『月刊美術』1996年12月号掲載

手の外科

籔内佐斗司(彫刻家)

 わたしは昨年の六月、左手の親指の屈筋腱を切断してしまいました。
木彫の仕事をしていますので、怪我はつきものです。右手で刃物を持ち左手で木を押さえて作業をしますから、どうしても左手に怪我をすることになります。
歴戦の傷跡は、図をご覧ください。しかし昨年までは、機能に重大な影響が残る怪我をしたことはありませんでした。  事故は昼食のあとすぐに起きました。ちょっとしたはずみで手元が狂い左の掌の親指の付け根に彫刻刀が突き刺さってしまったのです。

その瞬間刃物がかなり深く入り、固いものに当たったのがわかりました。みるみる血がこぼれてきましたので、とりあえず止血をしようとして近くにいた工房のスタッフにタオルと紐を持って来てもらい、二の腕をきつくしばりました。そのときすでに、いつもの怪我とは違うことを覚悟していました。痛みはほとんどありませんでしたが、親指が動かなくなっていることに気がついていたからです。
 左手を高く上げて近くにある外科の救急病院まで自転車に乗って行きました。
 救急病院というのは、救急車で運ばれてきたひとを普通の外来患者より優先させます。ちょうどその日は土曜日で特に急患の多い日のようでした。私は待合室で親指を眺めながら、ぼんやりと明日からの仕事のことを考えていました。

  急患の手術を終えた医師が、私の傷口を見ながら、「親指を曲げる腱が切れていること、幸い神経は生きていること、手の腱の接合は非常に専門性の高い手術で一般の整形外科医は手が出せないこと、特に手を使う専門職の場合、機能障害の影響が大きいので絶対に専門医の治療を受けなければならないこと」などを淡々と話し、とりあえず止血と殺菌をして傷口を縫合して下さいました。 先生の冷静な説明を受けながら、私ははじめて整形外科のなかに「手の外科」という独立した分野があることを知りました。

ちょっと休題。先日駐車場に車を入れようとして後進でハンドルを廻していたら、「ゴン」という変な音がして急にハンドルが重くなりオイルのにおいがしてきました。びっくりして車の下をのぞくと、油がさかんに漏れていました。重いハンドルをなんとか操作してことなきを得ましたが、修理工場の話では、パワーステアリングの油圧パイプの接続部が外れていたとのことでした。故障は部品を交換して簡単に直りましたが、いままで意のままに動いていた車が突然コントロールできなくなった時の思いは、ぴんとつっ立ったまま動かなくなった親指を眺めていたときの気持ちにすごくよく似ていました。しみじみ肉体は機械の一種であることを実感した次第です。


聖器のシリーズ-asura-

さて何人かの知人を介して私はK病院のY教授をご紹介頂き、執刀していただくことになりました。先生はピアニストなどの指を繊細に動かす職業のひとのために開発されたクライナート法という治療法を日本に初めて紹介した「手の外科」の第一人者です。
 手術は大成功でした。手術に立ち会われた先生がたから教授の極めて精緻な手術の様子をお伺いして、本当に光栄に思いました。
 昔は、手の腱を切ってしまったら接合はできても機能の回復はほとんど絶望とされていたそうです。なぜなら、接合した箇所が完全にくっつくまでは、約一ヶ月ギプスをはめて固定しておきます。そうすると筋肉のなかにある腱鞘と腱が癒着を起こしてしまい、指は動かなくなってしまったのだそうです。
  先生は手術のあと、「ほぼ完全に機能は回復します。しかし無理をすると再断裂を起こす危険性が高いのでしばらくは充分注意するように」と説明を受けました。
 

その後の回復はとても順調でした。ところが、指のリハビリ運動をしていた時、先生の危惧が的中してしまいました。ズルッという感触のあとに、手首のところでみみずのようなものが動いた感じがしました。接合箇所が再断裂してしまったのです。
 数日後、再び緊急手術が行われました。最初に刃物で怪我をしたときは、そのあとの仕事の段取りを考えるぐらいのこころの余裕がありました。しかし、再断裂を起こしたあとは呆然とするばかりで根が楽天的な私もまた切れるのではないかという恐怖心が先にたち、ひびのはいったワイングラスを握って暮らしているような心細い毎日でした。
 あとで伺った話では、先生も再断裂にはかなり落胆されたようでした。
 しかしリハビリを渋る私を、「前回は百パーセントの機能回復を目指して最先端の手術をしましたが、今度は十五年位前のレベルの手術をしてしっかり縫っておきました。機能の回復は遅れるかもしれませんがまず切れることはありません。安心してリハビリをして下さい」とユーモアを交えて話して下さいました。たしかに、リハビリをしていて指の動きが一回目と二回目では明らかに違うことが分かりました。私は、これだけ自由に結果を調節できる先生の医療技術に職人の端くれとしていたく感動してしまいました。
 おかげさまで、今年の夏はアメリカでの大きな展覧会も実現し、仕事のペースも手術前を上回るほどです。手術から、一年半たった今では、多少のつっぱり感が残りますが日常の作業にはまったく差し支えはありません。掌に残る大きな手術のあとを見ながら、Y先生のご恩に報いるためにもたくさんのいい作品をつくろうと殊勝なことを思っているこの頃です。
 


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