事が県政100年の大計をもって開催されますことを祈念して、私のお話を終わらせていただきたいと存じます。  ご静聴、ありがとうございました。



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