身延山大学公開講座

(2016.11.4.Fri)

東京藝術大学と文化財保護
彫刻文化財を中心に




 みなさま、こんにちは。ただいまご紹介をいただきました彫刻家の籔内佐斗司です。  彫刻家としては、ごらんのような「童子」をモチーフとした作品を三十年以上制作してきました。

葡萄童子

任侠坊
 「童子」は子供の姿をしていますが、肉体の背後に潜む生命のエネルギーという性格付けをしていますから、現実の子供ではありません。目に見えない世界からこの世にやってくる、不思議な霊力を持った存在です。造り方は、仏像と同じヒノキ材の寄せ木造で、漆を塗って日本画の顔料で彩色をしています。これは、日本の仏像彫刻と同じ技法と材料で、この方法は私が若い頃に携わった仏像の古典技法研究と修復技術のなかから学んだものです。
 国立大学が独立行政法人化された2004年から、東京藝術大学大学院の文化財保存学で保存修復部門を担当していますので、もう十数年、教授職にあります。でも講演会などで、「私は彫刻家です」とか、「藝大で文化財保護を教えています」とか自己紹介をしても、いまひとつ反応がよくないのですが、「奈良のせんとくんをデザインしました」というと、急に食いつきがよくなります。嬉しいような寂しいような複雑な気分です。

せんとくん
【さまざまに変身するせんとくん】
 さてそのせんとくんですが、2010年に奈良県が開催した平城遷都1300年祭の公式マスコットであります。もちろんせんとくんも、私が作っている「童子」のひとつです。頭には、春日の神鹿の角を生やし、眉間にはほとけの標しである白毫を付けています。装束は、古代インドのクシャトリア(王族・士族)階級男子の意匠をしていますので、仏像でいえば仏法のさまざまな功徳を具現化する菩薩と同じです。菩薩は、法華経にも説かれるとおり、衆生それぞれのTPOに応じて、変化(へんげ)します。したがって、このせんとくんも、様々な姿に変化することが、発表当初からのコンセプトでした。
 平城遷都祭は、2010年末で終わりました。その後「せんとくんは、どうなるのかな」と心配していましたら、県の方から「県庁職員に採用しました。机も電話もあります。」と嬉しい連絡がありました。私は、「公務員になったらきっと仕送りをしてくれるぞ。」と期待しましたが、よく聞くと「無給職員」ということで、息子からの仕送りは儚い夢となりました。それでも、就職祝いに県庁職員用の装束に変身させた「官服せんとくん」をデザインしました。


官服せんとくん

 その後、2014年に開催された「豊かな海づくり大会奈良」のために「海づくりせんとくん」、来年開催される「国民文化祭奈良2017」のために「紋付き袴せんとくん」もデザインしました。
 数多いるマスコットキャラクターのなかで、鼓を打ったり正坐ができる文化的なキャラクターはせんとくんだけだと思います。また「ラグビーW杯キャンプ地誘致」の「ラグビーせんとくん」や、「相撲発祥の地奈良」をアピールする「おすもうせんとくん」などもデザインしました。

海づくりせんとくん

紋付き袴せんとくん

ラグビーせんとくん

おすもうせんとくん
 このようにせんとくんは、衆生の求めに応じる菩薩そのままに、さまざまな姿に変化し続けています。

【東京藝術大学と岡倉天心】
 さて、私が勤めている東京藝術大学は、「藝」の文字を使って表記いたしますが、一般には「東京芸術大学」の方が用いられがちです。しかし、「藝」と「芸」は、本来は別の文字です。「芸」は「うん」と発音し、「くさぎる、刈り取る」という意味を持っています。一方「藝」は、才能や技芸を育てるという意味を持っているのです。出版社の「文藝春秋」社もこの「藝」を使います。この会社は、若い文学の才能を育てることが使命であり、刈り取る会社ではないという意味を込めて、必ず「文藝春秋」と表記するそうです。もちろん、わが東京藝術大学も、若い才能を育むことを目的としていますから、公式には東京芸術大学とは表記しません。
 その東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校の創立者は、岡倉天心先生です。幕末に横浜で生まれ、子供時代から漢籍と英語の英才教育を受け、創立間もない東京開成学校(東京大学の前身)で理財学(経済学)や政治学を学び、わずか十七歳で卒業しました。この時期に、外国人教師アーネストフェノロサと出会い、彼の通訳や助手をしながら美術好きの彼と関西を旅行するうちに、廃仏毀釈で破壊された多くの仏教文化財を目にして、その保存と再生の重要性に目覚めます。文部官僚となったあとは、近代的文化財保護の法整備を行い、国立博物館や美術学校の設立に携わり、優れた市井の絵師や工芸職人を美術学校に招聘して仕事を与え、後進の指導にもあたらせました。創立当初の東京美術学校からは、明治から大正にかけてのわが国の美術工芸を担った多くの俊英を輩出しました。しかし、欧米流の美術教育導入を目指す文部省との軋轢の中で、彼は志半ばに公職を辞し、民間で最初の美術団体「日本美術院」を創立します。今日の会場である瑞輪寺さまのすぐ近くに、今もその後進である財団法人日本美術院は存続していますし、京都国立博物館にある財団法人美術院国宝修理所も、その源は岡倉天心であったわけです。彼の信念は、「近代国家は、歴史と文化を共有した国民のアイデンティティの上に築かれるべきものである」ことを主張し、借り物の欧化主義一辺倒を厳しく批判しました。そして日本人にとって、仏教文化と茶の湯の思想がきわめて重要であることにいち早く気がつきました。また日本の美術工芸のレベルの高さを世界に知らしめると共に、日本がインドから中央アジアや中国、朝鮮半島につながるアジアの一員であることの重要性も指摘しました。西欧への迎合主義が一世を風靡していた時代にあって、まるで現代を予見していたかのような彼の慧眼は注目すべきものだったといえるでしょう。

