同志社大学文化情報学会講演会

平成28年11月5日(土)午前11時〜午後0時30分
同志社大学 京田辺キャンパス 夢告館 MK302教室

絵解き講座・仏像で知るユーラシアの文化

そうやったんか!




はじめに

 
 ただいまご紹介を頂きました籔内佐斗司でございます。今日は、快晴の素晴らしいお天気に恵まれました。私は自他共に認める晴れ男なんですが、晴れ男の面目躍如でございます。でも、せっかくのいいお天気の日曜日なのに、こんなにたくさんのみなさまにお越し頂いて、たいへん恐縮しています。
 さて、私は大阪で生まれましたので、高校の同級生たちもたくさん同志社大学に進学しました。高校時代の私にとって同志社は、憧れの大学のひとつでした。しかし、私の学力では遠く及ばなかったものですから、しかたなく東京藝大に行ったというような悲しい過去がありました。ですから、今日はこちらで講演をさせて頂くということで、いささか緊張しています。
 さきほど、彫刻家とご紹介をいただきましたが、ご覧のような「童子(どうじ)」と呼ぶキャラクターの彫刻作品を造っています。材質は、ヒノキ。それに漆を塗りまして、日本画の顔料で彩色をするという仏像と同じ技法で造っています。この童子は、普通の子どもではなくて、いのちの象徴、大自然のエネルギーであるという風に考えています。
 今映っている作品は、「知足童子」といいます。古銭を模したデザインは禅寺の蹲(つくばい)で有名ですけれども、真ん中の四角い部分を「口」と見立てて、上から右回りに「吾(われ)、唯、足るを知る」と読みます。お釈迦さまは、「足るを知れ」という遺言を残されたそうです。足るを知ることによって満ち足りた気持ちになり、感謝のこころが起こり、幸せになれるという仏教の神髄を教えてくれる童子というわけです。

 これは「恵比寿童子」、「えべっさん」ですね。大きな鯛を釣っています。こんな童子の作品を30年以上造っているわけです。
 このように、私は日本的なテーマ、日本人の精神世界や仏教的な世界観を基礎に作品を造ってきました。それは、若いときに仏教の研究や仏像修復を経験したことに強く影響を受けているのだと思います。
 しかし、講演会などで「私は彫刻家です」とか、「東京藝大で仏像の古典技法やら修復を教えていますよ」と自己紹介しても、お客さまの反応がいまひとつ鈍いのです。しかし「奈良のせんとくんを造りました」と紹介すると、皆さん、「おおっ、そうですか!」というふうに急に食いつきがよくなります。嬉しいような寂しいような複雑な心境なのですけれども・・・。


せんとくんは菩薩

 
 さて、このせんとくんは、2010年に奈良県が開催した平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターとして私がデザインしました。発表当時、マスコミなどで賑やかに騒いで頂きましたので、その後の展開が大変楽しくなりました(笑)。
 ご覧のように、童子形(どうじぎょう)の裸の姿で、頭に鹿の角を生やしています。「何で頭に鹿の角を生やしてんねん」とか、「あのたすきは何やねん」とか、いろいろご指摘を頂きました。もちろん全部、理由があります。この子は菩薩なのです。というわけで、今日は、菩薩とは何かということからお話をしてまいりたいと思います。  せんとくんの眉間には仏さまの標しの白毫(びゃくごう)もあります。これは、眉間に生えた一本の長い白い毛です。それが巻き毛になっていて、引っ張るとビューッと長く伸びて、手を放すと、形状記憶合金みたいにくるくるくるっとバネみたいに戻って山型になるのだそうです。ですから白毫は渦巻き状に表されます。
 耳の形状は耳朶環状(じだかんじょう)といいます。耳たぶに大きな穴が穿いていて輪っかのようになっています。現代でいうピアスの穴です。それから、腕や足に嵌めている輪は、釧(くしろ)という装身具です。腕の釧、手首の釧、足の釧、それぞれ腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)といいます。そして赤いたすき状の布は条帛(じょうはく)。1枚の帯のような長い布です。また腰を覆っている赤い布の下が裙(くん)という、いわば巻きスカートですね。せんとくんのこういう姿は、古来インドのクシャトリヤ、王族・士族階級の姿に基づいているのです。
   
 頭の上に何で鹿の角があるかという話を始めると、講演会が二回くらいできるほど深い理由があるのですが、今日は簡単にかいつまんでお話しします。平城京を造営したときに、興福寺とともに春日社が造営されましたが、そのときに常陸の国の鹿島神宮からタケミカヅチノカミ、下総の国の香取神宮からフツヌシノカミが、白鹿に載って平城京に守護神としてお渡りになりました。その神鹿の末裔が奈良公園の鹿であるということにちなんだのが第一の理由です。そしてもうひとつの理由が、お釈迦さまがこの世にお生まれになるまでに500回の生まれ変わり死に変わりの輪廻転生をしてきたという伝説『前生譚(ぜんしょうたん)』のなかで、さまざまな動物にも転生したと書かれています。そのひとつに、鹿の王さまであった時代があったという「ニグローダの鹿王の伝説」があります。妊娠した雌鹿を命がけで救った鹿王の物語です。のちに、お釈迦さまが最初の説法をした場所が、その時に救われた雌鹿の子供たちの末裔が見守るサールナート(鹿野園)でした。そして、お釈迦さまの死後にその姿を象った仏像は、500回の輪廻転生した動物や人々の片鱗をその身に全部宿しているということが説かれるようになりました。菩薩の姿であるせんとくんの頭の上に鹿の角が生えているのは、こういう神仏の伝説に基づいた二つの深い深い理由があったのです。

 というわけで、せんとくんは菩薩なんですが、では「菩薩って何ですねん」ということになります。そこで仏教が説く世界観のお話しをします。この世の真理を見極めて仏陀(覚者)となった釈迦を「如来(タダーカタ、如・真理より来たりし者)」ともいいましたが、後の大乗経典で、真理(如)を擬人化して神格化したものも「如来」と呼ぶようになりました。ではこの如・真理とは何かというと、「如は法」と説かれ、今風にいえば宇宙の大法則という意味になります。ですから法は、目に見える存在ではありません。すこし極端なたとえですが、地球が1回自転するのに24時間かかりますよね。お月さまが地球の周りを回って新月から新月になるまでに大体30日かかる。そして、地球が太陽の周りを回るのにおよそ365日かかるという法則に従って太陽系は動いています。でも、そこから割り出された規則性(時間)は目に見えません。そこで時間を視覚化して、人間社会が円滑に動くように時計や暦を発明したわけです。ちょうど時間の概念と時計や暦の関係が、如来と菩薩であると例えることができると思います。ですから、この世を成り立たしめている法則が如来であって、その如来の法則が具体的に目に見える姿で顕れ、しかも、衆生を済度し功徳(くどく)をもたらしてくださるものが菩薩であるという風に説明することができます。菩薩のなかで最も有名なのは、『法華経』が説く観音菩薩と、『地蔵十輪経』などが説く地蔵菩薩です。この菩薩は、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という六つの境涯(六道)のなかに住むわれわれ衆生の苦しみを取り除いてくださると説いているわけです。これが仏界と六道輪廻の世界観。



