『月刊美術』1998年7月号掲載
籔内佐斗司(彫刻家)
私は、工房を設立した最初からアシスタントを使っています。 「籔内佐斗司作品集・大博物誌」(求龍堂、1991年)の巻末に、アシスタントについて次のように書きました。「私にとって、彼らはとても大切な存在です。いつか彼らも私の工房から独立し一人前の彫刻家として仕事をするようになるかも知れませんが、“籔内佐斗司”が世の中に残すことのできる仕事のひとつとして、それは喜ばしいことでしょう。」
今年になって、その喜ばしいことが立て続けに起きました。工房のなかまが五人も個展をしたのです。すでに独立をしたひともいますし毎日のように工房に来ているひともいます。いささかの身びいきもありますが、ほんとうに素晴らしい連中とともに仕事をしてきたことを実感しました。 最初のアシスタントは、塩野麻理さんでした。まだ浅草に仕事場のあった頃で、大学院の学生であった彼女にご近所からお見合いの話がきたり、1988年のニューヨークの個展で、フジヰ画廊の藤井社長や担当者と一緒に珍道中をしたことを思い出します。彼女は三年ほど工房にいたあと、明星大学の日本文化学部に就職し、いまでは彫刻実技の講師になっています。さまざまな素材を使って仮面やかぶりものなど女性らしい作品を発表してきましたが、五月には青山の画廊で、羊の顔をした人物が真綿でできたウエディングドレスを着ている不思議な作品を展示しました。自由な発想と確固とした独自のスタイルを築いているひとです。
彩色スタッフである篠崎悠美子さんは、二月に銀座のワコールアートスペースではじめての個展をしました。彼女は東京藝大の保存修復技術研究室の出身で、修了制作の古典模写が藝大に買い上げられました。昨年は加山又造先生の天井画の制作助手も勤めた実力派です。今までは十分過ぎるテクニックをもてあまし気味でしたが、この個展でようやく自分の世界を掴んだように思います。この次の発表が待たれます。 おなじく彩色スタッフの田宮話子さんも、二月に銀座スルガ台画廊のレスポワ−ル展で個展をしました。また「アートボックス大賞展」や青山の新生堂が行っている「新生展」にも選ばれ、来年はギャラリーオリム、再来年は新生堂での個展も約束されています。暖かみのある色彩とおおらかな作風は、今の日本画界にはめずらしい個性ですし大器の風さえ窺えます。四月からは芸大デザイン科の中島千波研究室の助手として後進の指導も始めました。
現役の彫刻スタッフの大森暁生くんは、四月に京橋のギャラリーこいちで個展をしました。おおきな角や牙をはやした狼の頭部や鳥の羽根をモチーフとした作品が、雑誌で紹介されましたのでご記憶の方もいらっしゃるかも知れません。四年前に私が愛知県立芸術大学で講演をしたときに知り合い、卒業後は実家のある東京に戻りたいとのことで、それ以来工房の一員となりました。茶髪頭に古いアメ車を乗り回す「今どきの若造」ですが、彫刻に対してはいたって真剣です。
先月、九段の夏目美術店で個展をした上原三千代さんは、学生時代を含め四年ほど私の工房にいました。女性ながらたいへんながんばり屋で、すでに自分の工房も構えています。東京造形大学から藝大の保存修復技術研究室に進みました。修了制作では、鎌倉時代の傑作・東大寺の重源上人像を模刻しました。作品を奈良まで持って行って本物の像と並べて制作したり、私の工房に持ち込んで仕上げをしたり、二年がかりの大仕事でしたが、その甲斐あって現在は東大寺の所蔵になっています。私の工房を離れたあと、日光の輪王寺の七福神を補作したり和歌山県立医大に記念碑を制作したりと着実に実績を重ねてきました。また偶然にも夏目美術店の夏目進さんと同郷ということもあって、個展のこともとんとん拍子に進んだようです。私自身も大変お世話になっている夏目美術店が、彼女におおきなチャンスを与えてくださったことをこころから感謝しています。
私の木彫や彩色の技術は、仏像技法と文化財の修復技術をもとに試行錯誤をくりかえして完成した独特のものです。工房では、アシスタントにその技法の全てを教え、実践させています。ですから私の工房出身者は、ある種のクセがあるかもしれません。それをいかに自分の色に染め直し説得力のある表現に仕立て上げるかは、それぞれの才能の問題です。私は自分の制作現場が、かつての仏師や絵師の工房が持っていたプロの作家を育成する機関としての側面を持つことを大切にしたいと考えているのです。 工房のなかまが作品を発表し認められていくことは、工房主として嬉しく誇らしいことです。しかし工房を巣立っていくのは寂しいことですし、後釜を見つけ育てる苦労がいつもついて回ります。今度、各美術大学に求人案内を出そうかと考えています。その時の誘い文句はすでに決めてあります。「君も、ぼくのアトリエからデビューしてみないか?」