<第三回>
堂本: 「今回は『仏像に使われた用材』の研究についてお聞きしたいと思います。はじめに広隆寺の宝冠弥勒像が、アカマツで造られていることを発見されたときのことからお聞きしたいのですが。」

小原: 「私が仏像の用材を調べることになったについてはひとつ動機がありましたので、それから話しましょう。僕は兵隊で満州(現中国東北部)に4年半いて、帰ってから京都で学生になりました。昭和17年のことです。戦争中でしたので学校から勤労動員に出されたりしていました。そんな時期に美術史の大家であった京都大学の故源豊宗先生のお供をしてお寺をまわり、京都太秦の広隆寺へ行った時に先生が次のような話をして下ったのです。 "このお寺には有名な国宝第1号の宝冠弥勒と、もう1つ俗称を泣き弥勒と呼ばれる宝髻弥勒の2体の弥勒像がある。宝冠弥勒の由来については日本で彫られたという説と、朝鮮渡来という説と2つの意見がある。前者は、泣き弥勒は稚拙な彫り方だからこれが朝鮮渡来の原像で、それを手本にして日本で彫ったら東洋のミロのヴィーナスと呼ばれるこの美しい宝冠弥勒が生まれたという説。後者は、『日本書紀』に推古31年(623年)に新羅から仏具一式が献上されて、葛野かどのの大秦寺に安置されたという記録があり、宝冠弥勒はそれに当たるという説であるが、これは少数派の意見でしかない。しかし私の感じとしては、宝冠弥勒はどことなく朝鮮風だと思う。誰かそれを科学的な方法で証明する人はいないだろうか。" と。そしてさらに法隆寺の玉虫厨子の話を付け加えられました。 "飛鳥時代を代表するあの有名な工芸品は、たいへん立派だから古くから朝鮮渡来というのが定説でした。しかし京都大学昆虫学教室の山田保治氏が、装飾に使われている玉虫の羽根を調べて、この玉虫は朝鮮には棲んでいないと発表された。それによって日本で作られたことが分かった。" そういう科学的な調査方法もあると言われたのです。この話に強い感銘を受けました。私は兵隊から帰って来たばかりでたまたま教員になりましたが、先生になると何か研究をしなくてなはならない。ところが敗戦直後の混乱期で、学校には研究設備もないし研究費もない。そのうえ私は大事な青春期の数年間を軍隊で過ごしたから基礎学が身についていない、そういったないないづくしの中で自分にできそうな研究テーマを探していました。そんな時ふと源先生のお話を思い出したのです。」

堂本: 「そこから広隆寺の2体の弥勒菩薩の樹種を調べてみようということになったのですね。ですが、試験材料はどうして手に入ったのですか。」

小原:
「あれは昭和23年12月のとても寒い日の夕方でしたが、私は広隆寺を訪ねて拝観を願い出たんです。そして住職さんに、髪の毛ほどの大きさでよいのですが、破片があったらいただけないかと頼んでみました。すると住職さんはしばらく考えられた後 "いいよ" と言われ、宝髻弥勒像を傾けて私に支えるように指示され、内刳りの中に手を入れて、像のへその裏あたりからほんの爪楊枝の先端程のささくれを取って下さったのです。そして泣き弥勒からも同じようにしてささくれを探して取って下さいました。それを持って帰って顕微鏡で調べたら、宝冠弥勒像の用材はアカマツ、泣き弥勒像の用材はクスノキであることが分かったんです。」