変化(へんげ)するせんとくん

 

 さて、せんとくんが公式キャラクターを務めた平城遷都1300年祭は、2010年に終わりました。私は、せんとくんはその後、どうなるのかなと心配をしていました。そうしたら知事さんから、「奈良県の職員として採用したい」と言われました。それはめでたいことだと、私は奈良時代の役人の衣装を着た「官服せんとくん」をプレゼントしました。

 先ほど言いましたように、菩薩は、さまざまに変化(へんげ)するもの。観音さまは、三十三身に変化し、六道界では六観音に変化します。お地蔵さまも六地蔵に変化して顕れ、また地獄では怖い閻魔さまに姿を変えて死者を裁きます。怖い閻魔さまは、ほんとうは優しいお地蔵さまなんですよ!このように、この世で起こるすべての出来事に菩薩は縦横無尽に対応して変化するわけですから、せんとくんも必要に応じてどんどん変わっていくわけです。
 農水省が音頭を取って各県で持ち回りしている「豊かな海づくり大会」というイベントがありますが、平城遷都1300年祭のあとに、奈良がその当番県になりました。そのときには、このような「海づくりせんとくん」をデザインしました 。
 「海のない奈良県で、何で海づくりなんや?」と言われたそうですが、豊かな沿岸漁業は、じつは滋味豊かな山や里から流れ出す養分が川を通って海に注ぐことによって、豊穣な海が出来上がる。例えば大阪平野には、琵琶湖を水源とする淀川と、大和盆地を源流とする大和川が流れていますが、茅渟の海と呼ばれた大阪湾の豊かな海の幸は、近畿地方の山々と、この二つの川によって育まれたものなのです。
 来年2017年には、国民文化祭が奈良でおこなわれますが、そのために変化したのが紋付き袴を着た「国民文化祭せんとくん」。あまたあるゆるキャラ、マスコットキャラクターのなかで、紋付袴をはいて、鼓を打って、正座ができるのは、せんとくんだけであります。
 ラグビーのワールドカップ開催が決まりましたが、奈良県ではそのキャンプ地を誘致しようとしています。そこで、こうやって「ラグビーせんとくん」に変化したわけですね。

 大和の国で、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が相撲を取ったという神話が残っていることから、相撲発祥の地は奈良であるといわれています。そこでそのことをアピールするために、せんとくんはまた変化して「おすもうせんとくん」になりました。

 このようにせんとくんは、これからもどんどんバージョンアップしていくことと思います。
   

仏教って何?

 

 同志社はもちろんキリスト教の学校であることは重々存じ上げていますが、今日は仏教のお話にお付き合いをいただきたいと思います。
 2月15日、4月8日、12月8日、いずれもお釈迦さまゆかりの日です。何の日だか分かりますか?
 まず2月15日。
 ・・・そうです!涅槃(ねはん)の日。お釈迦さまが亡くなった日ですね。今は、2月14日のセントバレンタインデーというチョコレート屋さんが喜ぶ日の方が有名ですね。でも、その翌日の2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになった日なのです。
 では4月8日は何の日でしょう。
 ・・・ええ?誕生日?そうですね。大半が仏教徒といわれるわが国でありながら、なぜか12月24日の晩のほうが有名ですけれども、4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日ですね。
 では12月8日は何の日でしょう。
 ・・・太平洋戦争が始まった日?違うんですよ。欧米では、時差の関係で太平洋戦争が始まったのは12月7日です。12月8日は、お釈迦さまがこの世の真理を悟られた成道(じょうどう)の日と言われています。
 2月15日は涅槃会(ねはんえ)。涅槃(ニルヴァーナ)は、肉体を纏って生きていくことの苦しみからすべて解き放たれ、霊魂がこの上なく穏やかな境地になること。これを、入寂(にゅうじゃく)とも言います。4月8日は、お釈迦さまがお生まれになったことをお祝いする誕生会(たんじょうえ)。灌仏会(かんぶつえ)とか花まつりともいいますね。そして、12月8日の成道会(じょうどうえ)は、お釈迦さまがこの世の真理を見極められた日です。仏教信者かどうかは別として、日本人の教養として、一応これらの日くらいは覚えておきたいものですね。
 それでは、釈迦が悟った真理とは一体何だったのでしょうか。これには諸説あるのですが、私は二つあると思います。一番目は、あらゆるものごとが起こってくる法則を極微のレベルで見極められた。これは事象・現象が生起する仕組みをミクロ的に理解されたのです。二番目は、事象・現象の生起する仕組みをマクロ的に宇宙の原理として見極められた。この極大と極微の仕組みの総体を真理・法というのです。何のことはない、今の科学者が追求している科学的真理を、2500年前に、お釈迦さまが修行と瞑想の末に見極めたんだという風に言えると思います。
 そして、その宇宙の原理である法(ダルマ)を擬人化して、ほかの宗教で創造主や神と呼ぶように、大乗仏教では毘盧遮那(ビルシャーナ)、密教では大日如来という尊格で呼んでいます。そして近現代の科学者や哲学者が追求している科学的真理や倫理観と同じものなのです。

   

仏教と仏像

 
 では、お釈迦さまが始めた仏教なのだから、お寺にはお釈迦さまだけを祀ればいいのに、何で釈迦像のないお寺が多いのか。教会に行ったら、大体、十字架に架けられているキリストさまの磔刑像か、あるいはその象徴である十字架が飾ってある。分かりやすいですね、キリスト教なんだから。だけど、お釈迦さまの宗教なのに、何でお釈迦さまを祀っていないお寺があるのでしょう?その理由を今からお話しします。
 釈迦教団は、お釈迦さまが亡くなってしばらくして二つに分裂します。お釈迦さまが生きていた頃の教団を理想とする保守派の系統と、ほかの宗教も融通無碍に取り込んでいこうとする改革派の系統。このふたつが、のちに教団上層部を意味する上座部(テーラワーダ)仏教と、大きな乗りものという意味の大乗(マハーヤーナ)仏教の二つの流れとなります。日本に伝えられたのはさまざまな宗教や文化を取り込んだ大乗仏教の方。こちらは、お釈迦さまが弟子を指導するために説かれた例え話や、大自然の現象などをそれぞれに仏像という擬人化したかたちで表現をしているので、大乗仏教の寺院には本当にたくさんの仏像が祀られているわけです。
 まず最もポピュラーな大乗経典である『阿弥陀経』が説く阿弥陀さまは、西の彼方にある極楽浄土の教主であり、『薬師経』が説くお薬師さんは、東の彼方にある薬師瑠璃光浄土の教主。『法華経』は、南方海上にある補陀落山(ほだらくさん)という観音菩薩の浄土を説いています。
 大乗仏教は、バラモン教という古代インド神話の神々を取り入れました。またその後、バラモン教が宗教改革して成立したヒンドゥー教という神秘主義で呪術的な宗教に影響を受けて密教が成立しました。この密教でも、おびただしい尊格が想起されました。初期密教には多面多臂(ためんたひ)の観音さま。十一面観音、千手観音、不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)などがあります。そして、唐で大変盛んとなり空海さんがわが国にもたらした真言密教は、中期密教とされます。中期密教の尊格は、大日如来を頂点として、不動明王を中尊とする五大明王や、愛染明王、孔雀明王など多くの「明王」を祀りました。そして後期密教では、中期密教がインドからチベットに伝わって非常に盛んになりましたが、たいへん妖艶な如意輪観音(にょいりんかんのん)とか、象の頭の尊格が抱き合っている聖天(しょうてん)さんのような極めて性的でエロチックな仏像やタンカという絵画が多く造られました。
 このように、お釈迦さまが始めた仏教ですから、釈迦を本尊とする法相宗や禅宗のような寺院がある一方、阿弥陀さんやお薬師さんや観音さんという大乗仏教系の諸尊を表現している寺院があり、そして、目に見えない霊性から生まれるスーパーパワーを表現した諸尊を祀っている密教の寺院がある。わが国では、さまざまな宗派が統一されることも廃されることなく現代まで法灯が守られてきたために、寺院には仏像がたくさん祀られているわけです 。

