週刊現代
わが人生最高の10冊

講談社絵本『フランダースの犬』(ウィーダ・著 講談社))
『0マン(ゼロマン)』(手塚治虫・著、少年サンデー/1959〜1960年)
『ぼくらの出航』(那須田稔、1964、講談社)
『火の瞳』(早乙女勝元 講談社)
『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる・著、若菜珪・画 講談社/1959)『豆つぶほどの小さな犬』(佐藤さとる・著、若菜珪・画 講談社/1960)
『何でも見てやろう』(小田実・著、河出書房/1961)
『仏像の再発見』(西村公朝・著、吉川弘文館/1976)『仏の世界観』(西村公朝・著、吉川弘文館/1979)
『ものと人間の文化史18 鋸』(吉川金治・著、法政大学出版局/1979)
『斑鳩の匠 宮大工三代』(西岡常一、青山茂・共著、徳間書店/1979)
『日本人の忘れもの』(中西進・著、ウェッジ/2004)


 子供時代から、本を読むことが大好きでした。絵本や児童文学から恐竜や原始人などの子供向けの考古学の書籍のほか、もちろん漫画もたくさん読みました。昭和30年代は、貸本屋が大ブームの時代で、単行本の漫画は近所の商店街の貸本屋で借りて精力的に読んでいました。また本を買うためのお小遣いなら、親が喜んで出してくれましたので、私は近所の書店のお得意さまでした。子供時分に買い込んだ本はたくさんありましたが、25年ほど前に父が亡くなり、大阪の実家を処分した際にすべて整理してしまいました。今回の企画を頂いたとき、「わが人生最高の10冊」を探しましたが、残念ながら一冊も残っていませんでした。永い間、倉庫の片隅に紐で縛って積んでおいたのを覚えているのですが、処分してしまったことを今更ながら惜しいことをしたなと思っています。やむをえず、子供時分のかすかな記憶をたぐってネットで検索してみたところ、懐かしい本の情報がいくつも見つかり、ネット検索の威力をあらためて実感しました。
   
講談社絵本『フランダースの犬』(ウィーダ・著 講談社))
 まだ母に読み聞かせをしてもらっていた4〜5歳頃の講談社の絵本のシリーズの一冊でした。絵を描くことと犬が大好きだったので、思い入れがひとしおだったのかもしれません。少年ネロと牧羊犬のパトラッシュがルーベンスの絵の下で死んでしまう最後の場面では、いつもぽろぽろと涙をこぼしていたと母から聞きました。当時の講談社絵本は、実力のある絵描きさんが芸術性の高い挿絵を真剣に描いていたことを実感します。後年、アニメのフランダースの犬を見たときに、こどもっぽい漫画表現にいささかがっかりしました。今はやりのイラスト風絵本も悪くはないのですが、手のかかった本格的な写実的絵画の絵本がもっとあってもいいのではないかと思います。

『0マン(ゼロマン)』(手塚治虫・著、少年サンデー/1959〜1960年)
 私と同世代のアーティストで、手塚治虫さんに影響を受けたひとはたくさんいます。マンガ本で見ていた鉄腕アトムが、テレビ画面でギクシャクと動き出すのを目撃した世代です。でも、私にもっとも強烈な印象を与えた手塚作品は、アトムより前に発表された0マンでした。手塚治虫さんのマンガは、たいへんしっかりした思想性と知性に裏付けされ、大人になった今読んでも十分に読み応えがあります。アトムにせよ、魔神ガロンにせよ、ブラックジャックもブッダも、どこかに悲哀があるのです。この0マンもそうでした。ヒマラヤ山中で暮らすリスのようなしっぽを生やした超人類0マンのこどもであるリッキーは、インド奥地でふとしたはずみで人間にひろわれ、日本で育ちます。やがて、人類征服を目論む0マン国の独裁者たちと人類との壮大な戦争が勃発しますが、リッキーは人間や0マン国の反体制派と結んで戦いを挑みます。地球全体を冷やしてしまう電子冷凍機や、超破壊兵器・ブッコワース光線銃など、いまのハリウッドのSFX映画を先取りしたような壮大な仕掛けと物語が展開します。もちろん小学校の低学年だった私には、いささか難解な筋立てに苦労し、あとから出版された鉄腕アトムの方が読みやすかったのは事実ですが、それでも0マンのほうに魅力を感じました。ジャングル大帝もそうですが、手塚作品には文明論がテーマになっているものが多く、思想家としての手塚治虫も再評価されるべきでしょうね。

