『月刊美術』1997年8月号掲載

国際誤解

籔内佐斗司(彫刻家)

 韓国の友人が奥さんを伴って日本にやって来たときのことです。

 私は、ご夫妻を日本料理屋に招待し懐石料理をご馳走しました。そのとき奥さんは横座りに座って、右手だけで食事をし、左手で器を持ち上げることはほとんどありませんでした。そしてわずかづつしか出てこない料理をひとくちづつ残してしまいました。私は料理が気にいらなかったのかと気が気ではありませんでした。しかしデザートを食べながら、生まれてはじめて食べた本格的な日本料理をとてもおいしかったと彼女は嬉しそうにいいました。困惑する私を友人がつぎのように解説をしてくれました。

ヌナガワヒメ


 韓国では、食事のとき女性が立て膝や横座りになることはごくふつうのことだそうです。そういえば日本でも中世の絵巻物を見るとお姫さまが立て膝ですわっている様子が描かれています。
 そして日本では正式の席でも飯碗や汁碗を左手で持ち上げて食事をしますが、これは世界的に見て少数派の食事作法です。洋食のコース料理で食器を持ち上げて食べるひとはいませんし、日本以外のほとんどの国では汁ものには必ず匙がつきます。また韓国では、客をもてなすときは食べ切れないほどの料理を出し、客は豪勢なもてなしであったことを表わすために料理を残すのだそうです。「食卓の脚が曲がってしまうほどのたくさんのご馳走」が最高のもてなしなのです。
 彼女は、ほんのわずかづつしか出て来ない懐石料理に当惑しつつ、食べたい気持ちを我慢しながらわざわざ少しづつ残してくれたのでした。

 大学で助手をしていた頃、韓国からの留学生の言葉使いがおかしいので注意したところ、彼女はまったく理解できないといいました。たとえば彼女は「私のお兄さんがそのようにおっしゃいました」というふうにいうわけです。私は「自分の身内のことを目上のひとにいうときに敬語を使うのはおかしいよ」と教えました。しかし彼女は、尊敬しているひとはどんな状況でも尊敬するのが当然だと主張しました。よく聞いてみると、韓国語には絶対敬語という概念があり、自分とだれかとの位置関係は第三者との関係にかかわりなく絶対なのだそうです。  彼女にしてみれば、状況に応じて言葉使いを変える日本人はとても卑屈で不誠実に見えたそうです。


葉風ひこ・葉風ひめ

数千年の交流の歴史を持つ両国でもこのありさまです。国際理解のむつかしさを実感した次第です。

 日本料理が出たついでに、知日家の英国の友人に教わったはなしをひとつ。
 日本料理では料理ごとに食器の材質やかたちや模様、焼き方や産地までわざと変えて料理ごとの相性を楽しみます。これは「数寄」として日本の美学のもっとも重要なところです。しかし英国の家庭では、客をもてなす正餐に使う食器はオードブルの皿からコーヒーカップまで同じデザインで統一されたものを使うのがマナーだそうです。
 ですから日本料理の食器のとりあわせは、日本の文化を知らない一般の英国人には統一感に欠け、ありあわせの貧しげな食卓に映ってしまう場合もあるそうです。

 私が以前英会話を習っていた女性は父親がアメリカ人、母親はフランス人で、母方の祖母は旧フランス領の北アフリカの出身でとてもエキゾチックな顔立ちをしていました。あるとき、私が日本の固有の文化について話をしていたとき、いつもは穏やかで優しい彼女が、そのときに限って私の考えをとても狭く閉ざされた考えであると厳しく批判してきました。私たち日本人は漠然と日本文化の独自性や日本民族の純粋性を自分たちの特徴と考え勝ちです。しかしナチズムと戦った欧米のひとたちにとって、それは偏狭で危険な国家主義を連想します。また彼女にとってひとりの人間のなかに複数の民族の歴史と文化が共存するのはあたりまえのことであったのです。


ぶっくえんどまん

 昨年、私はアメリカの小さな美術館で個展をしました。
 そのオープニングレセプションに連邦議会の議員さんが祝辞を述べにやってきました。日本側の実行委員会は返礼に私が作ったブロンズのブックエンドを彼に贈りました。しかし、しばらくして、それは美術館を通じて返されてきました。アメリカでは公職にあるひとが一定金額以上の物品を受け取ることは法律で厳しく禁じられています。議員氏は、私のブックエンドの日本での評価額を調べさせ、それが基準を超える金額であることがわかり、丁重に返却してきたのでした。
 わが国の贈答文化は、中元・歳暮をはじめ慶弔の金品のやりとりなどとても繊細で美しい礼儀として永い間大切にされてきました。

 しかし、アメリカ流の民主主義とプロテスタント流の潔癖主義が世界基準となった現在、「贈答の美学」は卑しく非近代的な風習として過去のものになりつつあります。

 「国際理解」とは、けっして自虐的に相手のいいなりになることでもないし、また独善的な自己主張ではなく、そのへんのバランスはほんとうにむずかしいことです。
 相手の立場を尊重し、自身の言動に誠実であることは人間関係の最低限のマナーです。
 残念ながら日本人同士でも、まったく自分の発言の後始末をしないご仁に多々出会うことを思えば、言葉や文化の違う相手と理解しあうことは容易ではありません。
 しかし私が親友と呼び信頼しあえるひとたちのうち何人かは、お互いの言葉が不自由なために生じたいろんな誤解を乗り越えた外国の友人であるのも事実です。


中庸童子

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