【東京藝術大学大学院の文化財保存学とは】
 さて現在の東京藝術大学のなかで、岡倉天心の建学の理念をもっとも忠実に実践しているのが、わが文化財保存学であるといっても過言ではないと私は思っています。文化財保存学は、大学院美術研究科に属し、学部課程はなく、修士課程と博士課程のみから成っています。したがって、学部からの持ち上がりだけでなく、他大学からもたくさんの学生がやってきます。専攻は、保存修復と保存科学とシステム保存学の三つがあります。そして保存修復専攻は、日本画、油画、彫刻、工芸、建造物の五つの分野に分かれます。それぞれに古典研究と修復実技を中心に研究していますが、座学や論文も重視しています。
 私が担当している彫刻研究室では、彫刻文化財の1)模刻を中心とした教育研究と2)保存と修復に関する研究、そして3)研究成果の社会への発信を大切にしています。そして、そうしたすべての研究の基礎となるデータの収集においては、X線撮影や3Dレーザースキャニング、蛍光X線調査などの先端技術も駆使しています。仏像の3Dデータの集積と活用では、ほかに類を見ないほどの成果を誇っています。
 保存と修復に関する研究においては、文科省の科学研究助成金や各種財団からの助成をはじめ、大学外から仏像修復を受託して、毎年三〜五体程度の受託研究を行っているほか、仏像の新制作も受託しています。研究室への寄付や協賛などを含め、毎年3000〜3500万円程度の学外資金を獲得しています。そして学生たちには、積極的にそれらの仕事を手伝ってもらって謝金を払い、高価な道具や材料を購入する資金にすることを奨励しています。
 学生やスタッフの研究では、今では途絶えてしまったいにしえの仏像技法、たとえば天平時代に盛んに行われた脱活乾漆造という謎の技法の詳細を再現したり、平安時代の一木造の復元制作を通じて、文献による美術史研究ではわからなかった新知見を得るなど、実技者ならではの視点から独創的な研究成果を挙げるようになりました。もう研究され尽くしたと思われていた平安時代末から鎌倉時代の寄せ木造の技法なども、3DデータやX線データに基づく模刻制作によって、まったく新しい研究成果が提示されています。

研究室風景
若い実技者が、美術史の研究者と協力し補完し合いながら、とてもいい研究環境が築かれつつあることを、たいへん嬉しく思っています。どうしても内向きになりがちであった保存修復分野の学生や若いスタッフが、おおきな自信や将来への展望を持つことによって活性化したことが、何よりの成果であったことは言うまでもありません。

【仏像修復の実例】
 次に、研究室が行った仏像修復の実例をご紹介したいと思います。
〈青蓮寺愛染明王坐像〉
 まず鎌倉市の名刹・青蓮寺の愛染明王坐像の修復事業です。過去に何度も大地震や津波の被害を受けてきた鎌倉の街ですが、大正十二年の関東大震災の被害も甚大でした。特にこの青蓮寺は伽藍のほとんどが倒壊し、仏像の多くも大破しました。この愛染明王もばらばらになってしまい、修復されることなく何十年も段ボール箱に入れられたまま保管されてきたものです。そのことを気にかけておられたご住職や関係者の方が、私たちへ修復を依頼されました。研究室に持ち込まれたときは、ご覧のような状態で、失われてしまった部分も多々ありました。
修復前
 早速、3Dレーザースキャニングを行い、ほぼ同じ時代に鎌倉で制作された五島美術館所蔵の愛染明王像を参考に、亡失部の復元を始めました。なかなか大変な作業でしたが、台座・光背も新補して、ご覧のように立派なお姿に復することが出来ました。
修復後