 
   

大乗仏教の世界観

 これは釈迦の『大涅槃図』です。2月15日に亡くなったときの様子を私が漫画にしたもので、お釈迦さまは真ん中で、「ほな、おやすみ」と安らかに死んでいこうとしています。仏教において、死ぬことは決して悲しいことではなく、祝福すべきことなのです。なぜなら、生きていくうえでの苦しみから解き放たれた幸せの日だからです。それがよく理解できていない修行の足りない弟子や動物たちは、涅槃図のなかでわんわん泣いています。ですが、お釈迦さまの思想を深く理解している高徳の弟子や菩薩たちは、穏やかな表情でお釈迦さまを見送っている。このような涅槃の情景を、彫刻の群像として完全に残している寺院はほとんどありませんが、奈良の興福寺にはその出演者たちの多くが残っています。十大弟子や、四天王やバラモン教由来の梵天・帝釈天などの天部衆や、阿修羅を始めとする八部衆などが祀られています。そしてお釈迦さまの次に、八番目の仏陀としてこの世に出てくると考えられた弥勒菩薩(みろくぼさつ)もいる。こういう風に、釈迦とその周辺の尊格を祀っている代表的寺院が奈良の興福寺や法隆寺というわけです。
 次に、大乗仏教。お釈迦さまが活躍したのはインド亜大陸です。だけど、仏教が、ガンダーラから北西の方へ、さらに東の方へ発展をし、どんどん拡がっていくことによって、「この世はインドだけではないぞ」と、「東の彼方や西の彼方にはどうも別の浄土があるらしい」と。浄土というのは、それぞれの「この世」という意味です。東の彼方の浄土からは、毎月お日さまやお月さまや星々が生み出されている。だから命を送り出す瑠璃色の遣送の浄土・薬師浄土がありますよと。そして、一日の仕事を成し終えたお日さまやお月さまのような星々が西の彼方へ沈んでいきます。西の彼方には命を迎え取ってくれる金色に輝く極楽浄土、あるいは死者の魂が往生する阿弥陀浄土があるのだと。

 このように、私たちは釈迦浄土に暮らしているけれど、東には薬師浄土があり、西には阿弥陀浄土があり、そのほかにも複数の浄土がパラレルに存在するということが説かれるようになったわけですね。やがて、釈迦浄土のほかに無数の浄土があり、その総体を広大無辺の如来とした毘廬遮那(ビルシャーナ)であるという「華厳蔵(けごんぞう)」という宇宙観を説いたのが『華厳思想』です。「蔵」は、サンスクリット語のガルヴァの意訳で、さまざまな衆生を生み出す女性の子宮を象徴化させた意味を持たせています。
   
 この図は華厳の世界観を私が漫画にしたものですが、華厳蔵世界を表現した代表的寺院に東大寺の大仏殿があります。東大寺の大仏さまは、1300年前の天平時代につくられたお像ですけれども、二度も戦火で焼け落ちました。ですから天平時代に造られた部分は、蓮弁のごく一部分だけですが、その蓮弁には、華厳蔵世界を表現した線刻画が描かれています。中心に大仏さまがいらっしゃって、大仏さまを守っているさまざまな如来や菩薩がいる。そしてそのほかに無数の浄土という意味の「三千世界」を説いています。このように、大乗仏教とは宇宙論を説いているのです。ハッブル望遠鏡ができて、銀河の外にも無数の銀河が存在することが証明されたのはつい二十年ほど前のことですが、大乗仏教は二千年前からそのことを説いていたわけです。かつてキリスト教世界では、大地は平らで、その上の天球をお日さまやお月さまやお星さまがぐるぐる回っている「天動説」だと信じられていました。ところが、16世紀の天文学者が望遠鏡で宇宙を観察してみたら、どうも地球は丸いらしいぞと、お月さまが地球の周りを回っているらしいぞ、そして地球自体が太陽の周りを回っているらしいことがだんだん分かってきました。このときにキリスト教圏では、宗教裁判まで開かれるほどの大騒ぎになったそうですね。そして現代になって、私たちの太陽系は、無数の恒星系が寄り集まった銀河系の一部だということが分かった。そしてハッブル望遠鏡で、銀河系の外の世界まで見えるようになったら、われわれがいるこの銀河系みたいなのが数え切れないぐらい大宇宙にはあるんやと。そういう入れ子状態になっているのが宇宙であって、われわれは芥子粒にも満たないようなちっちゃいものだということ。これは、まさしく華厳蔵思想と同じです。
 華厳蔵思想の一方で、如来蔵思想というのがあります。バラモン教では、すべての衆生を創造神であるブラフマン(梵天)に対してアートマン(自我)というものがあると説く。大宇宙のブラフマンと、一人一人の衆生が持っている自我(アートマン)には、それぞれに地・水・火・風・空という五大を宿しているというのが如来蔵思想です。五大というのはあとで説明しますが、ともかく五大が宿っていると。このように、マクロ的には華厳蔵、ミクロ的には如来蔵ということで、すべての生きものが包含するアートマンには五大があるというのを「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、すなわち、すべての事象・現象は、ことごとく仏性(五大)が生々流転することによる現れである。これは、バラモン教のブラフマン(=梵)、すなわち大宇宙と、アートマン(=我)、すなわち衆生は、本来は一つなんですよという「梵我一如」思想に根ざしている。ですから大乗仏教というのは、バラモン教あるいはヒンドゥー教のひとつの流れに位置する宗教と言えるでしょう。
 日本のお寺にはなぜあんなにたくさん仏像があるのか、多少はご理解頂けたでしょうか。そして、せんとくんが菩薩の姿をしているということの意味もおわかりいただければ幸いです。
 
   

