島根県立美術館 入館者500万人記念イベント講演会(2016.10.15)
ご縁ってなあに うさぎのはなしあれこれ
こんにちは、籔内佐斗司でございます。
さて島根県立美術館の入館者が500万人を突破されたということで、こころよりお祝いを申し上げます。入場者の低迷に苦慮している地方美術館が多い中、この数字はわがことのように嬉しく思います。
当館が開業した1999年に、「宍道湖うさぎ」を設置させて頂きました。素晴らしい建築美と宍道湖の風景が融合したとても美しい環境のもと、広い芝生の上に作品を置かせた頂けたことをとてもありがたく思いました。 それから何年かして、「
宍道湖うさぎが都市伝説になっている
らしい」と言う噂を聞くようになりました。そして、テレビや新聞の取材まで舞い込むようになりました。取材の方から、「先頭から二匹目の兎に、シジミの貝殻を供えて西の出雲大社の方角を向いて良縁のお願いをすると叶う」というものだと聞かされました。そして、「これは籔内さんが意図されたことですか?」などと質問されましたが、私はまったく知らないことなので、きょとんとしていました。口の悪い友人などからは、「お前は、ほんとに商売がうまいなあ」などといわれたものです。
最初私は、美術館の関係者が、意識的に創り上げた伝説だと思って、大した知恵者がいるものだと思っていたのですが、ほんとうに自然発生的に生まれたものらしいと聞いて、とても驚きました。また、当館所蔵作品の人気投票をすると、いつも一番になっていることを聞いて、本当に嬉しく思っています。そして、本日の式典でも、このようにお話しをさせていただく「ご縁」を頂いたわけです。
ただ、30分の講演というのは、とてもやりにくいものです。ご挨拶程度でしたら10分もあれば十分にできますし、少し内容のあるお話しをしようと思うと、60分は必要です。時間配分がむつかしいので、今日は原稿を書いてきました。30分でどんなことがお話し出来るかわかりませんが、「うさぎに関するあれこれ」にしばしおつきあいを頂けましたら幸いです。
最近は動物愛護の風潮からとんと見かけなくなりましたが、昔は夜店で仔うさぎが売られているのを見かけたものです。仔うさぎの愛らしさは格別のものがあります。だれしも、手のひらに乗るような仔うさぎを親にねだった記憶があるのではないでしょうか。
私も、小学生のころにつがいの仔うさぎを買ってもらったことがあります。ほんとうはリスが欲しかったのですが、なぜか二羽の子うさぎがわが家にやってきました。うさぎは神経質で、すぐにおなかを壊したり、直射日光で体温が上がって弱ったりと、たいへんデリケートな生き物です。私の仔うさぎも一月ほどで相次いで死んでしまいました。その後、東京でアパート暮らしをするようになってから、大好きな犬が飼えないので、大家さんにないしょで部屋で飼っていたことがあります。二年ほど元気にしていましたが、あるとき突然下痢をし始めてぽっくり死んでしまいました。でも、彼らの柔らかい感触とかたちを私の掌が覚えていて、今でも実際のうさぎを見なくてもなく形を創り出すことができます。
際立った特徴を持った動物というのは、キャラクター化し易いのはいうまでもありません。例えば、象の鼻やキリンの首、ライオンのたてがみ、ねずみのしっぽ、などです。せんとくんも、鹿の角がはえていなければ、ただのまるこめくんです。もちろん、うさぎの耳はその代表で、ピーターラビットやブルーナのミッフィーのように永遠の人気者になります。
ひとは、その観念上の可愛らしいうさぎと現実のうさぎをつい混同しがちです。しかし、現実のうさぎは馴ついているように見えても、実際は恐怖で硬直しているか食べ物につられているか、また皮膚の塩気をなめているだけだったりします。かわいい歯と舌でさかんに指先にじゃれて懐いているなと思っていたら、きれいに皮だけかじられていました。子ども心に裏切られたような落胆した記憶があります。まあ、人間社会でも異性から似たようなことをされた経験をお持ちの方も多いのではないかと思いますが。濡れたようなつぶらな瞳で甘えられたらくれぐれもご用心を。
