木の声を聴く
須田賢司(すだけんじ)/木工芸家

 六月初旬、共に活動している作家集団「九つの音色」の韓国展が開かれた。私たちの作品を通して日本の現代文化の一端を発信するのはもちろん、韓国の作家との交流も大きな課題であった。そのため日本側の九人がそれぞれ小さな色紙に絵や言葉を書き、進呈することとなり、私は迷わず冒頭の言葉を書いた。
 『聴木聲』この三文字が木工芸という仕事に取り組む上での、基本的スタンスを端的に表しているように思える。私にとって木は作品を作る上での単なる素材ではない。「この木のこの部分」でなければ作品は成り立たない。これがだめならこっちの材にしておこう、というわけにはいかない。同一な木は二つと無く、代替不可能で、作品と不可分な要素なのである。その点常に均一材料が提供される金属素材や自分で調合可能な釉薬と大きく異なる。自然の生命を丸のまま作品に取り込んでいると言える。加えて単に木工ではなく、木工芸となると更に慎重に木を選ぶことになる。そのためか「銘木」と謂われる一部の材が古来高く評価されてきた。しかしどうも私はこの銘木なる言葉が単純には好きになれない。何か自然の大いなる働きに人間が勝手にランク付けするようで、大げさに言えば畏れを知らない所業のように思える。もちろん材としての性質、たとえば寸法安定性、加工性、美観などある種、客観的に評価できる側面もあるが、どうもそれだけではないところで価値が決まっていることも多い。実際日本の木工芸では「雑木(ぞうき)」として顧みられることのあまり無い『楢』は、欧米での評価はすこぶる高い。特に北海道産材は有名でいまだにインチ単位の材が多い。私は伝統的な日本の木工芸家なら手を出さないこの楢もよく使ってきた。しかし当たり前だが、だからといって木ならなんでもいい訳でもない。

「楓林晩」須田賢司・作
 木を単に素材と捉えるならば作り手の力量でどうとでもなるではないかと言われそうだが、木工芸家にとってその木の持っている氏素性は如何ともし難い制約、前提あるいは条件に思える。というよりその持てる氏素性をこそ、生かす作業、言葉を替えれば「木の声を聴く」ことが、この日本の地で伝統的に展開してきた木工芸と言える。工芸を主な素材でジャンル分けする考えに違和を感じつつも、素材への深い思いこそ、私を私たらしめている父祖からのDNA のようだ。その意味では先の銘木なる言葉にも別の顔が見えてくる。先人たちが数々の経験の中から、「美しいもの」「相応しいもの」として伝えてきた感覚、感情、知識、謂うならば「伝統」の二文字を銘木なる言葉に見出すときである。

 ではいったいどんな木が過去において好まれ評価されたのだろうか。すると不思議なことに気が付く。伝統的な木工芸とか、木の国日本と言いながら木地を生かした木工芸の典型を思い浮かべることが意外と難しい。もちろん木地のものは傷みやすく、残り難いこともあるだろう。しかし木工芸が主な対象とする家具や什器で、伝統的に工芸品として評価され残ってきた物には漆芸品が圧倒的に多いのである。その流れの中あって私は、漸くいくつか木工芸のエポックメーキングな姿を見出すことができる。

 天平、平安の正倉院であり、茶道の興隆による桃山期、そして明治中頃から戦前までの三つである。それぞれを深く語ることは他日に譲るが、正倉院では内地材ではやはり赤漆文欟木厨子に代表される欅だろうか。いや黒柿だろうか。しかしいずれにしろこの時代は招来物が優位であり木材で言えば「唐木」の時代だろう。また茶道もその揺籃期においては中国文化の影響下にあり唐木が使われていたが、利休以後和様に転化していく中で始めて内地材に目が向き、杉や桐が使われ出したようだ。桑や栗、黒柿も使われたが唐木による道具の和様への消化と言えるのではないだろうか。