堂本: 「広隆寺弥勒菩薩像の内刳りからささくれを取るなんて、今では考えられないことですね。特に宝髻弥勒像は戦後の新国宝指定第1号の仏像ですし。」

小原:
「そうです、運が良かったんですね。彫刻用材の樹種が分かれば像が造られた場所を推測することが可能になります。アカマツという材木はヤニが出て彫りにくいうえに、木肌も美しくありません。またその後に私が調べた750体の仏像の用材の中にも1体も出てこない。日本には他に良い木がたくさんありますからね。だが朝鮮では彫刻の用材になる木といえばアカマツぐらいしかない。また日本の飛鳥時代の仏像は例外なくクスノキで彫られていますが、朝鮮半島にはクスノキは生えていない。さらに仏師で元東京芸大教授の故西村公朝氏の調査によって、この像は木裏から木表注1に向かって彫られていることがわかりました。木彫は木表から彫らないと逆目が出やすいので日本では木表から彫るのが普通だが、この像は逆になっています。それらのことを考えると宝冠弥勒は朝鮮で彫られたもので、それを手本にして日本産のクスノキを使って彫ったら,泣き弥勒ができたという解釈の方が素直でしょう。
しかも韓国ソウルの国立博物館にある李王朝の金銅の弥勒仏は、広隆寺の宝冠弥勒と瓜ふたつと言ってよいほど良く似ているんです。そこで私は『仏教芸術』」(昭25)にそのことを発表したのですが、文化庁の役人さんから妄説をはくなとひどく叱られました。私は素人ですから朝鮮説は取り消しても差し支えないが、アカマツであることは取り消されませんと答えて一応おさまりました。文化庁の役人さんが叱ったのは、国宝第1号の証書をお寺に渡した時に、用材をクスノキと書いていたのですが、私の発表がそれより以前だったので面目もあって怒ったのだと思います。

注1木裏:樹皮に近い方の面/木表:樹心に近い方の面
堂本: 「今では広隆寺の宝冠弥勒像がアカマツであることは周知のことで、私もそのように学びましたが、そんな経緯があったとは初めて知りました。」

小原: 「だけれどもし、あのとき住職さんからいただいた破片が、脚の部分から取ったものだったら、私は彫刻用材の調査など続けることはなかったと思います。なぜなら、脚の部分は後に補修されていたからです。あとから分かったことですが、宝冠弥勒は明治の初めには脚の部分が朽ちていて倉庫の中にしまわれていた。それを大正時代になって日本美術院の新納忠之介さんが修理されたのですが、新納さんも飛鳥時代の彫刻はすべてクスノキだと信じられていたのでしょう、それでアカマツの像にクスノキの脚を継いだのです。私の『木の文化』の研究はこの宝冠弥勒から始まりましたが、この偶然は私にとって天命だったかもしれないと思うことがあります。」

堂本: 「なるほど、試料片をどこから取ったかによって答えが違ってきてしまうということですね。本体から取ったか、台座からか、光背からかということをはっきりさせなければならない。たとえ本体であっても、後に修理された箇所であれば答えが違ってしまいます。」

小原: 「そうです。当時私はまだ若かったので叱られたことに強く反発して、その後10年程の歳月をかけて飛鳥時代から室町時代までの木彫仏約750体からの破片を、顕微鏡でのぞいて樹種を識別し彫刻用材の移り変わりの軌跡を調べて、その流れ図を作ることになりました。その流れ図に源流であるインド、中国、韓国の材料を書き加えて,日本の木彫仏の用材の移り変わりを考察することにしたのです。そこから日本人と木との深いつながりを調べてみようと考えた訳です。」

堂本: 「興味深い文化調査の切り口ですね。それにしても750体もの仏像の木片というとたいへんな数ですが、どうやってそれを集められたのですか。」

小原:
「これはとうてい私ひとりでできることではありませんでした。その中の約150体は自分で集めましたが、あとの120体は西村公朝氏からいただいたもの、90体は久野健博士から、その他は未知の方々から依頼を受けたもので、全部を集めるとこんな数字になりました。数は多いが内容は玉石混合です。私が弥勒像を調べた話を聞いて未知の方々から封筒に入れた地方の仏像の破片がたくさん送られて来ました。頼んだ方は簡単に識別できると思われたのでしょうが、簡単なものもあれば困難なものもありますから、かなりの時間を割かれます。最初のうちは丁寧にお答えしていたのですが、その方が論文に発表される時には用材の名前だけ書いて、依頼した私のことなど書かれていません。
そんなことが重なってきて馬鹿らしくなり、この調査も途中で止めてしまいました。だからそれらのものは仏像の名前と樹種だけは分かっていますが、私が実物を見て確かめた訳ではありません。私としてはどの時代に木彫仏にどんな木が使われていたかを知りたかったので、識別の依頼を引き受けていたのです。750体の仏像の中で私自身が確認して試料を集めたのは約1割くらいです。あとは依頼者から聞いた仏像の名前と時代とをそのまま整理して流れ図を作りました。」