『ぼくらの出航』(那須田稔・著、講談社/1964)
 1945年前後の満州のハルビンを舞台にした少年小説です。書名も出版社もおぼろげながら、異郷での敗戦という非常事態に遭遇した中学一年生の日本人少年と満州人少年の友情と冒険、そしてそれぞれの新しい門出を描いていたことは覚えていました。私の不確かな記憶をてがかりに、「満州を舞台にした児童文学」とネット検索したところ、那須田稔さんの「ぼくらの出航」にたどり着きました。後年、映画の「スタンドバイミー」を見たときに、ストーリー展開や場面にデジャブーを感じたのですが、おそらくこの本の記憶と重なっていたのだろうと思います。終戦を挟んだ緊迫した満州を舞台にしているのですが、明るい未来を感じさせる質の高い児童文学でした。細かいエピソードはすっかり忘れていましたが、半世紀以上のときを経て、主人公のヤマザキ・タダシとヤン・ルウチャンの名前をネットの記事で見つけたときに、幼なじみに出くわしたような懐かしさを覚えました。また、二人が再会している情景を描いた表紙の絵を見ていると、子ども時代の記憶が鮮明に蘇ってきました。

『火の瞳』(早乙女勝元 講談社)
 早乙女勝元さんの東京大空襲を描いた小説の記憶があったので、ネット検索したところ、「火の瞳」という書名であったことがわかりました。凄惨な東京大空襲のあと、主人公の少年が焼け野原で再会した同級生の少女との物語です。そして、少年がほのかな恋心を抱いていた彼女が、とつぜん空から降ってきた飛行機の破片に当たって死んでしまうという理不尽なできごとに大きな衝撃をうけたことを覚えています。考えてみれば、1960年頃は終戦から10数年しか経っていない時期でした。1953年に生まれた私には、第二次世界大戦も進駐軍も実体験はありませんが、大阪市内へ行けば、片付けられないままに放置された空襲の残骸や機銃掃射の弾痕のある建物がまだ残り、観光地では白衣を着た傷痍軍人らしきひとがアコーデオンを弾いていました。父母の実家には、軍靴や鉄帽、飯盒など、戦争を身近に感じるものがころがっていました。祖母は、家の近くに落ちた爆弾で飛び散った見知らぬ子どもの遺体を集めて埋葬した経験を話してくれました。昭和30年代は、まだまだ戦争の匂いが残っていた時代だったのだと、今頃になって気がつきます。
 戦後70年が経って、国際情勢は激変しています。そんななか、憲法改正や安全保障の議論がかまびすしい昨今ですが、賛成・反対を論じる政治家や識者、マスコミ関係者のほとんどすべてが戦争の実体験のない人たちばかりで、現実感のない軽佻浮薄な観念的な論調にいらだちを覚えます。

『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる・著、若菜珪・画 講談社/1959)
『豆つぶほどの小さな犬』(佐藤さとる・著、若菜珪・画 講談社/1960)
 佐藤さとるさんが描いたコロポックルたちは、私の彫刻作品「童子」シリーズの直接のルーツといっても過言ではありません。神代の時代のスクナヒコナの系譜をひく彼らの秘められた生活と主人公の少年との交流にわくわくしました。筋立てももちろんですが、若菜珪さんの挿絵に魅了されました。先述した「火の瞳」も「ぼくらの出航」もそうでしたが、絵を描くことが大好きだった私が夢中になって読んだ小説は、いずれも挿絵がとても重要な意味を持っていました。このシリーズは、2作目までは若菜珪さんでしたが、3作目からどうしたわけか挿絵家が変わり、それまで築いてきた物語のイメージが崩れて、まったく読む気がしなくなりました。若菜珪さん(1921〜1995)は、児童文学に数多くの挿絵を提供してこられた女流画家でしたので、絵をご覧になればご存じの方も多いと思います。しっかりしたデッサン力に裏打ちされたデフォルメーションと、ほのぼのとした懐かしい絵柄は、すくなからず私の作風にも影響していると思います。ネットで若菜珪さんの挿絵版の「豆つぶほどの小さな犬」を見つけましたが、なんと55,000円の値段がついていました。捨てなければよかった!!