仏さまのすがた

 
先ほど、お釈迦さまは、500回の輪廻転生をしてこの世に生を受け、その片鱗をすべてその身体に宿しているんですよといいました。これは、ダーウィンの進化論を先取りしているように私には思えます。そして、お釈迦さまは全身が金色に光り輝いていたというのですね。ですから仏像は大体金箔を貼って仕上げをしたわけです。今は、剥がれたり煤で黒くなっていますけれども、多くの仏像は造られたときにはぴかぴかの金色でした。しかも髪の毛を群青色に塗ったのです。でも、「お釈迦さまはインド人だから髪の毛は黒いのと違うの?」と言われそうです。しかしお釈迦さまは実は、アーリア系のインド人だったと考えられたようです。アーリア人というのは古代イラン地域の人々の総称で、「紫髭碧眼(しぜんへきがん)」。髭や髪の毛は紫がかった灰褐色、あるいは赤褐色で、碧眼の人が多かった。だから、第二次世界大戦のナチスは、自分たちゲルマン人の源流はアーリア人だという怪しげな学説を打ち出したわけです。大乗仏教はインドだけで完成したのではなくて、中央アジアのアフガンやイランの地域で大きく発展しました。彼らとしては、お釈迦さまは自分たちと同じように青っぽい髪の毛で碧眼だったと考えたわけです。キリストは黒目、黒髪のセム語族系(ユダヤ・アラブ系)のはずなのに、ヨーロッパで造られたその肖像は金髪で青い目の白人の容貌で表現されたのと同じですね。
 その後、仏像には三十二種類の特徴(三十二相)があるとされました。足の裏は、象の足の裏のように扁平足。男性器は鞘に入って隠れている。牡の象とか獅子とか牛などの性器はむき出しになっていないですね。それから足の甲が盛り上がっているのは亀の特徴。ふくらはぎは鹿のように細く、強靱で美しい。それから、まっすぐ立ってもお猿のように膝がなでられるぐらい腕が長かったともいいます。事実、平安時代初めの観音像では腕がやたら長く表現されました。また、指の間には水鳥とか水生動物のような水かきがある。それらは、衆生を一人残らず救うためだとお坊さんは説明しますが、水掻きの説明はあと付けの方便。石を刻んで仏像を造っていた頃に、手先のような細かい部分が欠けないように、指の間をつなげたまま彫り残した形状を、木造で造る際にも継承しただけです。
 それからお釈迦さまは、舌がやたらに長かったそうです。自分の顔がペロンとなめられるぐらい長かったというのですが、これは牛ですね。ほかにもいっぱいありますが、それら全部を一体の彫刻で表現したら怪物になります(笑)。ですけれども、化け物にはならないようにうまく隠して造ったわけですね。
 お釈迦さまの姿には、菩薩形(ぼさつぎょう)という出家前のクシャトリア・王族の時代の姿のものと、出家した後の如来形(にょらいぎょう)があります。菩薩形は王族ですから、美しく髻(もとどり)を結い上げ、裙と条帛、天衣(てんね)などをまとい、冠、装身具、腕釧、臂釧、足釧をつけている。それに反して、出家修行者になったお釈迦さまは、頭部を私のようにくりんくりんに剃髪した後、修行を続けるうちに、髪の毛が伸びてボサボサになって煩わしいから、頭の上で無造作にギュッとしばったのですね。その姿というのがこういう形になっていますが、長い間に形式化されてお椀のような肉髻(にっけい)とカタツムリのような螺髪(らほつ)に変わるのです。面白いですね。着ているものは衲衣(のうえ)という一枚の大きな布。これはガンダーラと日本の仏像を比較したものですが、このように変わっていったわけです。
   

ストゥーパ(卒塔婆)

 
 
 さて、お釈迦さまが亡くなったときにたくさんの遺言を残されました。そのひとつが「私は法を説いただけであるから、自分を神格化してはならない。だから自分の遺骨は川に流しなさい」。そして「自分の姿を絵画や彫刻として象ってもいけない」ともおっしゃったのです。
 だけど、お釈迦さまが亡くなったあとに弟子たちは、「やはりお釈迦さまの遺徳を伝えたい」というので、お椀型のお墓を造営して遺骨(舎利)を納めました。これをストゥーパといい、後に中国で卒塔婆と漢字を当て、舎利塔と意訳しました。

ストゥーパ
 お釈迦さまが亡くなったあとで全インドを統一したアショーカ王が、仏教をとても大事にして、それまでバラモン社会だったインドを仏教の国にしました。そしてアショーカ王は、釈迦の遺骨を各地に分骨し立派なストゥーパに造り、欄楯(らんじゅん)という柵を巡らせて、東西南北には門を造りました。やがてそこにお釈迦さまの一生を浮き彫りにしたレリーフが彫られるようになりました。これが仏像の発祥です。卒塔婆のてっぺんには、傘蓋(さんがい)という日傘が立ててあります。日差しの強いインドでは、日よけの傘が権威の象徴です。そして、ここに伏鉢(ふくばち)というドームがあり、欄楯があるわけです。日本の五重塔のような仏塔も、釈迦の遺骨(舎利)を納めた卒塔婆の一種です。てっぺんには傘蓋が変化した相輪もあります。伏鉢はこの部分です。基本的にはインドのストゥーパと同じでしょ?多宝塔であっても五重塔であっても、起源は釈迦のお墓である卒塔婆なのです。
 そして、そのストゥーパの周りの欄盾には、お釈迦さまの一生を描いた浮き彫りが飾られたように、法隆寺の五重塔の初層には、お釈迦さまの一生を表した塔本四面具(とうほんしめんぐ)という塑造のジオラマ群像が安置されました。釈迦涅槃の情景では、大声で泣いている羅漢さんや阿修羅もいます。これだけでなく、法隆寺にはお釈迦さまの一生を表現した仏像がたくさん残されています。
多宝塔

五大の話

 
 この画像の右側は、お墓に立ててある卒塔婆ですね。左側のは五輪塔(ごりんとう)です。  
 四角と丸と三角と、てっぺんには宝珠のようなものが載っています。これがこの世の事象・現象を生成する五つの要素・五大を表しています。基本は、卒塔婆の切れ込みも同じもので、五大の「地・水・火・風・空、(ア・バ・ラ・カ・キャ)」を表現しています。  五大について説明をいたします。五大の「地」は目に見え、触ることのできる個体の物質です。そして「水」は液体や流体の総称です。「火」は化学反応や酸化現象。「風」は気体の圧力や音のこと。そして「空」は不可視の非物質であり、水・火・風が生々流転する空隙のことです。
 ヒンドゥー教や仏教では、五大のそれぞれに尊格を与えました。「地」を擬人化して名前をつけた尊格が地蔵菩薩(クシティガルヴァ)。ガルヴァというのは子宮のことです。さまざまなものを生み出してくれる大地の性質を表し、個体、鉱物、有機物から形成され、生命体の肉体も地の性格を持っています。「水」は、油なども含む液体や流体の総称ですね。尊格で言うと、龍神とか弁財天とかいろいろあります。「火」は、化学反応とか酸化、発酵、腐敗なんかのことですね。われわれの体の中でも生々流転は起きているわけです。天空では、雲や雨や雪や風、雷神とかが暴れ回ります。そして「空」は、こういう水・火・風がさまざまな現象や事象を生み出している虚空の舞台です。非物質であり目に見ることができない「空」の尊格として、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・アーカーシャガルヴァと名付けられました。ですから、地蔵菩薩と虚空蔵菩薩は、本来は一対のものであったわけです。