堂本: 「それは大変なご苦労でした。」

小原: 「私がまだ若かったからできたことだと思います。最近になって東京国立博物館のグループと文化庁のグループの2グループが、木彫仏の用材を調査されていることを知りました。先日東京国立博物館グループの方と情報交換をしていて気のついたことですが、唐招提寺の仏像がほとんどカヤで彫られているのに、私の記録ではヒノキと書いたものが多い、これは誤りではないかという質問を受けました。私が直接試験片を入手したあの有名なトルソの菩薩立像はカヤでしたから、流れ図の中にもカヤの存在を書いてあります。その他の試料は西村氏ほかからいただいたものですから、それが本体の破片であったか、台座の破片であったか、光背の一部であったかは不明です。顕微鏡で見ればカヤは特徴がありますから、ヒノキと間違えることはありません。私も貞観仏にカヤが多く使われたであろうことは想像していましたから、唐招提寺の諸仏の本体はカヤで彫られているであろうと思います。しかし光背や台座までのすべてがカヤであったかどうかには疑問が残ります。というのは京都嵯峨清涼寺の釈迦像は3種類の木を使って造られていることが分かったからです。試片の採取場所が違えば木の種類も違うことは当然あり得ることなのです。こうして見てくると、文化財の研究というのは情報を1人で占めるというのは危険だと思います。複数の人の違った見方があっていろいろ議論しているうちに本当の姿が見えてくる。そういう意味では法隆寺論争の100年に及ぶ議論の経過は大きな教訓だと思いますね。
それではここで少し話を進めて、仏像彫刻の様式と深い関わりをもつ日本文化の性格の移り変わりとの関係について、簡単に補足説明をしておきましょう。
まず飛鳥時代に朝鮮半島を経て仏教が伝来しましたね。それは唐の都の長安を手本にしたものでしたから、日本でも奈良時代は異国風の天平文化が立派な華を咲かせました。次の平安時代は都が京都に移って、和風文化の華が開きます。和歌、国文学が興り源氏物語が書かれ、寝殿造りが生まれたのです。その次の鎌倉時代は天平時代を手本にしたから文化は再び異国風になった。そして次の室町時代には和風になり、その次の桃山時代は異国風になり、江戸時代は和風で、明治時代はまた異国風になった。このようにみてくると日本文化の性格は異国風と和風とが交互に移り変わって、サインカーブを描いていることに気がつきます。考えてみるとそれはごく自然のなり行きで、例えて言えば、すき焼きをたらふく食ったらお茶漬けが食いたくなる、お茶漬けに飽きるとまたすき焼きが食いたい、そのことに似ています。その大きなうねりの中に流行という小波があって、小刻みに揺れながら、全体として文化の波は大きなサインカーブを描いている。彫刻の様式も文化の大波と同調しながら変化してきているんです。」