『何でも見てやろう』(小田実・著、河出書房/1961)
 70年安保を17歳で迎えた私は、当時の多くの高校生がそうであったように、全共闘運動やベ平連に少なからぬ共感を抱きました。その教祖的存在のひとりが小田実氏で、彼の著述を熱心に読みました。集会で見かけた屈強な巨体と鋭い眼差しは、世界のできごとのすべてを見通しているかに見えました。そして、弱小国の北ベトナムに空爆を続け、ベトコンや一般市民を無慈悲に掃討しているアメリカ軍は傲慢な侵略者で、北ベトナムを支援する中国やソ連に正義があるように見えました。したがって、日米安保条約も解消すべきだと考えていました。1975年、ベトナム戦争は、アメリカ軍の撤退によってあっけなく終結し、北ベトナム政府によってベトナムは統一されました。しかし、すぐにベトナムとカンボジアの間で第三次インドシナ戦争が起こりました。侵略を受けていたベトナムが、今度は隣国に攻めて行ったのをみて、強い違和感を感じるとともに、反米を基にした「ベトナムに平和を!市民連合」というスローガンがいかに空虚であったかを知りました。また新左翼やベ平連が共産圏から多額の資金援助を受けていたことや、当時の日教組委員長が、北朝鮮に心酔していたことを知るにつれ、革新を自認する勢力に心の底から幻滅を覚えました。そして、私たち高校生を指導していた団塊の世代の大学生たちが、大学を破壊するだけ破壊してまたたくまに転向し、何ものをも生み出せなかった体たらくを冷静な目で観察することができたのは、「何でも見てやろう」のせめてもの効用であったと思います。アメリカで公民権運動やフラワームーブメント、ベトナム反戦運動を展開した若者が、良きにつけ悪しきにつけ21世紀の新しいアメリカ社会と文化を生んでいったのとは好対照であったといえるでしょう。そして、正義だと思っていたソ連はあっけなく崩壊し、毛沢東の文化大革命や北朝鮮の実態も明らかになりました。
 2011年の東日本大震災以来、かつての日本社会党や新左翼シンパを多く取り込んだ民主党政権の無能と支離滅裂ぶりには、予想通りでしたがあきれ果てました。また最近の憲法改正や集団的自衛権をめぐる国会審議の醜態や一部議員の幼稚きわまりない行動には、非常に危ういものを感じます。かつて、「日本人の民主主義は12歳」と揶揄されましたが、それから70年を経て、政治家やマスコミを含めわれわれはいったいどれだけ成長できたのか、大いに疑問です。

『仏像の再発見』(西村公朝・著、吉川弘文館/1976)
『仏の世界観』(西村公朝・著、吉川弘文館/1979)
 私は2004年から東京藝術大学大学院文化財保存学教授として、おもに仏像を中心とした木造文化財の保存修復を担当しています。私が藝大生であった当時、文化財保存学の前身である保存修復研究室の主任教授が、西村公朝先生でした。先生は、本務である財団法人美術院国宝修理所所長も併行して勤められた仏像修理の第一人者でした。そのころの藝大は、欧米の現代美術を追いかける創作分野が主流で、伝統工芸や文化財保存はどちらかといえば傍流でした。しかし、西村先生が多くの仏像修理の著作を出版し、マスコミにもしばしば登場されて、文化財保存は徐々に脚光を浴びるようになりました。ちょうど日本画科教授の平山郁夫先生が、シルクロードをテーマに制作活動をされて注目を浴びていたことも相まって、日本文化と仏教美術への関心が急速に高まっていった時代でした。現在の仏像ブームはその延長線上にあるといえるでしょう。西村先生の代表的著作であるこの二冊は、今も研究室の学生たちへの推薦図書にしています。