 そして、五大のうち、地が空を覆うと生命体(衆生)が出来上がる。そして、風が地を覆うと星(浄土)となる。ちょっとややこしいですが、この話をします。
 この地平線を境にして空と地に分かれます。地には、お地蔵さん・クシティガルヴァがいる。地平線の上には空があり、虚空蔵菩薩・アーカーシャガルヴァがいる。そしてそれらを舞台にして、火と風と水が、ぐるぐるぐるぐると生々流転して、事象・現象が惹き起こされている。そして周りにたくさんの種のようなものが描いてありますが、われわれ一人一人の生命体(衆生)だと思ってください。衆生において、地は肉体のことで、空は肉体に覆われた身体の中の虚空・空洞のことです。そして、その虚空で火の精、風の精、水の精がぐるぐる回って代謝していると、これが生命活動です。

大宇宙も星も衆生もみな五大  
 
 地が空を包むと、生命体・衆生になります。地(肉体)が、外界と生命体とを仕切っているわけです。この図は、生命体の外側にも内側にも地・水・火・風・空があるということを説明しています。
 不気味な絵が出てまいりました。これは生命体の模式図。実はインドの古代文書には、生命体の説明をするのにこんな風な不気味な図像が出てきます。赤茶色の部分は、地=肉体です。その中に虚空が包み込まれています。
 そしてその中で、風・水・火がぐるぐると生々流転している。五大が回っているから、五輪ですね。そして、口から別の小さな五輪を摂取している。すなわち食べることによってそれが分解されて、この中で動いている五大と同化します。五輪は完璧ではなく、個々には不完全でいささかいびつですから、生々流転仕切れずに出てきた不純物(垢)が排泄物になります。そして、衆生は遺伝子を残し子孫を増やそうとする本能もありますので、新たな命・五輪を生みだします。そしてこの肉体の一つ一つにも、五大が宿っている。これが生きもの、即ち衆生になるのです。このように、お釈迦さまが悟った真理をミクロ的に見ていったら、地が空を覆って生じる衆生のなかで五大が生々流転しているわけです。
 そして、私たち衆生が、地によって取り込まれても、われわれの体内で生々流転している五輪の特性・癖、すなわちアートマン=自我は、外のブラフマン=大きな五大と、常に接触をしたいと思うわけですね。その接触をしようとする方法や意思の特性を研究したのが、「唯識(ゆいしき)」という学問です。山伏が山を登るときに「六根清浄、六根清浄」と言うでしょう。六根清浄というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意のことで、肉体の各器官とこころですね。外の世界の六境、色境、声境、香境、味境、触境、法境という外の世界の刺激を、この六根という器官とこころを通じて、それぞれのアートマン=自我が正しく認識をすることで、正しい眼識から意識までの六識になる。そして、唯識では、実はこれで終わらないで、意識の奥には、無意識、末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)という深層意識があるとするんですよ、しかもそのいずれもが、五大が「縁(条件)」によって仮に和合した一時的な顕れにすぎない、ということを研究している。こんな難解な思想を現代に継承しているのが、奈良の寺院では興福寺や薬師寺で、宗派としては法相宗と言います。
 ちょっと仏教のイメージが変わりましたか?こんなことを踏まえたうえで、機会があれば『般若心経』を読み直してください。「そうか、般若心経とは、こんなことを言ってたんかいな」と気がつかれると思います。唯識についての話は限りがないし、付け焼き刃ではぼろが出そうなので、このぐらいにしておきます。  
   

華厳蔵と如来蔵

 
 このように、大きなクシティガルヴァ(地蔵菩薩)とアーカーシャーガルヴァ(虚空蔵菩薩)に包まれたこの世に住んでいる衆生は、それぞれの体内に小さな五大を秘めて生きています。この考えを「如来蔵思想」と言います。すなわち、すべての衆生の中に、如(=本来の五大)に還ろうとする仏性(=小さな五大)を備えているんですよという考え方ですね。これを「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」といいますが、どっかで聞いたことがあるでしょう?  

 次に、今度はマクロの話をします。「風」が「地」を包むと星になります。分かりますよね。
 そして、星は沢山の衆生が生きる一つの「浄土」を形成します。そこに、われわれ衆生の暮らしがあるわけですね。そしてこの世をマクロ的に見たときには、無数の太陽系で銀河系が形成され、その外には無数の銀河系が存在するという宇宙観と同じように、この世には浄土が無数にあるというのが「華厳蔵思想」で、その教えが「華厳宗」で、宗派とするのが東大寺です。  つぎは仏教論というよりは、数学の話。古代のインド人が見つけたとされるゼロの概念は、実は五大から来ているのです。ゼロというと、普通、「無」と考える人が多いのですが、実は五大で言うところの「空(シューニャ)」なのです。
 自然数では、例えばこの箱の中に卵が一つもなければ卵は無です。卵を一個入れたら自然数の1になります。卵を五つ入れたら自然数の5になります。一つずつ取っていけば、箱の中に卵はなくなります。無です。でも、箱の中に卵は無いけれどあらゆるものを存在させることができる「状態」にあると考えて「空=0」としたのです。
 
 整数においては、ゼロを中心にして−1、−2、−3、・・・-∞と1、2、3、・・・∞と、正と負が無限(infinity)に続きます。それぞれにマイナスの無限大、プラスの無限大があるのです。このゼロが先ほど申しました、「ガルヴァ・蔵」。あらゆるものを生み出す女性の子宮のような「0=空」という概念を、古代のインド人が見つけたわけです。この空の概念のおかげで、正・負とか小数点や分数、微分・積分という高等数学が生まれたわけですね。そのおかげで、私は中学や高校時代に数学で大いに悩まされたのです。ゼロというのは、無(nothing)ではなくて空(emptiness)なんだということをひとつ覚えて帰っていただきたいと思います。
   

