『月刊美術』2000年4月号掲載

擬物

籔内佐斗司(彫刻家)

 古いお寺を訪ねたとき、私はいつも檜の巨大な柱を撫で回します。巨木の持つおおらかな感触は、なんともいえない温かさと安心感を与えてくれます。分厚い鉄骨でも安心感はありますが温かみに欠けますし、コンクリートでは包容力を感じることはできません。
 私は「掌(たなごころ)の記憶」を頼りに制作しています。犬を作るとき、こどものころに我が家で飼っていた犬のぬらぬらした鼻面や、つめたく柔らかい耳や乳首が並んだおなかの感触が、ほこりっぽい匂いとともに、手のひらの記憶として蘇ります。私の作品は、触覚の快さを再現したものなのです。

 再現的にものを作る、すなわち具象的なしごとは、現実とは違った素材で似た形を作るということです。ある意味でフェイク(悪意の産物である贋物との違いを強調して、擬物ということにします。)またははやりのことばでいえば「バーチャルリアリティ(仮想現実)の構築」です。「似て非なるもの、非なれど似ているもの」は、不思議とひとを惹き付けます。雲や山が何かの形に似ているのを見つけて、嬉しくなった経験は誰にもあることでしょう。また種に関係なく幼生が可愛いということは、成体に「似ているけれどすこし違う」ことに対する本能に根ざす好意的な反応だと思います。古今東西、具体的、写実的な美術に人気が集まるのはこの心理作用のためでしょう。
幼羊

乳母桜の像
 日本人は、触覚的な部分でとくに鋭敏でした。工芸品の完成度は抜群ですし、工業製品の精度の高さもやはり世界が認めるところです。比較文化で考えると、思想や哲学など観念的な分野より、触覚を中心とした感覚的分野に優れていることは確かです。それゆえに、擬物を作らせると本物の風合いを芸術的なまでに再現してしまう才能があるようで、いまや生活のすみずみまで擬物で溢れかえっています。限りなく絹に近い化学繊維や、見た目だけでなく手触りや持ち重りまで本物そっくりなプラスチック漆器などはお手のものです。
 中学校の頃に「〜からできている」という英語には、「made of ~(材料が一目で分かる場合)」と「made from~(材料が一目で分からない場合)」があると教わり、それを使い分ける発想に驚きました。この違いは、彼我の擬物に対する姿勢にも表れているように思います。
  壁紙のサンプル帳を見ると、布目風、和紙風、土壁風、砂壁風、木目調、経木の網代風などあらゆる天然素材の風合いをもった合成樹脂の製品があります。これらを欧米人は面白がりはしますが、決して高くは評価しません。彼らは合成素材であれば、色彩や意匠の新しさに価値を見い出します。また建物の外壁に使う石の割れ肌そっくりの型押しタイルなども、日本人と外国人では評価に温度差があるようです。

 職人型人種は加工にこだわり、観念型人種は発想にこだわります。「フェイクはフェイク」で終わるか、「別の素材でどれだけ実物の風合いを出せたか」を評価する姿勢は、本物の感触に対する感受性の違いから生まれたともいえます。

 しかし、こどもたちの環境を考えたとき、朝の歯ブラシや食器にはじまり、衣類、かばん、文房具、家具や床板表面の塗装や内装材、おもちゃやテレビやゲーム類などほとんどが合成樹脂でできています。また道路や運動場の表面、建築物、乗り物なども合成素材であふれかえって、天然素材に触れることのほうが稀というのが現状です。生まれた時からこのような素材に囲まれて育ったこどもは、それが天然素材の代替材や擬物という意識はまったくないでしょう。そして絹を虫が作っていることや綿が花から作られること、シャツのボタンが貝殻でできていることのほうが不思議であるかもしれません。


織女の童子
 天然素材は、自然の恵みや大地からの贈り物といった畏敬や感謝の気持ちを育みます。しかし、人間が支配する仕組みから生み出された合成素材では、そのような気持ちは生まれません。これは日本の伝統文化の将来にとって致命的な問題です。二十世紀後半に、西洋文明は思想の面で自然回帰へ大きく転換しましたが、日本人は今、感性の面でその岐路に立っているように思います。

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