『月刊美術』1997年2月号掲載

籔内佐斗司(彫刻家)

 節分の時期ですので、鬼について考察します。
 わが国では、鬼に「おに」という音をあてています。語源は「隠ぬ(おぬ = かくれているもの)」ではないかといわれています。どこかに隠れていて、ある日突然取り憑いて災いをもたらすものという意味で、眼に見えない恐ろしいものの総称であったようです。

 中国では、鬼(き)は帰(き)につながり、「鬼籍にはいる」ということばがあるように、「本来のものに帰ることー死ぬこと」を意味し、死霊や幽魂として大変恐れられています。ですから、鬼には目に見える形はありませんでした。「日本書紀」でも黄泉の国の住人を「鬼」と表現しています。

 ではいつごろから、現在の鬼のイメージである牛の角を生やし牙をむき、巻毛でひげもじゃの裸の大男、恐ろしいけれどどこかユーモラスで愛敬のある存在になったのでしょう。
 このことを考えるときに忘れてはならないのが「牛頭(ごず)」のことです。
 牛頭は馬頭(めず)とともに地獄の羅刹として地獄草紙などに描かれます。仏教では因果応報といい、生前の所業が死後に報いとなってあらわれると説いています。ひとはこの世で牛や馬を使役し食用に供してきました。その報いで死後に彼等に責めさいなまれるのです。


禅寺丸

 そうしたイメージが記憶のひだに刷り込まれて日本の鬼の形象が生まれていったのでしょう。
牛頭の大親分としては「牛頭天王」がおられます。もとは古代エジプトやインドなどで崇めれていた豊穰神としての牛が、仏教に習合され祇園精舎の守護神となり、中国で道教の神としての性格を与えられました。日本では素戔鳴尊として垂迹したと考えられています。京都祇園の八坂神社ではご祭神として多くのひとびとの信仰を集め、また東京では品川の天王洲の地名も牛頭天王に由来します。
 鬼の形象のもうひとつの素形は、お不動さまや愛染さまなどの明王系の図像でしょう。
明王の姿は憤怒形といい、ふだんは穏やかに慈悲を説く如来が、衆生を救済するために渾身の力をふりしぼっている姿の象徴です。明王筆頭格の不動明王の場合、肌の色によって青不動、赤不動、黄不動などに表現されます。

 鎌倉時代の「古今著聞集」のなかに、伊豆の奥の島に漂着した船に「鬼」が乗っていたという記録があります。「そのかたち八・九尺ばかりにて髪は夜叉の如し、身のいろ赤黒く眼まろくして猿の如し。みなはだかなり」と書かれており、あきらかに南方からの漂着者の記録ですが、当時の日本人が抱いていた鬼のイメージにぴったりだったために、彼等を鬼と決めつけています。


不動明王

 たしかに大相撲の曙や武蔵丸が、彼等の素性を知らない人たちの前に突然現われたら、今でも大騒ぎになるでしょう。またヨーロッパ人の活動がアジア地域にも及び始めた頃は白人や黒人を乗せた船の漂着もあったことでしょう。ロビンソンクルーソーとフライデーのコンビを無知で無鉄砲な若侍が殺してしまったお話し、「桃太郎の鬼退治」はそんなふうに読めるかもしれません。
 そういえば、つい五十年ほどまえ、わが国は英米人を「鬼畜」と呼びました。また中国の抗日運動のなかで、日本人は「東洋鬼(トンヤンキー)」と呼ばれていました。正義の戦さをしようとする際、相手を「鬼」と蔑むのが常の習いのようでした。
 中国人にとって「東洋」ということばは、「中国から見た東の海のあたり」という程度の意味で、おもに日本ことを指し、決して中国自身は含まないそうです。「東洋鬼」はほんとうに軽蔑しきった表現であったことをわれわれは知らなければなりません。

 わが国では、いつのころからか鬼は地獄の羅刹だけでなく天界でも働くようになりました。
 菅原道真の事蹟を描いた「北野天神絵巻」には怨霊と化した道真が雷鳴を轟かせながら降臨する場面が描かれています。このときの姿はすでに鬼の形象をしています。

 鎌倉時代の三十三間堂の風神・雷神像や興福寺の天燈鬼・龍燈鬼は恐ろしげな容貌に滑稽味をたたえて、ほぼ完壁にわれわれの鬼のイメージに適合します。宗達の「風神・雷神図屏風」や北斎の絵草紙に描かれた風神や雷神も、雲のうえで自然界のエネルギーを司る鬼神のさまを民衆の脳裏に焼き付けたことでしょう。
 一方、大江山の酒呑童子や茨木童子のように「童子」と呼ばれたアウトサイダーたちも、絵巻物や絵草紙ではあきらかに「牛頭」の形で描かれています。

 かつて日本人にとって鬼はとても身近な存在でした。節分の豆まきやお祭りの重要なキャラクターとしてや、「桃太郎」や「こぶとり爺さん」「一寸法師」などのおとぎ話しの敵役などの恐ろしき「異人(まれびと)」として伝承されてきました。
 近年世間を騒然とさせた某教団の教祖などは、その風貌や美女好きの性格、超能力を誇示することなどもさることながら、独立王国を築こうとしたり反体制的・好戦的であるなど鬼の要件を備えています。この事件はかつての「連合赤軍事件」などとともに、むかしのひとならば鬼の起こした大事件として記憶したことでしょう。
 現在も鬼は現われるのです。


吉備童子と鬼の目に泪

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