「仏像−その素材と技法から」
私は二十代の後半に、仏像の保存と修復の仕事に携わっていたことがあります。寄せ木造りの仏像を解体し組み上げていく作業を通じて、日本の木彫技術が最高レベルにあった時代の造像技法をつぶさに研究することができ、その結果として、今の私の制作技法を確立したわけです。ですから私は、「日本の彫刻」に今までもこれからもこだわりつづけていこうと思っています。
本稿は、仏像彫刻がどのように造られてきたかに焦点を当てた「日本仏教彫刻史・試論」です。
日本の仏像彫刻を技法の面から見ると、東大寺大仏の建立と、平安末期の「定朝様式」の成立を境に三期にわけることができます。
まず大仏以前では、飛鳥時代前後、法隆寺の百済観音、救世観音、広隆寺の弥勒菩薩など、日本の美意識が形成される以前に朝鮮半島の造形美学と技法を用いて日本で制作された時代。楠、松、香木など香の強い一本の木から丹念に彫り出したものが多く、厳格に統一された規格や技法はまだなかったといえます。材質は木材以外に、個人的な念持仏であったと思われる小さなブロンズ像も多数残されています。また法隆寺五重塔初層には釈迦の事跡をパノラマ風に表した塑像群や石彫、テラコッタなども少数ですが見うけられます。当時は国家仏教になる以前ですから、仏教を信仰していた帰化系豪族たちが寺院を建立する際に、建築や造形の工人たちを一族単位で朝鮮半島などから呼び寄せ造らせたためではないかと私は考えています。
つぎに大仏建立を中心とする天平時代は、唐の造形美学と技法をそのまま導入した時代です。ブロンズと漆がこの時代の造形素材の代表としてあげられます。そして木材は建築材であり彫刻の材料としては補助的材料でしたから、木彫は傍流の技法でした。
ブロンズ像の筆頭はもちろん東大寺の大仏が挙げられます。残念ながら建立当時の部分は連弁や膝のごく一部に残るだけです。しかし漆を用いたいわゆる乾漆像は、興福寺の十大弟子や八部衆のほか、東大寺の三月堂に林立する巨像群も残されています。
東大寺はなんども兵火にみまわれ、天平創建時の仏像の多くは失われてしまいました。南大門の仁王さまもいまは鎌倉時代の木彫像ですが、創建当時は脱活乾漆(漆と麻布による張子の像)の巨像でした。また金堂のなかで大仏を囲むようにならんでいたたくさんの巨大な仏像群も、脱活乾漆で作られていたと考えられています。
このほかにも天平時代は、技法と素材の百貨店といえそうなほど、バラエティに富んでいました。
大仏創建は、当時の日本の国力には不釣合いな国家的プロジェクトでした。当時の極東情勢が強大な唐と新羅によって再編される時期であり、朝鮮半島南部から多数の亡命者が集団で日本に移り住んできたと思われます。在来の豪族たちと「今来(いまき)」のひとがモザイク状に混在する状況となったことでしょう。したがって朝廷は、日本という国家のアイデンティティを確立し、唐風の近代国家を急ぎ建設しなければならなかったのです。
しかし、国力を超えた公共事業は国家財政を破綻の危機に追い込みました。巨大なブロンズ像を制作するための莫大な金属資源の浪費や、漆資源の枯渇、労働人口の都市集中による農村の疲弊、大官大寺造営による木材資源の不足や物資不足からくるインフレなども聖武〜称徳政権を揺るがしました。また巨大仏像の鋳造は、銅の精錬と水銀を使った金メッキによる重金属公害を発生させ、永くわが国に世情不安をもたらしたと考えられます。
大仏以後、すなわち奈良時代末期から平安時代初期以降の檜を中心とした「木彫王国」の幕開けは、一木造りから始まります。そして約百年後の平安末期に日本独自の木彫制作技法である定朝様式の「寄せ木造り」に辿り着きます。この様式は、鎌倉時代から現在の仏師に至るまで連綿と受け継がれていきます。
定朝様式は、大量の仏像受容に対応するために考え出された極めて合理的な造像技法で、近年まで世界を席巻した現代日本の量産システムと共通するものがあります。あまりにも完成され尽くした技法であったために、現在に至るまで、仏像の制作技法の発展は停止してしまいました。
東大寺の大仏は二度の兵火で甚大な損傷を受けましたが、その度に全国的な勧進が行われ、残った部分を活かしながら新しい部分を鋳継ぎしてみごとに修復されます。
定朝様式の仏像は、新しい寺院のご本尊から、家庭の仏壇の小さな仏さままで今も作られ続けています。
このふたつのことは、日本人にとってはあまりにも当たり前の事ですが、世界の信仰史や美術史のなかでは特筆すべきことなのです。そしてこの国に残されているたくさんの仏教美術は、われわれの文化の「ありよう」を、現代人に静かに示してくれています。
(00/09/07、アートトップ「仏像彫刻の魅力」)
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