『月刊美術』1997年4月号掲載

童子

籔内佐斗司(彫刻家)

今回はいささか手前味噌で恐縮ですが、私が創っている「童子」たちについて解説をさせていただきます。
 彼らはたんなる子どもではなくて、異界からやってくる神性を秘めた童子です。あたまには、智恵の象徴であるちいさな角を生やしています。小さい時は一本ですが、すこし大きくなると、ちょうど乳歯が永久歯に生え変わるように二本のつのが生えてきます。
 私は理系には暗いのですがたぶん科学者がいうところの「エネルギー」と同じものではないかと思っています。


火伏せ童子

 童子は、自然界のあらゆるところで働いています。雲のうえで雨や風や雷を司っているのは風神や雷神の子どもたちである「追い風童子」や「火伏せ童子」です。東京九段にあるビルが新築されたとき、火除けの願いを込めて屋上におしっこをしている「火伏せ童子」を取り付けました。
 宮城県白石市は、白石城を昔ながらの木造で復元したり武家屋敷を整備したり、歴史のある街並みの保存と再生に取り組んでいます。それと同時に、来るべき高齢化社会に向けた社会基盤の整備にも熱心です。この春、新幹線の白石蔵王の駅前に「白石メッセ」という劇場とホールと体育館がひとつになった近代的な複合文化施設ができました。 この施設の一角に「ときをみつめる童子たち」という私の作品を設置しました。風神と雷神のこどもたちが雲のうえからひょっこり舞い降りてきてこの建物と新幹線と復元されたお城を眺めています。この町の過去と現在と未来をみつめているのです。そして21世紀を生きるこどもたちを見守っています。


追い風童子


耕雲童子

 地上に恵みの雨を降らせるために雲を耕しているのは「耕雲童子」です。「こううん」は幸運、好運などを連想させなにやらおめでたい雰囲気を醸します。雨は川となって海や湖に流れ込みます。地上におりた水はまた天界に還ろうとする意志を持っています。その作用を古代の中国人は龍と呼びました。ふだんはおとなしい鯉の姿をして池や湖に住んでいますが、ときが来ると川を溯り滝を登って山の頂から龍の姿になって天に昇ります。いつか大きく飛躍する鯉に乗っているのが、「昇鯉の童子」です。「真魚坊(まなぼう)」という魚の姿をした童子とともに元気な男の子を守り育てます。
 この世のすべての現象のうしろにはかならず「童子」が働いています。一粒の種から芽が出て葉が繁り、花が咲き実ができるのも、彼らのしわざです。


豊穣の童子

 稲荷というのは日本でもっとも古い神格と考えられています。秋になって稲が実る不思議を稲荷という神の仕業と考えたのです。「豊穣の童子」は右手に収穫の宝剣を持ち左手に稲の束をかかえて稲荷の使いである黄金色のきつねにまたがり豊穣のときを告げにやってきます。また水田のなかの「やご」は秋になると「勝ち虫童子」に変身して害虫から米を守ります。「勝ち虫」とはとんぼのことで縁起のよい生き物として古くから武士や茶人に愛されてきました。
 童子たちはこの世の本質やいろんな智慧をわれわれに教えてもくれます。お釈迦さまやイエスさまや孔子さまなど聖人のことばは凡夫にはいささかとっつきにくい。そこでほんのちょっとした仕種で、人類の永遠の命題である「われわれはどこからきたのか、何者であるのか、いかに生きるべきか、どこへいくのか、」を教えてくれるのです。

 たとえば「こぼすな様」という童子がいます。下駄を履いて右手には竹箒を持っています。父上は穢れを浄化する霊力の象徴である「烏芻沙摩(うすさま)明王」です。お寺の便所の出入り口に「烏芻沙摩明王」の像が祭られていたり、壁に「おんくろだのううんじゃく」と書かれた明王呪が貼ってあることがあります。


こぼすな様

 生きるということは、ほかのいきもののいのちを奪うことにほかなりません。この明王さまは、ひとびとがその罪業を自覚し、頂いたいのちに感謝する機縁になるように祭られているのです。 私の創った「こぼすな様」はもっとわかりやすくその自覚をわれわれにうながしています。食堂にあっては、「与えられた食事を一粒たりともこばすなよ」と教えてくれます。便所ではこぼさずに用を足すよう、そしていただいた生命の結果である糞尿の因縁にも気付かせてくれます。

 東京府中市の「童々広場」と名付けられた公園には私のブロンズの彫刻がたくさん設置してあります。その公園の一角にゴミの集積所があり、ここにも「こぼすな様」が陣取ってゴミを出すひとたちに何事かを語りかけています。

 東京八王子にある曹洞宗の松門寺には在家のための坐禅堂があります。その入り口には「磨?の童子」が陣取って、軒瓦を磨きながら参禅のひとを見つめています。
 そのいわれは、昔ある高僧が古い丸瓦を砥石で磨いているところへ修行僧が通りかかりました。高僧は修行僧に尋ねます。「おまえはどこへ行くのか。」修行僧はこたえます。「悟りをひらくために坐禅をしに生きます。」高僧はいいます。「私の磨いている瓦がいつか鏡になると思うか。」と。

 禅問答をことばで解説するのは味気ないものですが、簡単に説明しましょう。古い瓦をどんなに磨いても鏡にはなりません。それと同じで禅は悟りをひらくことを目的にするのではなく、坐禅それ自体が目的であることを修行僧に諭したのです。常住座臥すべてが修行である禅宗では、坐禅を組むことも瓦を磨くことも修行として自覚するならば同じことだとこの童子は教えてくれるのです。

 いまや私たちは、物質的にはあふれかえるような状況にいます。また処理しきれないほどたくさんの情報が垂れ流され、限りない欲望に振り回されています。しかし想像力や情緒、精神世界の面で現代人が先人より豊かに暮らしているといえるでしょうか。私の作り出す童子たちに、無意識の記憶を刺激され、忘れていた情景を思い出すひとたちがたくさんいます。じつは私自身もそうなのです。私はこれからもいろんな現象に見え隠れするさまざまな童子たちを見つけ出す楽しい作業をつづけてまいります。
 


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