〈西念寺阿弥陀如来坐像〉
 次に、茨城県の西念寺の阿弥陀如来坐像の修復事業です。茨城県指定文化財の本像は、平安時代末に造られた像ですが、後世の粗悪な修復によって当初の姿からかけ離れた印象になっていました。後補の両手先も非常に拙劣なもので、面部も分厚く補修がされていましたので、それらを丹念に解体し、当初部分と後補部分を分別し、後世の漆層をすべて除去すると、見事な十二世紀の阿弥陀如来像が姿を顕しました。この写真の白っぽい部分が新しく補った部分です。それに古色を付けて馴染ませて、このように面目を一新したお姿でお返しすることが出来ました。

作業途中 修復後

〈光照寺地蔵菩薩立像〉
 次は、「お寺に帰りたかったお地蔵さまのはなし」と題して、埼玉県光照寺の数奇なお地蔵さまのお話です。2005年に、個人の方から持ち込まれた修復物件で、南北朝頃と推定されるすらりとした美しいお地蔵さまでしたが、彩色や矧ぎ目がかなり傷んでいました。解体を始めると、像内からご覧のような供養願文の巻物が発見されました。

光照寺地蔵供養願文

厨子に台座を置いた状態
 そのなかには「今井村」「光照寺」「熊谷町」という名前が確認され、造立の経緯を調べるためにインターネットで語句の検索を始めました。すると、なんと埼玉県熊谷市で頻発していた仏像の盗難事件の記事が見つかり、光照寺という無住のお寺からお地蔵さまが盗まれていたことがわかりました。びっくりした私たちは、すぐに現地へ向かいました。そして、残されていたお厨子を見て、息を飲みました。厨子の後背面板に、お地蔵さまの影がうっすら残り、持参した台座を置くとぴったりと収まったのです。
 彫刻家である私は、仏像であってもふだんは極力擬人化して考えないようにしています。しかしこの時ばかりは、「このお地蔵さまは、お寺に帰りたかったんだ」と思わずにはいられませんでした。幸い関係者の善意のおかげで、修復経費も捻出でき、修復後は無事光照寺にお帰りいただくことができました。

光照寺地蔵修復後

〈善光寺阿弥陀如来立像〉
 長野県善光寺塔頭の白蓮坊の宿坊には、私が造らせていただいた「むじな地蔵」が祀られています。

むじな地蔵
 ある日、白蓮坊さまから、「善光寺に伝わる阿弥陀如来像が、どうも快慶作のような気がしてしょうがない。一度調査してもらえないだろうか?」との問い合わせをいただきました。飛鳥時代創建の伝承を持つたいへん古い歴史を誇る善光寺ですが、戦国時代に武田信玄が寺宝のすべてを甲斐に移してしまったために、現在では古い仏像は存在しないというのが定説となっていました。もしも鎌倉時代の像があったとしたら、大きな発見です。早速、助手たちと一緒に善光寺さまへ伺い、件の仏像の調査を行いました。後の世に施されたかなり分厚い修復層のために、当初の形状が見えにくくはなっていますが、たしかに快慶様式の特徴を持った優れた造形であることがわかりました。善光寺さまのご意向に従って後補部分をすべて除去し、全面解体修理を施すことになりました。近世の厚い下地層を剥がすと、彫り跡も鮮やかな美しい彫刻面が顕れました。
善光寺阿弥陀解体時
 結果的には、快慶作品であることを裏付ける銘記などは見つかりませんでしたが、快慶存命中の工房で制作された作例であろうということに落ち着きました。

善光寺阿弥陀立像修復後



(中略)


〈大慈仙町薬師如来坐像〉
 次の修復の事例は、京都との県境に近い奈良県大慈仙町の公民館に保管されていた薬師如来坐像です。ご覧のような立派とはいいがたい木造の公民館に、地元の人たちによって大切に守られてきた仏像です。

大慈仙町公民館
 研究室とは旧知の円成寺のご住職からのご紹介でした。円成寺は、運慶が25歳の頃に制作した国宝の大日如来坐像でよく知られた名刹です。  三十センチ足らずの小ぶりな像で、平安時代末の定朝の様式を持ったなかなかの優品でしたが、ご覧のようにかなり傷んでいました。 修復そのものは、それほど困難なものではありませんでしたが、蓮台の上面に微かに墨書銘が発見されました。そこで赤外線撮影を行ったところ、なんと天治元(1124)年八月十一日という文字がはっきり浮き上がりました。仏像にとって、その造形の優劣とともに、制作年代を特定できる銘文が発見されることはとても重要なことです。このお像は現在、奈良国立博物館に寄託されています。
修復前 修復後