堂本: 「日本文化にそのような和風と異国風の波があるのですね。では、それと各時代の木彫仏の用材の移り変わりとの関係についてお聞かせいただけますか。」

小原: 「私の調べた飛鳥時代の仏像の樹種は、広隆寺の宝冠弥勒像を除いては例外なく全部クスノキでした。この時代にクスノキが使われたのは、招来仏がビャクダンで造られていたからです。面白いのは仏像以外の台座についても彫刻の部分にはクスノキが使われていることです。例えば法隆寺金銅の釈迦三尊の台座は、主体はヒノキですが、その上と下に取り付けられた蓮弁の彫刻はクスノキで造られている。天蓋についても同様で、全体はヒノキですが、その上に取り付けられている天人の像と鳳凰の彫刻はクスノキです。(ただし鎌倉時代に補修された彫刻はヒノキ)台座も天蓋も2種類の木が使われている。このクスノキとヒノキの混用は玉虫の厨子や橘夫人の厨子についても同様です。私の感じでは当時は彫刻はすべてクスノキで彫るというルールがあったのではないか、と想像しています。そのことを裏付けるものに伎楽面があります。法隆寺には多くの面が残されていますが、それらはすべてクスノキです。ところが天平時代になると面はキリで彫るようになります。東大寺の伎楽面はすべてキリになっいて、この対比はおもしろい。飛鳥時代の彫刻にもっぱらクスノキが使われた理由が、香木を使うという信仰的な制約によるものか、あるいは刃物の切れ味による技術上の制約によるものかは分かりませんが、クスノキがビャクダンの代用材として使われたと考えるのが妥当だろうと思います。」

堂本: 「ビャクダンは香りが良いので、暑いインドでは汗の匂いを消すために仏教と結びついたと先生の著書にありますが、その香木の代用として日本では類似するクスノキを選んだということは納得できますね。」

小原: 「多分そうだと思います。クスノキは材質が滑らかで刃当たりがよく、逆目も立たないから当時の刃物で加工するには適当だったのでしょう。それに耐久力にも優れているという特徴があります。三浦謹平氏の著書『くすのき』(明37)や、岩田利治氏の『図説樹木学』(昭48)によっても当時、クスノキの大木が豊富にあったことが推察できます。飛鳥の木彫仏は金銅仏のような生硬な形をしていますが、それはクスノキの材質とも関係があったと思います。貞観仏のヒノキの仏像と比べるとその違いは顕著です。」

堂本: 「確かに飛鳥時代の木彫仏は金銅仏のような硬い線を持っていますが、それはクスノキだから生まれ得た造形と言えるのでしょうね。しかし、香りの良い木といえばクスノキ以外にもあるのに、当時の工人達はなぜクスノキに固執したのでしょうか。」

小原: 「やはりビャクダンのような香木の代用となると、クスノキ以外には適材が見当たらないということ、もうひとつは信仰の対象であった仏像に、仏師の気ままな用材の選択は許されないと考えたからではないでしょうか。しかし、やがて時代が移り変わっていくと、新しい時代にふさわしい美しさを表現するためにはクスノキは必ずしも最適ではないということが分かって、ヒノキの登場という舞台の陰でクスノキはその姿を消していったのだと思いますね。」

堂本: 「クスノキの時代は短かったけれども、木彫の基礎をつくった時代でもありますね。次の奈良時代になると乾漆、塑造、金銅の仏像がほとんどで、木彫はあまり造られていませんが、そのことについてはどうお考えですか。」

小原: 「奈良時代はわが国の仏教芸術の中でも最も美しい華の開いた時ですが、木彫がほとんど見られないのは不思議な気がします。飛鳥時代に活躍した仏師達はどこへ行ってしまったのかとさえ思います。以下は私の推測ですが、この時代は大陸文化を受け入れることに全力が注がれていて、彫刻は官営の仏所で造られた。だから東大寺の造営をはじめとして、中国からの乾漆技術の輸入や塑造技術の修得といったことに、力が結集されたから木彫には目が向けられなかったとみてよいと思います。交通も通信も、資材の輸送もままならない時代に、東大寺の建物を造るだけでも大変だったでしょう。東大寺の境内にある三月堂を見ると、建物も素晴らしいが仏像もたくさんあって立派です。正倉院の見事さは言うまでもありませんが、戒壇院の仏像ひとつをとってもその技術は抜群のレベルです。さらに東大寺以外にもたくさんの寺院が建てられ、仏像が造られています。それらを考えると、いったいどれ程の技術集団が活躍していたのか、とても理解できないくらいです。そのような対象に膨大なエネルギーが結集された時代でしたから、木彫には目が向かなかったのでしょう。でも奈良時代の末に造られた唐招提寺には立派な木彫仏がたくさん残されています。」