『ものと人間の文化史18 鋸』(吉川金治・著、法政大学出版局/1976)
 法政大学出版局は、1948年の創立70周年を記念して創設された財団法人です。法政大学関係者以外の意欲的な著作も多く出版しています。1968年から始まった叢書「ものと人間の文化史」は、日本人の民俗やものづくりを丹念に追いかけた素晴らしい刊行事業で、現在までに200冊を超えています。叢書の第一号の「船」は、おもに和船の構造から歴史、運用までを詳細に記しています。1976年に出版された第18「鋸」(吉川金治・著)の筆者は、1912年に栃木県で生まれた鋸鍛冶、目立て職人、鋸研究者の吉川金治さんでした。かつては製材所や山林で製材に使われていた大鋸や縦挽き、横挽きの鋸を文化史的に網羅した名著です。 ちょうどこの時期、網野善彦、宮本常一などの民俗学の研究者が注目され、為政者の視点ではなく、庶民の立場から日本史が語られるようになったことは喜ばしいことでした。
 東京藝術大学の彫刻科の学生だった私は、木彫を専攻していたので、鋸に大いに興味を抱き、この本をテキストに、製材用の大鋸を収集し研究しました。いまでも20枚程度の大きな鋸が手元にありますが、最近はすっかり怠け者になって手鋸を挽くことはなくなりました・・・。

『斑鳩の匠 宮大工三代』(西岡常一、青山茂・共著、徳間書店/1979)
 1949年に法隆寺金堂壁画が焼失するという大事件の反省を受けて制定された文化財保護法のもと、国宝や重要文化財を保管する収蔵庫を国庫補助で積極的に建設するようになりました。そのもっとも早い例が、興福寺国宝館です。東金堂の北側の食堂(じきどう)遺構のうえに建てられた旧・食堂を模した建物ですが、鉄筋コンクリート(RC造)の建造物です。このように、国庫補助で造られる収蔵庫は、構造は耐震・耐火のRC造であることが要求されます。
 さて、1976年に完成した薬師寺金堂は、白鳳様式を持ったみごとな木造建造物です。しかし、この建物は、本来は国宝の銅造薬師三尊像のための収蔵庫として計画されました。時の高田好胤管長は、「白鳳伽藍の復興」を唱え、写経による大勧進を進めておられた頃で、金堂は伝統工法によるヒノキの木造建造物であることを願われました。しかし文化庁は文化財保護を理由に、RC造を主張しました。金堂の設計を担当した名古屋工大の竹島卓一氏は、折衷案として内陣は防火シャッターを備えたRC造にして、外側を木造建造物で覆い、耐震を考慮して鉄製の金具で連結するという二重構造で設計を進めました。すでに法隆寺金堂や五重塔の解体修理を終え、古代の建築工法を知悉していた宮大工頭領の西岡常一氏は、鉄金具で補強する竹島工法に対し、「千年のヒノキは千年持つのに、金具を使こたらそこから腐食する。金具なんか使うたら、ヒノキが泣きよる」と断固反対を唱えました。結局は、西岡氏の主張の多くが採用されて、現在の姿になりました。その後、京都や奈良の古い寺院伽藍の大改修が続きましたが、西岡氏の主張がなかったら、多くがRC構造を主体とした建築が主流になっていた可能性もあります。
 「寺を建てるなら、ヒノキの山をひと山買え」「塔はひと組み」など、私たち文化財保護に携わる者にとって忘れてはならない名言・至言が、聞き上手の青山茂氏との対話のなかで、穏やかな大和弁で語られています。

『日本人の忘れもの』(中西進・著、ウェッジ/2004)
 私の講演会やエッセイのネタ本として大変重宝している本です。文化功労賞、文化勲章を授与されている万葉学者の中西進先生は、京都市立芸術大学学長、日本文化研究センターセンター長などを歴任された、現代を代表する碩学として知られています。その博識と明晰な知性、若々しい感性は80代半ばを過ぎた今も健在です。新幹線で東京—京都間を行き来することの多い私は、車内誌に連載されていた同名のエッセイを何よりも楽しみにしていました。単行本だけでなく文庫本にもなっているところを見ると、氏が指摘される「忘れもの」に大いに共感を覚えるひとも多いのでしょう。