『月刊美術』2000年8月号掲載
仮住まい
籔内佐斗司(彫刻家)
鰻のぼり童子
私の工房は、築35年ほどの小さな木造の建物でした。最近物が増えて手狭になり、また風が吹くと揺れるなど老朽化がひどくなりましたので、思い切って建て替えることにしました。十年ほど前、まだ三十代だった私が手に入れられる精一杯の中古物件でしたので、建物に多少の思い入れがなくもありませんでしたが、現実的な不自由さには替えられませんでした。
そこで、近くに臨時の作業場を借りて、五日がかりで荷物を運び出しました。からっぽになった建物は、表面的にはなんの変化もないはずなのに、生活感とともにその生命感を失ってしまいました。カーテンがなくなった窓からは、暗い空間が見えるばかりで、毎日にぎやかに作業をしていたことがうそのようでした。そして十年間、いつも持ち歩いていた工房の鍵を建築の担当者に渡した時、すこしだけ哀しい思いが襲ったのは意外でした。
六月の終わりころ、小さな建物は恐竜のような重機であっという間に破壊され、廃材は素材ごとに手際よく仕分けされて運び去られ、今では鰻の寝床のような更地になっています。
新築工事は、来年の二月いっぱいかかる予定です。その間、臨時の工房は二軒長屋の二階建て店鋪です。一軒はもと楽器屋さんで、何年か前にここで小さなギターを買ったことがありました。隣はもと蕎麦屋さんでしたが、なにかの事情で店のご主人が蒸発したとか。どちらの店も何年間か空家で、中はかなりの荒れ様でしたが、工房のスタッフのおかげで、なんとか仕事場の体裁を整えることができました。
私がはじめて自分自身のアトリエを持ったのは、1987年のことです。それまでは 芸大の木彫研究室を仕事場にしていました。芸大を離れると同時に、台東区の地下鉄銀座線・稲荷町駅のすぐ近くの二階建て長屋の一軒を借りました。敷地は十坪で、関東大震災のあと東京改造計画の一環で作られた標準住宅でした。この形式の建物は、その後も永く東京の庶民住宅のモデルになったようです。間取りは、一坪ほどの土間に続いて八畳ほどの広間と三畳の小部屋、そして台所に廊下と便所と一坪の裏庭があって、二階へ通じる階段を登ると、床の間付きの六畳ともうひとつ六畳間がありました。今回借りた臨時の工房は、それとほとんど同じ間取りです。建築時期は、かたや昭和のはじめ、かたや戦後の高度成長期と四十年の開きがありますが、その設計プランはうりふたつでした。
東上野界隈は、東京大空襲にも奇跡的に焼け残り、ながく昭和初期の下町情緒を色濃く残す地域として知られていました。私の工房があったあたりにもたくさんの職人たちが住み、私はにわか下町職人の気分を楽しんだものでした。しかし十数年まえの地上げの嵐は、下町の人情と人間関係をずたずたに引き裂きました。空き地ばかりが目につき、あたりの空気も殺伐としてきたので、もはや住みつづける魅力を感じなくなりました。
瓢鯰童子
まいまい童子
東上野から世田谷へ引越してきたのは、とてもよく晴れた日でした。レンタカーに道具類を満載して首都高速三号線の用賀インターを降りるころ、真正面に真っ青な空に映える富士山が見えました。まるで映画のワンシーンのようで、これからきっといいことがあるような気分になりました。それから今日に至るまで、健康で忙しく仕事ができたことを考えると、あの日の予感は的中したことになります。
ひさしぶりの仮住まいは表通りに面していて、隣は喫茶店、寿司屋、クリーニング店、居酒屋、たこ焼き屋、電気屋などが並び、駅から続く長い商店街には、生活用品のすべてが揃っています。またいくつかの大学や学校があるため、夜更けまでたくさんの若者たちが溢れる活気ある街です。
ちかごろ、白髪も増え、老眼もはじまり、なんだかすこし老けたような気になっていましたが、久しぶりの引っ越しは、すべてをリセットして気分的にも若返えることができたように思います。
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