ほとけの来た道

 
 さて今日は、ずっとインドの話をしてきましたけれども、ユーラシアの話をしなければいけません。一般にシルクロードと言いますと、ローマから西安までの陸のルートのことを言います。NHKの番組や平山郁夫さんの絵とかで有名です。
 インドで生まれた仏教も、インドの北西部のパキスタンから北へ上がり、イラン、アフガンなどの中央アジアを通って、キジル、敦煌などの西域を通り、中国に入ります。私たち日本人は、「奈良がシルクロードの終着駅だ」といいますよね。でも中国の人は、絶対にそうはいいません。「シルクロードは西安までだ」と。そこから先の朝鮮半島や日本への道は、「経典や文化が運ばれたブックロード」なんだと言います。それも一方通行で。「日本から何も来てないよ」と、「日本は持って行っただけやないか」と。確かに一理あると思います。
 ちょうど奈良で正倉院展をやっていますが、正倉院には、このブックロードを通って来た文物が残っているわけですが、これだけのものがこの東の彼方にあるというのは、このシルクロードを通ってユーラシアを横断してもたらされたものです。ユーラシアとは、ヨーロッパとアジアを合わせた「ユーロアジア」から来ている言葉ですから、このローマから、中央アジア、インド、中国、朝鮮半島を通じて日本に到達した文化の総体がユーラシアの文化であるわけです。シルクロードの終着駅ではなかったとしても、ユーラシアの東の端であることは確かで、しかもユーラシアの精髄がほぼ完全な形で残されているのです。
   

ガンダーラとマトゥラー

 
 インドにおいて仏像がほぼ同時に発祥したと考えられる地域が、二つあります。石材の産地であったガンダーラとマトゥラー。これは紀元前後のことだそうです。ガンダーラはインド西北部の山岳地帯で、今のパキスタンに属し、アーリア人の特性が強いといわれます。アーリア人は、古代イラン人のことですが、鼻が高くて、目が青くて、髪の毛が柔らかくウェーブしている。ここでは、ヘレニズム文明が花開き、ギリシャやローマ風の仏像が造られました。寒冷な山岳地帯なので、厚手の布で両肩をしっかり包んだ装束の像が多く見られます。
 そしてインドの中西部にあるマトゥラーは、世界四大文明のインダス文明をつくった先住民族・ドラヴィダ人の血が濃い人々だったと言われています。アーリア系に比べて小柄で色が黒くてずんぐりしている。鼻梁が低く、髪の毛が縮れています。螺髪の起源は、恐らくドラヴィダ人の特徴から来ているのではないかと思います。彼らと共通する遺伝子を持った人たちは、スリランカやアフリカ東海岸のマダガスカル、東南アジアのニューギニアにまで広まっていると言われています。マトゥラーは温かい所ですから、造られた仏像も薄い布を纏った半裸の姿が多いのが特徴です。ガンダーラにせよ、マトゥラーにせよ、地域によって、仏像の顔や姿は変わってくるのですね。
   

アーリア人と西域人

 
 私は、イラン・イスラム共和国第6代大統領のマフムード・アフマディネジャードさんの写真を見たときに、すぐに思い出した彫刻があります。これ。よく似ているでしょう。これは伎楽面(ぎがくめん)と言います。伎楽面というのは、飛鳥時代から天平時代にかけて、奈良の寺院で盛んにおこなわれた仮面芸能です。このお面は、酔っぱらったイラン人の従者という意味で「酔胡従(すいこじゅう)」と言います。こんな大きな仮面をかぶって滑稽な仕草で行列をした仮面劇を伎楽といいます。
 現代のイランの人たちは、男性も女性も魅力的な顔立ちが多いですね。いわゆるイケメンとか、吸い込まれるような美人。やはりこの辺りでできた仏像というのは、日本人から見ると造形的にすっきりしていて素晴らしい。
 これがインドからパキスタン、アフガニスタンを通って、中央アジアのほうへ行きますと、人々の顔もだんだん変わっていきます。これは新疆ウイグル自治区の人の顔です。この辺りの仏像は、アーリア人と東洋人がまざったような顔をしています。そして次、同じような新疆ウイグル地区の女性で、きっと偉い人なんだと思いますが、この辺からは、この人にそっくりの顔をした仏像が発掘されるのですね。雰囲気が似ていますね。不思議なものです。このように造形物というのは、自分たちの姿を模して造るのですね。
   

東南アジアから中国

 
 この仏像は、14世紀スコタイの仏頭。非常に穏やかな優しいお顔をしておられます。タイの女性も、やはり穏やかな優しい顔をしていますね。
 カンボジアの人は、ややいかつい感じですね。右側の人の顔をよく見といてくださいよ。はい!アンコールワットの有名な神像です。(会場笑い)ね。やはり彫刻というのはこのように、その土地土地の人たちの姿を映すものなのですね。
 さあ、いよいよ仏教がユーラシアを通って中国に入ります。われわれは、中国はひとつの大きな国だと思いがちですが、歴史的にはそうではないのですね。北の黄河流域と、南の長江流域と、大きく南北の文化圏に別れます。三国時代は魏・呉・蜀と三つの国が覇権を争った時代です。黄河流域は魏の国。そして長江はものすごく長い川で、上流域には蜀の国。唐辛子などをたくさん使う辛い料理の四川省ですね。長江下流の揚子江流域は、陸と海の通商で大きな経済力を持っていた呉の国です。
 これは先ほどの伎楽面ですが、みんな鼻が高いですね。『レッドクリフ』という映画をご覧になったことはありませんか。『三国志』の「赤壁の戦い」。あの映画に出てくる王さまは、実は漢族ではないのです。シルクロードを通ってやって来たアーリア系のペルシア人(ソグド人・胡人)の末裔でした。彼らは、鼻が高くて碧眼で、そして大柄な人たち。伎楽は、呉で成立した仮面芸能ですけれども、そのペルシャからやって来た人たちを模して造られたものが伎楽面なのです。
   

朝鮮半島

 
 さあ、次に中国から朝鮮半島へ入ります。古代の朝鮮半島は、新羅によって統一されるまでは、民族も言語もちがういくつかの国に分かれていました。三韓時代、三国時代を経て、統一新羅時代になります。三韓時代における今の北朝鮮から中国東北地区は、あとで高句麗という大きな国になります。そして朝鮮半島の南半分は、辰韓、馬韓、弁韓という三つの韓の国があったから、今も韓国と言っているのですね。
 それが次の時代、三国時代になりますと、東北地区に高句麗が興り、辰韓が新羅に、馬韓が百済に。そして朝鮮半島の一番南の端の弁韓は部族連合で、北九州まで含む文化圏だったろうと思います。この弁韓は、加羅とか伽耶とかいう小国に分立していましたが、新羅や百済に滅ぼされて日本へ逃げて来る。この弁韓の人たちは、日本の古墳時代とか大和王朝の成立に重要な役割を果たしたと思われます。  これは、今の北朝鮮にある高句麗壁画です。こういう非常にふっくらとした顔を見るたびに、私はこの朝鮮中央テレビの女性ニュースアナウンサーの顔を思い出します(笑)。見事なほど似てますね。こういう高句麗壁画とそっくりの高松塚の人物像が出てくるわけですから、高句麗からも渡来人が来ていたことが想像されます。そして高句麗壁画には四神相応図(ししんそうおうず)が描かれていますが、注目したいのは霊亀の周りに蛇が絡みついている玄武です。四神相応は、もともとの古代中国の思想ですが、この亀と蛇の不思議な図像は、何を表しているのかを考えてみたいと思います。四神は東西南北に相応している想像上の動物です。色でいうと、東は緑を含む青系。南は朱(あか)系。西は白系。北は玄(くろ)系。黒は炭の色ですが、この玄は、透明感のあるまっ暗闇の色です。この四神相応を動物で言いますと、東のほうは青い龍。南のほうは鳳凰のような朱い鳥。西は白い虎。北は玄い亀。季節を当てはめると、春・夏・秋・冬になります。ですから、青い春で青春と言います。朱い夏で朱夏です。白い秋で北原白秋です。玄い冬で、出版社の幻冬舎です。このように、今のわれわれのなかにもこういう四神相応、あるいはそういうものがあるということですね。今日の講演会は、勉強になりますね(笑)。
   