〈陸前高田のおやこ地蔵の制作〉
 最後に、新たに仏像を制作する事業を受託した事例のご報告です。
 2011年の東日本大震災の津波で壊滅的な被害を被った岩手県陸前高田市の防風林の松材を使って制作した「おやこ地蔵」のお話しです。今回も、善光寺さまのご縁でした。被災一周年に合わせて、流された松を用いた慰霊のお地蔵さまを奉納したいというものでした。現地を初めて訪れたのは震災の年の十一月でした。荒涼たる被災地には、冷たい海風が吹き付けていました。そして被災松の丸太を集めて積み上げた六メートルほどの山を前にして、「彫刻家として、この松を使って、何かを残さなければならない」という強い衝動にかられました。



被災松の山

普門寺地蔵堂開眼法要
 一緒に行った研究室の若者も同じ思いを持ったようでした。それから四ヶ月ほど、年度末のとても忙しい時期と重なりましたが、研究室は総出で懸命に制作しました。彼らは、「なぜ日本人が1500年間も仏像を造り続け、現代に伝えてきたのか」を自問自答しながら制作を続けました。一周忌の三月に地元の普門寺で開眼法要が行われた後、様々なご芳志の甲斐あって、夏には立派な地蔵堂も完成し、おとうさん、おかあさんとふたりの子供のお地蔵一家の落慶法要が営まれました。親類縁者の誰かしらを失ったたくさんの地元のひとびとが列をなしてお参りに来られました。お地蔵さまに手を合わせ、涙を流し、そして安堵の表情を浮かべて微笑まれる姿を目の当たりにして、学生たちは現代に仏像を造ることの意義を初めて感じ取るという、願ってもない学びの機会となりました。

見守り地蔵
 このお地蔵さまには、後日談があります。四体のお地蔵さまのうち、お父さん地蔵は、善光寺に安置されました。そして毎年地蔵盆には、善光寺のお坊さまに抱かれて長野から里帰りすることなりました。そのとき、地元の人たちは、自分たちの生活と重ね合わせて、「出稼ぎからけえってきて、かあちゃんと一夜を共にすれば、子供が出来るわなあ」ということになりました。多くの人命が奪われた被災地では、こどもが出来ることが何よりの復興であり願いです。そして、復興支援でご縁のあった全国各地に、こども地蔵を贈ることになりました。それ以後、私は毎年、何体かのこども地蔵を造らせていただくことになり、現在までに五体の子作りに励むことになりました。

〈磐梯町慧日寺薬師如来坐像の復元〉
 平安時代初め、平城京から平安京に都が移り、遣唐使が天台宗や真言密教のような新しい仏教を請来すると、奈良の寺院は危機感を抱きました。そこで、僧侶を東国からみちのくに派遣して、新しい仏都の建設に取りかかり勢力拡大を図りました。その代表的な僧侶が、法相宗の学僧・徳一(とくいつ)でした。彼は、常陸の中禅寺や会津の勝常寺などを創建したことで知られます。とりわけ、一番最初に磐梯山の麓に創建した慧日寺(えにちじ)は、一時期僧兵三千人を擁する大寺院として隆盛を極めましたが、徐々に衰退し、明治の廃仏毀釈で消滅しました。戦後、史跡に指定されていましたが、磐梯町では町興しの目玉として、慧日寺伽藍の再建を行いました。【「慧日寺金堂画像」】政教分離が大原則である地方行政にあって、この試みは全国でも初めての快挙といえます。そして、やはり金堂のなかには仏像が必要ということで、建立当初に安置されていた薬師如来坐像を復元することになりました。現在研究室では、坐高二メートル、総高六メートルの大きな薬師如来の復元に取り組んでいます。

慧日寺金堂

金堂と薬師のCG画像

慧日寺金堂薬師如来雛形
 今、磐梯町の慧日寺資料館では、私たちの研究室の活動の紹介を兼ねて、薬師如来復元の途中経過を報告する展覧会「模刻で学ぶ仏教藝術U―みちのくのほとけと慧日寺金堂薬師如来」展を開催しています。ちょうど紅葉の美しい時期ですから、機会を見つけて是非お出かけになることをお薦めいたします。

とくいつ藝術祭会場風景
 
 
さて本日のお話しはここまでです。本日の講演が、みなさまの何かのご参考になれば幸いです。ご清聴、ありがとうございました。