『月刊美術』2000年3月号掲載
天平という時代
籔内佐斗司(彫刻家)
天平時代は、729年から767年までの38年間をいいます。729年から始まる「天平」という元号のほかに、「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」と目紛しく元号が変わっていることからも、この時代が政治的に激動の時代であったことが想像されます。そして中心となる人物は、聖武天皇と光明皇后であり、最大の出来事は、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養でした。
「太陽と華と」展/東大寺
38年間といいますと、現代史では日米安保条約が調印された1951年から、バブル景気まっさかりの1990年までの年数にほぼ匹敵します。私は、天平時代を考える時、戦後の日本が、冷戦構造のなかで訪れた復興景気と経済成長時代からバブル景気を経て、公害や環境破壊と経済の停滞、社会不安などそれまでのさまざまなつけが一気に噴き出してきた最近までの軌跡ととてもよく似ているように思います。
7世紀は、超大国「唐」に後押しされた新羅によって朝鮮半島が統一の方向へと動いた時期です。半島の南端にあり大和朝廷と極めて近い関係にあった百済が、玄界灘に押し出されるように滅亡したのが7世紀の後半でした。この敗北によって、百済王朝と強く連係しながら国づくりを進めてきた大和政権にとって、百済より遥かに強く優れた文明があったことを思い知らされるとともに、新羅による侵略の脅威に曝されていることを認識させられたわけで、精一杯の虚勢を張ってでも主権国家としての日本を建設する必要を実感した時期ではなかったでしょうか。戦後の日本が、米国に追い付くことに明け暮れたように、当時の天平政権も唐の長安そっくりの平城京を建設し、行政機構もそのまま移植したことは、日本史でお馴染みのことです。
しかし平城京の造営やあいつぐ大寺院の建設など天平バブルは、最近のわが国とおなじように深刻な社会問題を生みました。巨大事業にともなうインフレや、労働者の都市集中と農業生産の停滞、大仏鋳造に関わる銅の精錬や鍍金作業を原因とする重金属公害の発生、木材資源の枯渇、そして社会基盤整備の遅れによる生活環境の悪化など、その後遺症は平城京を捨て平安京へ遷都せざるを得なくなるほど深刻であったことは、杉山二郎氏の「大仏以後」(学生社)によっても詳しく知ることができます。
国を開き交易を盛んにするということは、いいことだけが起きるとは限りません。文物とともに病原菌や害虫も入ります。今まで経験したこともなかったようなはやり病が頻発し、地方豪族の反乱とともに大きな社会不安の原因になりました。疫学的知識のなかった当時は、祟りや怨霊に原因を求め、解決策を仏教に頼ったわけです。このことによって日本の仏教が、釈迦の哲学的思惟ではなく、災を除いたり現世利益を求める祈願型信仰に傾き、その後の日本における仏教の信仰形態を決定づけたともいえます。日本人が、人間としての釈迦の思想を知るのは、鎌倉時代に禅宗がもたらされるまで待たなければなりませんでした。
任侠坊
和顔施合掌童子
天平以降の日本史を概観すると、わが国は外部の文化を導入する「開国」の時期と、その文化を咀嚼し熟成させる「鎖国」の時期が交互にやってきています。
開国の時期とは、天平伽藍を復興させた鎌倉時代、北山文化が栄えた室町初期、ヨーロッパ文明とはじめて出会った安土桃山時代、そして文明開化の明治時代です。面白いことにその時期の権力者の多くが、まるで聖武天皇が憑依したかのように、大仏や巨大建造物を造営しています。多分、昭和中期から平成初めにかけても、後世の歴史家によって同じ評価が与えられるのではないかと私は思っています。
天平時代は、行政組織や信仰形式のほかに美術工芸の分野でも、わが国のその後を決定付けました。東大寺や興福寺をはじめとする南都の寺院に残る諸尊のほか、正倉院御物の素晴らしさは、歴代の造形家にとって、追いつくことのできない虹のような存在です。
天平時代の遺品を見るとき、なんと素晴らしい才能が当時の日本に住んでいたことかといつもため息がでます。ほんとうに奇跡のようなできごとです。それらは、日本の美術工芸に携わるすべての末裔たちの永遠のお手本であり、自分の拠って立つところを見失ったときに還っていく故郷のようにも思えます。
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