『月刊美術』1997年10月号掲載
長屋
籔内佐斗司(彫刻家)
「坐して半畳寝て一畳」とは、われら庶民の最低限の暮らしを象徴したものです。私は、日頃できるだけ簡素な暮らしを心がけたいと思っていますが、職人稼業の悲しさで、なにかとお荷物を抱え込んでは日夜あえいでいます。大阪弁で引っ越しのことを、宿替え(やどがえ)といいます。身の回りのものをひょいと纏めて軽やかに家移り(いえうつり)するいかにも町人らしい感じがあって、とても好きなことばです。
私は、生まれてから今までに住まいと仕事場を合わせると20回以上、平均すると1年おきに引っ越しをしてきたことになります。かの葛飾北斎にはおよびもしませんが、かなりの引っ越し魔です。しかしいまだに終の住みかと実感できるものに巡り会ってはいません。 私がこどもの頃、祖母は大阪南部の港町に住んでいました。上方落語に出てくる長屋そのものでした。大通りに面して「かど」と呼ばれた門があり、幅2メートル奥行き15メートルほどの路地に5世帯ほどが暮らしていました。江戸時代末期に建てられた二階建ての土蔵を改造して棟割り長屋にしたものだったようです。飴色の太い柱に白壁と瓦屋根のとてもしっかりした造りでした。家のなかは小さな部屋が三つに台所と納戸があるだけで、昼間でも電球を点けなければならないほど暗かったのですが、団地に暮らしていた私はとてもこの長屋が好きでした。
月を運ぶ童子
火伏せ童子(纏)
祖母は、路地をきれいに掃き水を打って、それから「七輪」を路地に持ち出して練炭に火を起こし、煤で真っ黒になったやかんを火にかけ朝食の準備にかかりました。練炭の燃える匂いをかぐといまでも懐かしい祖母の長屋を思い出します。 十年ほど前、私は東京の浅草の近くにある地下鉄「稲荷町」駅のすぐそばに仕事場を借りていました。清洲橋通りと浅草通りの交差点からちょっと南側にいった二軒長屋の一角で、東京のほんものの下町風情が色濃く残っているところでした。 上野から浅草の一帯は、江戸市中の度重なる大火にこりた徳川幕府が、防火のために江戸の中心部からたくさんのお寺を移したことから開けたところです。寺院に付属していた職人や商人が次々に移り住み、また、隅田川沿いに遊廓が作られ庶民の街として栄えましたが、関東大震災で焼け野原となりました。 江戸時代の家並みは壊滅しましたが、昭和の初めに復興された街並みは東京大空襲のときにも奇蹟的に焼け残り、ごく最近までその姿を残していました。
このあたりは銀座とともに東京にはめずらしく道路が縦横にきれいに整理されています。それは大々的な道路整備と街造りが行われたことを物語っています。ですから町割りがわかりやすく、道も広くてとても便利で暮らしやすい街でした。 しかし、ご存知のようにバブル期に地上げ旋風がもっとも激しく吹き荒れた地域でしたので、私が住んでいた5年ほどのあいだにその様相を一変させてしまいました。 私が借りていた長屋は、震災復興の際にたくさん造られた延べ坪二十坪ほどのモデル住宅でした。 大家さんが住んでいたとなりの家は当時の間取りのままでした。通りに面した四枚のガラス戸をはいると、土間に続いて八畳ほどの部屋があり商家風の造りになっていました。一階の奥にもうひと部屋と台所、便所、そして裏にはかわいい坪庭がありました。階段をあがると六畳と四畳半の和室があって大通りに面した部屋には半間のきちんとした床の間もありました。 外観は木造瓦葺きで二階の窓はやや小さめに作られ、そのうえには四角くて太い梁が何本も突き出ていました。しかし中から見るとその梁は壁にくっつけただけの飾りでした。 余談ですが、東京都の新庁舎は、小さな窓のようなデザインがビル一面に施してあって、遠くから見ると実際以上に大きく見えます。私は、長屋と都庁という二つの建築が半世紀を隔てて察し錯視を利用した同じ設計思想に貫かれていることを発見したとき、思わず笑ってしまいました。
王様のひるね
しかし、ほんとうに気持ちの落ち着くいい家でした。丁寧に解体してもういちど組み直せばいまでも充分快適に暮らせる建築です。そのためには家を一軒新築するくらいの費用がかかってしまうでしょうけれど。 日本人の住まい方は、目的に応じてこまめにしつらえ片付けることが基本でした。それは一日の生活サイクルでもそうですし、四季折々の生活調度の出し入れもそうでした。 靴を履き洋服を着て、狭い家の中で椅子に座り置きっぱなしの家具に埋もれて暮らす生活が庶民のレベルで数世代経過しました。しかし私たちは、これが自分たちの暮らし方だと胸を張って言い切れるものを持っているでしょうか。簡素だった長屋暮らしを思い出しながら、そんなことを思う昨今です。