『月刊美術』1998年4月号掲載

art

籔内佐斗司(彫刻家)

 「art」の訳語である「芸術」を三省堂・新明解国語辞典でひくと、「ある決まった材料・様式によって美を表現する人間活動とその産物」とありました。簡潔にして含蓄のある明解な定義です。またその「美」とはなんぞやと尋ぬれば、「@美しい・こと(もの)。Aよいこと。ほめる価値の有ること。」とありました。次に本誌の誌名でもある「美術」をひくと、「〔文芸や音楽と違って〕色や形により美を表現する芸術。」とありました。以上のことを念頭に、今回は芸術について真正面から考えてみることにします。

 芸術の分野に、コンセプチュアルアート、ハプニングあるいはパフォーマンスなどと呼ばれる表現形式があります。「かたかな」で表わされることからもわかるように、戦後新しい芸術としてアメリカのアートシーンの中で発展したものです。ピアニストが両手でピアノの鍵盤を巧みにたたくことや、ダンサーが鍛え抜かれた肉体と技術で華麗に舞うこと、あるいは画家がキャンバスに絵の具を塗っていくことが芸術家の行為と認められるなら、芸術家が自分の表現であると規定した行為はすべて芸術であるとする考えです。「まず、芸術家ありき」という近代西洋美学の究極の姿です。
 ものを作るのではなく、行為や状況を表現し、ひとに見せるということは、音楽や舞踊、演劇とおなじですが、表現技術の優劣よりはその独創性にこそ価値を見い出そうとしたのです。

平成伎楽団公演/慧日寺

平成伎楽団 大和西瓜/セルリアンタワー能楽堂

 マルセル・デュシャンは、陶器の便器やガラス瓶を乾燥させる器具に署名をし自分の作品として美術展に出品しました。作家が作品として「選択」した「もの」が「芸術」となった最初です。
 ヨーコ・オノは六十年代に現代芸術のアーテイストとしてニューヨークで活躍していました。ジョン・レノンとふたりでベッドのなかからインタビューに応じた「ベッドイン」は「愛と平和」のメッセージを表現する芸術行為として注目されました。
 クリストは「梱包すること」を自分の芸術の表現手段にしました。身のまわりにある小物や電気製品から始まり歴史的建造物、川や島などの自然の景観まで梱包してしまいました。

 ヨーゼフ・ボイスは、演奏でも演技でも舞踏でもない行為、かれがひとびとのまえで行うことすべてが芸術表現であるとしました。そしてかれの生き方そのものが芸術行為となりました。ボイスの活動がその後の環境保護の運動や自然回帰の思想にあたえた影響を思うと、西洋の知性が理想とする本当の芸術家が社会に及ぼす力の大きさに驚かされます。
 しかし日本人には、なぜこういう行為が「芸術」なのか、なかなか理解できないことです。それは「芸術」と「art」の間の「ずれ」に由来するのではないかと私は思っています。

 近代になって、西洋人がキリスト教的世界観から進化論や唯物論などの科学的世界観へ踏み出し、実存主義者が「神は死んだ」と叫んだとき、神にかわって創造する「artist」という「超人」を作り上げました。その超人が創り出した「もの」を「fine art=純粋芸術」と呼びました。ところが、わが国において、「八百万の神々」や「ほとけさま」は、日本人がどんな世界観を持とうとも、あいかわらず暖かく見守っています。われわれの神仏は苦もなく科学的世界観と共存することができたがために、日本人は人と芸術の関係について真剣に考える必要がありませんでした。わが国の先人は科学技術とともに、ヨーロッパの絵画や彫刻の様式や技法を盛んに輸入しました。しかしそれらは「fine art」に止揚されることなく、用途を持った絵画であり置き物であり続け、つくり手は「芸術家」という名の「職人」であることに安住してきました。


オリンポスの神々へ/ブロンズ

ですから欧米の「artist」に求められるような過剰な尊敬も期待もありませんし、芸術が、社会に大きな影響を及ぼすことはありませんでした。しかし四百年前、日本には千利休という本当の意味での「artist」が存在しました。茶の美学が、時の権力者の生活や人生観に深い影響を与えたことは周知のことです。はたして私達の同時代の芸術がそのような力を持つことができるのか、それはそこに身を置く私の大きな関心事です。


やまとぢから展(日本地図)/館林美術館

 いま世田谷美術館では、「異文化へのまなざし」(1998.2.12〜4.14)と題されたたいへん知的で興味深い企画展が開催されています。大英博物館と大阪の国立民族学博物館の所蔵品を中心に、ふだん「美術館」では絶対にお目にかかれないような標本・資料から、駅のキヨスクの店鋪までを展示しています。前世紀のヨーロッパ人がアフリカや南米そして日本などの未知の異文化に触れたときの衝撃を、当時の大英博物館の所蔵品や展示を再現することで私たちに教えてくれています。また身の回りのありふれた「もの」も、「美術館」という聖なる空間に展示することによって、「art 」と認識してしまう虚構性にも気付かせてくれます。

 この展覧会は、乱立した駅弁美術館の空虚な現状や、高額な印象派の絵画を競って購入したり、理解不能の「現代美術」を大仰に展示する多くの美術館に対して、強烈なアンチテーゼとなっているように私には思えます。「art」とは何なのかを考えさせてくれる痛快な企画です。ぜひご高覧のほどを。



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