玄武とヒンドゥー神話の乳海攪拌

 

 そして玄武の図は、古代の東アジアでよく見られるものなのですが、そのもとは、古代インド創世神話の『乳海攪拌(にゅうかいかくはん)』との関連が考えられます。
 ちょっと見えにくいですが、このアンコール遺跡の『乳海攪拌』のレリーフには、大きい亀がいます。亀の上に大曼荼羅山という山が乗っかっていて、その山上にいるのは創造の神であるビシュヌ神です。向かって右側にいるのがバラモン教の善なる神々・デーヴァ神。左側にいるのが、バラモン教ではない異教の悪い神々・アスラ族(修羅)です。この両者が、大曼荼羅山に太い蛇を絡みつかせて綱引きをして、ぐるぐると臼をこねるようにしているところです。この構成は、玄武の図とそっくりだと思いませんか?


玄武の図
 分かりやすい図にするとこうなっているのですね。真ん中にビジュヌ神がいる。クールマという大きな霊亀がいて、この乳の海でぐるぐると引っ張りっこすると、蛇が苦しがってアムリタという不老不死の霊薬を吐き出したというのがインドの創成神話です。上座部仏教圏と思われているタイですが、そのバンコク空港には『乳海攪拌』のこんなつくりものがあるのです。アジア地域の人間の根っこのところでは、古代インド神話で深くつながっていることがお分かり頂けるかと思います。
 四神相応は、われわれ日本人の文化にもしっかり根付いています。大相撲の土俵の四隅に大きな房が下がっています。まんなかにも小さな房があります。北は玄(黒)でしたよね。西は白でしたよね。東は青房。南は赤房。このようにちゃんと四神相応の色彩配置になっています。そして南東、北東・・の四隅も四神相応の房になっています。お寺の四天王像の色というのも、もともとはこの四神相応の色で塗り分けられていたのです。
   

飛鳥仏は朝鮮半島からの影響

 
 飛鳥時代を代表する仏像信仰に弥勒仏信仰があります。中国北部を経由して朝鮮半島の新羅を通って来たもので、実は日本の河内地方から山城の国に地盤を築いた秦氏がもたらしたと考えられます。秦氏は、新羅の系の渡来人の一族です。一方、百済は、揚子江流域から観音信仰をもたらし、蘇我氏を媒介として飛鳥に入ります。大ざっぱにいえば、このようなふたつの流れで日本に仏教が伝播したわけです。
 これは韓国中央博物館にある新羅時代に造られた非常に素晴らしい銅造の弥勒菩薩半跏思惟像です。日本の広隆寺の半跏思惟像に非常に似ていることでも有名です。私は、最近韓国の人たちが世界のあちこちに設置している例の「平和の少女像」の顔を見るたびに、この新羅の半跏像の顔を連想します。政治的にどうこう言うつもりはないですけれども、民族性とはこんな風に表れるんだなあと思います。  これは現代の韓国の人たちですね。これは李承晩(イスンマン)さんですね。つぎは今の大統領のお父さんの朴正熙(パクチョンヒ)さんです。そして力道山、この人は北朝鮮の人ですね。こういう人たちのお顔と、飛鳥時代の仏像と共通するものがあります。顔が面長で、ちょっと釣り目のこういう顔。飛鳥時代というのは圧倒的に朝鮮半島の、特に百済や新羅の文化が日本へもたらされた時代です。しかし、日本と仲のよかった百済を滅ぼした新羅が朝鮮半島を統一すると、新羅との外交関係は悪化し、遣唐使船が朝鮮半島の沿岸を通るルートが使えなくなりました。そこでやむを得ず海流の速い黄海をまっすぐに横断せざるをえなくなりました。本来、沿岸しか走れない倭船が、無理に潮流を乗り切ろうとしたものですから、遣唐使船はたびたび難破し漂流しました。遣唐使は毎回四隻出すのですが、そのうち一隻ぐらいしか到達できないということになるのですが、それでもたくさんの文物が中国本土からやって来たわけです。
   

中国大陸からの仏像

 
 そして、7世紀中頃から遣唐使が仏像をもたらすようになると、飛鳥時代の仏像と顔ががらりと変わります。これは興福寺にある旧山田寺仏頭。飛鳥時代まで細面でちょっとつり気味の杏仁形の目だったのが、ちょっと垂れ気味の優しい目になって、丸い顔になります。その他には、薬師寺の薬師三尊や京都の蟹満寺のお釈迦さまですね。法隆寺の橘夫人厨子(たちばなふじんずし)の阿弥陀三尊も同じような優しい丸顔系統です。
 そして、天平時代になると、もっとそれが強調されて、より洗練された仏像になっていきます。聖林寺の十一面観音や滋賀の観音寺の十一面観音、大阪の藤井寺の千手観音。こういう風に、唐の文明の日本に与えた影響だけを見ても、いかに優れていたかということが理解できます。そしてそのご本家の中国には残っていないような、こんなに素晴らしい仏像が、日本には現代までたくさん残されているわけです。
   