 では第三のエポックの象徴はと問われれば迷わず桑と言える。しかしここで言う桑はそれまで使われていた、山地に自生する山桑のことではない。伊豆七島御蔵島産を筆頭とする島桑である。近代木工芸は東京において前田桑明を第一世代として興ったが、それはこの島桑によって支えられていたのだ。御蔵島は太平洋の真ん中にお椀を伏せたように浮かぶ、絶壁で囲まれた険阻の島である。江戸期以前にも移出された記録はあるようだが、本格的にはこの御蔵島の隣の三宅島出身の桑明を嚆矢とする。この桑明門の工房長を祖父に持つ私は、御蔵島産桑の素晴らしさを子守唄のように聞いて育ったが、長じて仕事を始めたときには残念なことに殆ど幻となっていた。その貴重な桑材とともに都心に暮し、三月十五日の大空襲で灰燼に帰す現場にいた父は「これで桑の時代は終わったと思った」と後年述懐していた。大正時代の文献にもすでに枯渇が論じられていたことを思えば御蔵島桑の時代は戦前までと言えるだろう。

「楓林晩」須田賢司・作

 抜群の寸法安定性を持ち、幽玄とも言うべき一幅の絵のような木目、深遠にして品のある光沢、細かい細工に耐える材の緻密さ。このような島桑の美質を生かし、時の好事家の支持の下で初めて、それまで「良質な指物師」の立場に軸足を置いていた祖父たちは、木工芸家という自律した近代的な美術の体現者と成り得た。と言っても作品は関東大震災や東京大空襲でほとんど残っていない。ところが先年友人がなんと静岡県の骨董市で祖父の硯箱を見つけてきた。半信半疑で見たのだが間違いなく祖父の作、と言うよりウチの作品であった。なんでもない平凡な硯箱だが紛れも無く御蔵島桑であり、その存在感にはあらためて感動した。また先日、倉庫の整理をした折、埃まみれの材が出てきた。疎開して難を逃れた御蔵島産桑である。小さな木端に過ぎないが、しかし試しに一枚を削ってみて瞠目した。湧き上がるような杢の極上品であった。このような材を知ってしまい、また桑明の門に連なる者として桑の仕事には中途半端には係われないという思いが強い。と言いつつ今、過去幾多の指物師、木工芸家がその存在をかけて取り組んだ仕事、ひとつのステータスの象徴とも言うべき「桑夢殿型厨子」に取り組んでいる。始めるにあたり逡巡することも多かった。しかし最盛期の材は望むべきも無いが現代としては良い木に巡り会え、木の声を聴く毎日である。父が最晩年に選び残してくれた島桑である。

 シルクロードは西方から絹を求めて東方に歩んだ道と言われる。工芸の古典として興味の尽きない正倉院はそのシルクロードのもたらした大陸の文化の東の到達点だ。しかし文字通り絹を求めれば、それは我が工房の隣こそ終点とも言えることに最近気が付いた。隣はこの地でも珍しくなった養蚕家である。一日三度、大量の桑の葉を与える。40グラムの種(卵)が十二万匹の蚕になるそうである。

 桑との関係と言っても私とはまるで違うが、今桑畑に囲まれたシルクロードの東端のこの地で大陸より伝来した金銅仏のために、島桑で厨子をお作りする不思議さに何か縁を感じると共に幸福な気持ちで満たされる日々である。
須田賢司(すだけんじ)
木工藝家

1954年 東京都に生まれる
祖父桑月の代からの木工藝家の家に生まれ、父桑翠の下で木工芸を学ぶ。
また母方の祖父(柴田是真派漆芸家)に漆芸を学ぶ
20歳頃より日本伝統工芸展を主な発表の場として30年来入選を重ね、鑑査委員歴任。
群馬県甘楽町在住
現在;日本工芸会正会員、九つの音色同人、東京芸術大学漆芸研究室講師
著書;「九つの音色‐父の背を見て」「九つの音色‐再美日本」(共著、里文出版)
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