『月刊美術』2000年10月号掲載

河童

籔内佐斗司(彫刻家)

 今年の夏、初めて岩手県の遠野に行く機会がありました。遠野は語りの里で知られ、日本の民話を考えるときには忘れてはならない土地でしょう。今回は遠野にちなみ、フォークロアの重要なキャラクターであり、私の作品にもたびたび登場する「河童」について考えました。

 「河童」は、「かわわらわ」から転じたといい、全国各地の川辺には同じような内容の河童譚が残されています。
 近畿地方では「かわたろう・がたろう」、山陰地方では「猿こう」とも呼ばれます。彼らの一般的な特徴は、身長が一メートル前後と小柄で、手足の水かきや背中の柔らかい甲羅、くちばしのように尖がった口元があげられます。そして頭頂部の「お皿」と称する禿頭部分が乾いてしまうと死んでしまうとか。そのほかには、水生動物特有の生臭い匂いがするとの証言もあるようです。これらのイメージは、すっぽんと蛙と猿の特徴を合成したものと考えて大過ないように思います。彼らは馬を川に引っ張りこんだり、おしりの穴から睾丸を引き抜いたり、村娘を孕ませたりとなかなかのくせものです。そして、なぜかキュウリが好みです。
 中国における水中の妖怪としては、水虎・水唐・河伯などと呼ばれる生き物がいたようです。西遊記に出てくる沙悟浄は水の性格を持っていますから、やはりその類の妖怪といえるでしょう。しかし日本の河童との相関性は仄聞にして存じません。ただ「河伯」と「カッパ」の音の類似性は気になるところです。

常泉寺河童
 河童の生息する河川は、昔の日本人にとって不浄を浄化する特別の聖域であり、賽の河原という言葉があるように、彼岸と此岸を分ける境界領域でした。

河童+装束
 治山治水が不完全だったころの河川は地理的に固定したものではなく、季節や天候によって流れや様相を大きく変えました。ですから河原は入会地として誰のものでもありませんでした。罪人の処刑がおこなわれたり、遊興のための芸能舞台や悪所の設営も河原では許されました。そこは、アウトサイダー的な漂泊のひとびとにとってまたとない住処でした。今でも東京下町の隅田川堰堤は、いわゆるホームレスのひとびとによって段ボールとビニールシートで造られたマイホーム(?)が軒を連ねていますが、これは大変伝統的な河原の暮らし方といえます。
 また川の上流の山岳地帯は、里人にとって異界でした。戦に敗れた者たちや罪人にとって格好の隠れ家でした。平家の落人の里や豊臣の残党などの伝説が各地の山里に残っていますが、不思議とそういう土地には河童の伝説があるように思います。
 河原者や河原乞食と呼ばれたひとびとがいました。彼らのなかには、遊芸のほかに川魚やすっぽんを追って潜水をしたり、ろくろや竹細工など特殊な加工の技能を持った者もいたでしょうし、死んだ牛馬の解体も河原で行われました。彼らは水運や川人足、土木に従事し、農耕を営まない連中は農作物を失敬したり家畜にいたずらをしたかもしれません。そうした剽悍な彼らの行動が、農村地帯の定着民には水辺の妖獣のイメージと重なって見えたのかもしれません。
 明治の末、柳田国男の「遠野物語」によって紹介されたことによって、「河童」は地域ごとの特殊な体験ではなく、全国的に共通した架空の生き物になったといえます。そしてこの著作に触発された芥川竜之介は、狂人から河童の国の話を聞くという形式をとった小説「河童」を著します。また牛久沼の小川芋銭の河童絵や戦後の清水箟の戯画などから、近代の河童像が固定し、各地で現実に起きた「事件」としての河童譚が、民話というフィクションのなかで生き残るようになりました。
 河童は、いまや山村の村おこし町おこしのイメージキャラクターとして活躍し、「河童サミット」なる全国的連絡組織までできています。ただ現代の健康的な河童たちが、河童本来の秘密めいてちょっと小悪魔のような背徳的雰囲気を消滅してしまったことを、いささか物足りなく感じるのは私だけでしょうか。

平成伎楽団/河童・治道翁

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