干支のうさぎ年を意味する「卯」の文字は「門を開く」形といいます。また「万物地を冒して出づ」という意味もあります。四月を卯月というのは、大地の下から力強く芽吹く様子を、巣穴から耳を出しているうさぎの姿とも重ねたのかもしれません。卯の刻は午前五時から七時ごろの明け方を、十二方位の卯は、時計の文字盤でいえば3時にあたり、夜明けの東の方角です。
船を操舵するとき、「とりかじいっぱい」「おもかじいっぱい」といいます。これは船の操舵輪を十二方位に見立てて、時計の文字盤の9時の方角に酉があるため、左に回すことを「とり舵」といい、右にまわすことを3時の方角にあたる「うの舵」といったのが「おもかじ」にかわっていったということです。
昔ばなしでは、うさぎといえば、月に住んでいる動物として知られます。
遠い遠いむかし、天竺(現在のインド)の森にうさぎとキツネとサルの3匹の獣が住んでいました。彼らは、獣ながら熱心に仏教を信仰していました。そこに、今にも倒れそうなみすぼらしい老人が現れ、「養ってくれる家族もなく貧しく食べるものもない」と3匹に訴えました。そこで、他者への施し(すなわち菩薩道)が大切だと考えていた彼らは、なんとか食べものを集めようと考えました。サルは木に登って木の実を集め、里に出て里人の果物や野菜をかすめてきて老人に与えました。キツネは川原へ行って魚をとってきたり、墓に供えてあった餅や飯をかすめてきました。そして枯れ枝を集め、火をつけて、食事の支度を始めました。
その一方で、ウサギは野を駆け廻って食べものを探し求めましたが、老人に与える食べものを見つけられず、手ぶらで帰ってくるしかありませんでした。そんなウサギを見て、サルやキツネは、うさぎを嘲笑し罵りました。しかしうさぎは言いました。「ぼくは食べ物を奪って持ってくる力はありませんでした。ですから、この身を焼いてお食べください」と。そう言うがはやいか、うさぎは火の中にとびこみました。この様子を見ていた老人は、たちまちにして本来の帝釈天の姿になって、うさぎを火の中から助けました。実はこの老人は、三匹がほんとうに仏教を理解しているかを試すために老人に姿を変えて顕れていたのです。そしてすべての生き物たちにこのうさぎの善行を知らせるために、月の中にうさぎを放しました。帝釈天さんは、サルやキツネが行った盗みは菩薩道ではないことを諭し、本当の慈悲の行いは、自らのいのちを捧げてでも行うことだと教えたのです。すべての人が月を見るたびに、このうさぎの行動を思い起こすように、今も月にうさぎの姿があるのです。
また中国の神仙思想では、月に生えている永久に枯れない霊木「月桂樹」のもとで、仙女の西王母が不老不死の仙薬を造る手伝いをうさぎがしているとされました。 また道教の「陰陽思想」では、お日さまを「太陽」といい、お月さまを「太陰」と言いました。そして、太陽にはJリーグのマークでお馴染みの三本足の烏が住み、お月さまにはうさぎが住むと考えました。平安時代中期の律令規則の『延喜式』には、「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」と有りますから、この頃には公にも「月にうさぎ」ははっきりと意識されていたようです。
日本書紀や出雲風土記には「因幡の白兎」伝説はないそうで、「古事記」のみに「出てくるそうですね。白兎の白は、whiteではなく素木やしら鞘の「しろ」と同じ意味で、毛や皮をむしられて赤裸・nekedになったという意味の「しろうさぎ」だだそうで、白い兎ではなかったようです。
「宍道湖うさぎ」が取り結んでくれた多くのひとたちとのご縁に感謝し、これからもたくさんのひとたちを幸せにしてくれることを願って、簡単ではございますが、「うさぎの話あれこれ」を終わらせて頂きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。