堂本: 「木彫がこの時代に陰をひそめていたのは、技術者がいなくなったのではなく、むしろ技術は着実に伝わっていたということですか。」

小原: 「そうだと思います。木工の技術については高いものがありました。そのことは正倉院の宝物を見れば分かりますが、仏像について言えば、東大寺三月堂の不空羂索観音の光背がその例です。この像は奈良時代を代表する傑作のひとつで、光背は3重の楕円形で構成されています。この楕円はヒノキの細い割材を数層重ねて接着したものです。現在の言葉で言えば積層材です。これを見ただけでも当時の卓越した技術をうかがうことができるでしょう。適材を適所に使い分ける細やかなセンスと、高い水準の加工技術があったことは確かです。」

堂本: 「本当ですね。それで、奈良時代から平安時代へと移り変わると、乾漆も塑造も金銅も急に造られなくなり、それに変わって木彫仏の制作が増えていきますね。」

小原: 「そうなんです。400年続いた平安時代の前期にあたる貞観期になると、大部分の仏像は木で彫られ、用材はほとんどヒノキになります。その隆盛ぶりはまことに顕著なものがありました。この時代の特徴を私は次のようにあげることができると思います。ひとつは、わが国では木材以外の材料がなぜ彫刻の主流になることができなかったかということ。もうひとつは、木材の中ですでに主流の地位を占めていたクスノキに代わって、なぜヒノキが選ばれたのかという根拠についてです。その前者についてですが、日本の歴史の中で造形について言えば、木、乾漆、塑造、金銅、石の材料は古くからうまく使いこなされてきましたが、なかでも生物材料の木を生かす技術については、日本民族は特に優れたものを持っていたということです。日本人は器用だからどの素材も十分に使いこなす力はありました。しかし豊富な木材に恵まれ、木の家に住み、木を使ってきたこの国の人達が、それまでは金銅と漆と粘土のけんらんたる文化が去った後で、ふたたび温かくて柔らかい木肌に接して、懐かしさと落ち着きを覚えたであろうというように理解すると、それは自然のなり行きであったと思いますね。」

堂本: 「そういえば美術史家の野間清六氏が『日本美術大系U・彫刻』(昭34)の中で次のように述べていますね。
"奈良時代は仏教の黄金時代で、仏像の製作にも材料と手間を惜しまず、相当に国費を浪費した。この新しい時代(平安)は、それの反動として節約制がとられた。東大寺大仏は輝かしい時代の金字塔ではあったが、国の銅を使いはたしたとの非難も受けた。平安時代に鋳造製作がほとんど停止されたのは、何よりもよくこの間の事情を伝えている。乾漆仏が衰えたのも、それに用いられる漆が高価であり、また漆が乾くのを待ちつつ製作してゆく過程には、多くの手間を要したからである。塑造はそれに比べると材料も得易く、施工も簡単で、地方の造仏にもしばしば用いられた技法であったが、別な信仰的立場から衰えた。平安時代の密教において礼拝される仏像は、神秘的な力を蔵することが要求された。自然、材料にも清浄なものとか、霊性のあるものが期待された。その点で塑土は精選されても、いたるところから得られる材料であるところから、卑賤に見られ、衰微の大きな原因となった。これに対して木は最も清浄な素材として、新しく見直されるようになった。"」

小原: 「それは立派な意見だと思います。この時代にヒノキが選ばれた理由については野間さんの言われるとおりでしょう。次はもうひとつ、後者の点について言うと、もともと日本人は芸術的な素養に恵まれた民族でしたから、外来の造仏技術を修得した後は、より高いレベルの作品の表現手法を求めたに違いありません。その目的に対してビャクダンの代用材として選んだクスノキは、必ずしも最適な材質ではなかった、というように私は考えています。日本民族の嗜好からいって木彫が復活する素地は十分にあった。そのきっかけは唐から最澄、空海が持ち帰った密教信仰であったと思います。密教の仏像は山岳寺院の薄暗い堂宇の内部におかれ、神秘的な力と美しさが求められました。しかもそれは清浄で霊性のあるものでなければならなかった。そのことは木に精霊を認め、白木の肌の清浄さにあこがれていた民族本来の嗜好と合致するものであったから、ヒノキの良さを知っていた多くの仏師達はこの時代の流れに出会って、わが意を得たりと感じ取ったに違いありません。」