東アジアにおける仏教の展開

 
 非常に悲しいことですけれども、仏教2500年の歴史のなかで、かつては仏教が栄えたインドやアフガニスタンや中央アジアでも、中国でも朝鮮半島でも、徹底的に排斥されて滅んでしまった歴史があります。だから、それぞれの地域で、ほんとうは素晴らしい仏像がたくさんあったはずなのに、今では古い仏像が系統だって残っている地域はほとんどありません。でも幸せなことにというか、ありがたいことに、日本という国は国家的な仏教の排斥が行われませんでした。もちろん、たびたび戦さがあって仏像が焼かれたり、明治初年の神仏分離に伴う民間運動としての廃仏毀釈でたくさんの仏像が壊されはしましたけれども、それでも1500年の間に造られた仏像が、ほぼすべての宗派と仏像様式が時代を追って残されているということは、大変希有なことなのです。
 平城京から平安京に都が移って、真言密教や天台宗などの新しい仏教がもたらされると、また顔つきが変わるのですね。その原因は、中国の宗教事情も変わるし、中国の王朝の場所も変わるからです。この滋賀県の向源寺の十一面観音は、インドから直接来たのではないかと思えるほどエキゾチックな容貌です。制作をしたのは、いわゆる漢人ではなくて、呉の地方から来たソグド系の人たちではないかと私は思っています。こちらの仏像は東寺(教王護国寺)にある兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)。これは中国で熱心に信仰された毘沙門天のひとつです。頭が小さく非常にスラッとして、とても東アジアの人の体形には見えないですね 。
 先ほどの復習になりますが、東アジアでの仏教伝播は黄河流域から高句麗、新羅から秦氏へのルートと、長江流域の呉から百済を経て蘇我氏へと伝来したルート。そして大仏信仰、弥勒信仰というのは黄河流域の仏教であり金属や石で造られ、長江流域の仏教というのは天台山を中心とする観音信仰であり、材質は木や乾漆による造像であったということです。
 中国の地図を見ると、北の乾燥地域を流れているのが黄河ですね。そして南の森林地帯を流れているのが長江と、その下流域が揚子江です。そして今の揚州の辺りが呉の地域でしたね。北の方が魏の国。長江の上流域が蜀の国。黄河と長江に挟まれた平原が中国の中原(ちゅうげん)ですね。ここに王朝を建てた国を中国と言うわけです。中国とは、王朝名ではないのです。漢族であろうが、女真族(満州族)であろうが、蒙古族であろうがチベット族であろうが、中原に王朝を打ち立てればみんな中国です。だから今の中華人民共和国も、中国を名乗っています。
 あ、そうそう、昔から「南船北馬」という言葉があるように、北の地域は水が少ない土地ですから馬や馬車で動きます。南のほうは水郷地帯ですから船で動きます。北は小麦の文化、南は水稲の文化。呉の国の初代皇帝孫権(そんけん)は、紫髯碧眼であったと言いました。紫色の髪の毛に緑色の青い目をしていた胡人(ソグド人)系であったということです。そしてこの呉の地域で成立した「伎楽、呉楽舞(くれうたのまい)」のキャラクターは、鼻が高い酔胡王や酔胡従。そして長江のずっと上流にある蜀の国は四川省。湖北省ですね。森林や木質系の文化。お茶、養蚕、漆工、蜀江錦(しょっこうにしき)などが発達をしたわけです。
   

仏典の漢訳事業〜観世音菩薩と観自在菩薩

 
 仏教はインドで起こり、アフガンから中央アジアに入った。だからそのころは、仏典はサンスクリット語です。サンスクリット語のままでは中国では広まらないので、熱心に翻訳をした訳経僧(やっきょうそう)がいたわけです。その初期の頃の一番偉大な訳経僧が、鳩摩羅什(くまらじゅう)、クマラジーヴァという人。この人が『妙法蓮華経』を漢訳した際に、「アヴァローキテーシュヴァラボーディーサットヴァ」を「あまねく衆生の声を聞く菩薩」という意味の観世音菩薩と訳した。それが観音さまです。そして、この揚子江流域の天台山を中心に観音信仰が早くから根付きました。  ところが、『西遊記』で有名な玄奘三蔵は、「クマラジーヴァがアヴァローキテーシュヴァラボーディーサットヴァを観世音菩薩と訳したのは誤訳である」として、「すべての方角を見通す菩薩」という意味の観自在菩薩が正しいとしました。同じ菩薩を、一人のお坊さんは観音菩薩と訳し、別のお坊さんは観自在菩薩と訳した。ですから、日本に最初に仏像が来た法隆寺なんかでは、百済観音、聖観音、救世観音のように、みんな観音さんと言っていますね。だけど、『般若心経』の冒頭は「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時・・」となっています。その二つの呼び名がずっと今まで続いているのも面白いですね。
   

日本に残る呉の文化

 
 日本に残る呉の地域の文化というのを少しだけ話をします。呉の文化なんて、今のわれわれはほとんど意識しません。しかし日本語には、呉の方言に基づいた「呉音(ごおん)」を日常的に使っています。それから呉の地域で成立した仮面劇「伎楽・呉楽」に用いられた「伎楽面」がたくさん残されています。そして和服のことを「呉服」と言いますよね。襟元をしっかり合わせて寒気が入らない服を「漢服」といいますが、ゆったりとして風通しのよい絹の和服の原形が「呉服」です。このように、呉の国の文化はわが国に大きな影響を残しているのです。
 「呉音」は、遣隋使が仏教経典とともにもたらした揚州・江南地方の発音です。昨年、私は揚州の無錫に行きました。そのとき、地元の人たちが、「北京の人たちから、無錫の方言は日本語みたいだといわれる」と苦笑いしていました。確かに、空耳ですが日本語のように聞こえました。これはすごいことだと思いませんか?その後、平安時代になって遣唐使たちが大量にもたらした新しい教典や政治用語は、黄河流域の発音である「漢音」を用いました。
 『般若心経』は何と読みますか。「はんじゃくしんけい」と読むのが自然じゃないですか?『関西大学』は「かんさいだいがく」と読みますね。ですよね。では『関西学院大学』は何て読みますか?「かんせいがくいん」?何でですか?「かんさいがくいんだいがく」ではだめなのですか?
 種明かしをしますと、『関西大学』を、「西(さい)」というのは呉音であって、仏教的な読み方です。関西学院大学は、キリスト教系ですので、仏教的な発音の「西(さい)」を嫌って、創立以来わざわざ漢音で「かんせいがくいんだいがく」と発音させているそうです。
 『経典』を「きょうてん」と読むのに、「けいてん」と読む人はいないですね。『経済』は「けいざい」と読むのに、「きょうさい」と読む人もいないですね。
 奈良のお寺では、『日光菩薩』は「にっこうぼさつ」で「じっこうぼさつ」ではないですね。『月光菩薩』は「がっこうぼさつ」と読みますね。でも、中世にもたらされた禅の経典を唱える京都の禅宗寺院のお坊さんは、これを「じっこうぼさつ」「げっこうぼさつ」と発音します。
 『大日如来』を「だいにちにょらい」と読むのは、呉音の発音ですが、漢音でお経を読んだと思われる空海は、「たいじつじょらい」と発音していた可能性があります。
 『日本』は何と読みますか?「にほん、にっぽん」。では『本日』は?「ほんにち」?違いますね、「ほんじつ」ですよね。なぜ順番が入れ替わるだけで読み方が違うのでしょう?
 呉音ですと、『日本』は「にちふぉん」と発音していたそうです。【ph】の発音が昔はあったのです。「にちふぉん」が「にっぽん」になり、「にふぉん」が「にほん」になった。漢音では、「じっぽん」と発音しました。「じっぽん」を、ヨーロッパの人たちが聞いて、「ジパング」や「ジャパン」になった。今日の講演会は、ほんとに勉強になりますねえ(笑)。

 おやっ、ちょうどお時間の12時半になってしまいました。最後はずいぶん駆け足になりましたが、ユーラシアの長い長い歴史と文化のお話をしてまいりました。もうちょっとお話をしたいこともあったのですけれど・・。カルピスやスジャータの語源とか、天才バカボンのレレレのおじさんのモデルは誰か・・・。これはみんな仏教から来ていることばですが、またそれは別の機会ということで。今日は、長時間お付き合いくださいましてありがとうございました。(拍手)