堂本: 「ここでなぜヒノキがそれほど重用されたのかについて、もう少し補足していただけませんか。」

小原: 「貞観期の仏像を代表するものとして神護寺薬師如来像や、法華寺十一面観音像などの白木の仏像があげられますが、これらの仏像はヒノキの木肌の美しさを愛でようとして、白木仕上げにしたものであることは言うまでもありません。この白木が彫られるためには冴えた腕と、ねばりのある美しい材料、そしてよく切れる刃物が必要です。この三拍子が揃ってはじめて生み出すことのできる結晶でしょう。この時代の特徴である飜波ほんぱ式衣紋の鋭いしのぎも、この三つの呼吸がうまく合わないと造ることのできないものなんですね。それにヒノキは彫刻用材として材質が均一で、春材と秋材の区別が少なく、刃当たりもなめらかで削りやすい。またねばり強くて欠けることが少なく、狂いも小さくて仕上がりが美しいから、彫刻師がひとたびヒノキを使うともはや他の木は使いづらいのではないでしょうか。あなたの経験からはどうですか。」

堂本: 「私もヒノキで仏像を彫りますが、確かに削っていて手応えは気持ちが良いものですけれど、刃物がよく研げていないとその良さが生かせないという点で、難しい素材でもあると思います。貞観期の仏像は量感も充実していますが、近づいてみるとノミ跡が今でも光っていてぞくっとすることがあります。」

小原: 「刃物についても当時は大きな進歩があったようで、山城付近から良質の砥石が産出されたことが、江崎政忠氏の『日本木材工芸』(昭8)でも報告されています。鋭利な刃物が生み出す貞観期の仏像をみていると、あの柔らかいふくらみと、鋭いしのぎはやはりヒノキ以外の材料では到底表現し得ない美しさだと思います。それは強くて奥行きが深く森厳な雰囲気をかもし出す密教の仏像にもっとも適したもので、わが国独自の木彫を発達させる基盤をかたちづくったものだと言えるでしょう。平安中期以降にはほとんど彫刻用材はヒノキになり、その後期になると定朝じょうちょうという大天才が現れ宇治平等院の阿弥陀如来像をヒノキの寄木造りで完成させると、この手法がその後の日本彫刻の基本形になっていくことはご承知のとおりです。この寄木造りによって分業が可能になり、自由な大きさと形状の彫刻をつくる造ることができるようになりました。これはまた従来の一木造りの制約から脱した画期的な技法であった訳ですが、それもまたヒノキの軽軟強靭な特質によって可能であったのだと言ってよいでしょう。」

堂本: 「なるほど。ところでこの平安時代前期にはヒノキ以外にも木彫像がありますね。」

小原: 「そうですね、私が調べた約750体の彫刻の樹種をおおまかに分類すると、1,針葉樹系、2.ケヤキ系(年輪に沿って大きな道管が輪状に並ぶ環孔材系)、3.サクラ系(小さな道管が全体に散らばる散孔材系)の3つに分けることができそうです。針葉樹系というはヒノキとカヤ。ケヤキ系はケヤキ、センダン、ハリギリ、クワ。そしてサクラ系はサクラ、カエデ、カツラ、クスノキ、ビャクダンなどです。広葉樹の環孔材は削った時に年輪が明瞭にあらわれるので木目が男性的で雄渾な感じを与えます。一方、散孔材は木目が緻密で女性的な感じになります。これらの広葉樹系の木肌は中国から渡来した仏像に倣ってわが国で一時的に流行したように私は考えています。つまり原型は中国にあってそれが日本でも造られたが、平安時代の中期以降になるとこの広葉樹系の仏像の流行はヒノキの主流の中に吸収されただろうということです。」

堂本: 「これまでお聞きしたのは中央における彫刻用材の流れについてですが、その当時の地方ではどのような木が使われていたのでしょうか。地方仏には広葉樹材を使っていたものもあったように思うのですが。」

小原:
「詳しいことはわかりませんが、私の所に集まった仏像の破片の範囲から推測すると、およそ次のようにまとめることができそうです。これは大胆な推測にすぎませんが、関東地方および東北地方の資料を整理してみると、右の図1のようになります(小原二郎「関東地方における木彫の用材」_久野健編『関東彫刻の研究』昭39および『美術研究』第211号、昭35)。
つまり平安時は中央ではほとんどが針葉樹のヒノキかカヤであったのに対して、東北地方はあなたの言うように広葉樹が多いようです。そして関東地方はその中間で針葉樹7に対して広葉樹3程度の比率ということになりそうです。」

堂本: 「東北地方で広葉樹材が多いのは、広葉樹が豊富だったので身近にある材を使って仏像を彫ったということなのでしょうか。」

小原:
「そう考えれば答えは簡単だけれど、私はそれには賛成できません。というのは信仰の対象とする仏像の用材を、身近にあるというだけで選択したとは考えにくいこと、それに、東北地方や関東地方では彫刻に適した針葉樹が乏しかったとも思えないし、その良さに気づかなかったとも考えにくいからです。もし許されるなら私は仮説として図2に書き込んだ斜め方向の矢印のような考え方を提案したい。つまり大和地方の用材の使い方が次の時代の関東地方の使い方になり、また関東地方の使い方が次の時代の東北地方の使い方に移っていったという考え方です。つまり中央の流行が時間の遅れをもって地方に移っていったという見方です。しかしこのような仮説が成り立つかどうかは今後の慎重な検討が必要だと思います。」

堂本: 「それはおもしろい見方だと思います。これからの研究に期待したいところですね。ところで今までの研究をとおして先生が課題として残されたものがありますか。」

小原: 「そうですね、現在の木材の使われ方から見て当然使用されていてもよいと思われる木があるのに、その作例が出てこないものがあることです。例えばイチイです。古くから神官のしゃくに使われていて、樹木中の最高の木であることから一位の名が出たと言われています。今でも飛騨高山の一刀彫りをはじめとして彫刻の適材として使われているのに、私の手もとにある破片の中には見あたりません。今もしイチイを神の木、カヤを仏の木というように当時の人達が信じていたと解釈すれば何となく納得できそうですが、そんなことが言えるかどうかわかりません。また、ホオノキやヒメコマツも、調査した中には出て来ていません。ヒバについても2体しかあらわれないで、それより加工がしにくくて狂いやすい広葉樹がかなり多く使われていることは、材質的に見てどうも理解しにくいところです。むしろ信仰との関係で考えた方が納得できるかもしれませんね。」

堂本: 「なるほど、確かに用材の材質から見ただけでは解決できない疑問点がありますね。これは将来に残された課題でしょう。では今回はこの辺で終わりたいと思います。どうもありがとうございました。」

語り手:小原二郎(こはらじろう)/千葉工業大学理事
    小原二郎先生の寄稿へはこちらから

1916年、長野県に生まれる
京都大学卒業、農学博士
千葉大学工学部建築学科教授、工学部長を経て名誉教授、千葉工業大学理事
人間工学、住宅産業、木材工学専攻
日本建築学会賞、藍綬褒章、勲二等瑞宝章
日本インテリア学会名誉会長ほか
著書「法隆寺を支えた木」(共著、NHKブックス)、「日本人と木の文化」(朝日新聞社)
  
「木の文化をさぐる」(NHKブックス)ほか

聞き手:堂本寛恵(どうもと ひろえ)
1973年千葉県生まれ。東京芸術大学 大学院 文化財保存学 彫刻修了。
現在、仏像制作を中心に古典彫刻の研究活動を行う。
平等院雲中供養菩薩像模刻プロジェクトアシスタント。
主な収蔵作品:京都 六波羅蜜寺 空也上人模刻像/千葉 玉王山寶珠院 日光・月光菩薩像ほか

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