大仏受難史概説
大仏のお顔は四代目
籔内佐斗司/彫刻家
大仏のお顔はなぜ黒い
子どものころ、東大寺の大仏さまを見上げながら不思議に思ったことがある。「からだはでこぼこしてるのに、お顔はずいぶんきれいやなあ。」「首から上は黒いのに、からだは緑色をしているのはなんでやろう?」後年、東大寺の歴史を知って謎が解けた。作られた時代が違うからであった。
今年で御年1250歳を迎えられた大仏さまは、栄光とともに受難のドラマを持っている。戦乱によって二度も焼き討ちにあい、甚大な損傷を受けておられるのだ。台座である蓮弁と膝の一部は天平創建当時のものだが、それ以外は大々的な修復と補作が何度も繰り返されてきた。そして創建時のお顔は平安時代末に破壊され、そのすぐ後に新調されたお顔は戦国時代に破壊された。江戸時代の初めには臨時の木造銅板貼りのお顔もあったという。もちろんこれらを現在見ることはできない。17世紀に現在のお顔があらたに鋳造されて、今のお姿になった。黒々とした大仏さまのお顔は、四代目というわけだ。
平重衡の焼き討ちと鎌倉再建
大仏受難の序章は、752年に開眼法要が行われてから半世紀後に始まる。巨大な自重に絶え切れず、大仏の尻の部分がひしゃげ始め破砕を起こしたのだ。そして像全体が沈み首が西方に傾きだしたと「東大寺要録」にある。この時は、大仏の背後に小山を築いて傾斜を止めている。この築山は、鎌倉時代の改修時に取り除かれるまで大仏を座椅子のように支えていたらしい。そしてこの傾きでバランスを失っていた頭部は、折から頻発した地震の影響もあって855年に脱落してしまった。この落下した頭部は急いで吊り上げられ、もとの位置に接合されたという。
さて平安時代の東大寺は、各地の広大な寺領が齎す豊かな経済力を背景に、武闘勢力を抱える独立王国のような存在となっていった。しかし政治の実権を平氏が握った頃、当時勃興しつつあった地頭や国司らとの紛争が頻発し、その調停を求めた僧兵らが示威行動をくり返すうち、平氏と利害が対立するようになっていった。そして南都の寺院勢力と再興を期する源氏とが徐々に連係を強めていくことになる。若き義経と僧兵姿の弁慶が五条大橋のうえで出会い、主従の契りを結んだという架空のエピソードも、当時の時代状況を巧みに私たちに伝えている。
そのような経緯の末、1180年に平清盛の命を受けた平重衡の軍勢は南都の焼き討ちを行い、東大寺、興福寺など天平創建時の伽藍をほぼ壊滅させてしまった。この時の東大寺の惨状は、「灰燼は山のごとく、余煙は黒雲の有り様」であったという。大仏殿を構成していた莫大な木材が燃え上がる熱量は想像を絶する。その炎のなかで焼け落ちた大仏殿のイメージを、昨年9月11日の世界貿易センタービルの痛ましい映像に重ね合わせてしまうのは私だけだろうか。
この時の大仏は、頭部と両腕が落下し修復不能となるが、体部は比較的原形を留めていたらしい。これは、さきほどの傾きを止めるための築山が背面を覆っていたことが幸いしたのではないかと私は想像している。それにしても炎熱によって大きな亀裂や歪みが生じたことは間違いなかろう。
大仏本体の修復は1183年に始まり、1185年には開眼供養が執行されるという早業であった。当時の人々がいかに大仏を哀惜し、またその祟りを恐れたかがわかる。修復にあたっては、たまたま日本に来ていた商人の陳和卿(ちんなけい)ら数人の宋人たちの指導によったことが記録に残っている。このあたり、なにやらサッカーのワールドカップで日本チームを率いたフランス人監督を連想するのはいささか不謹慎か。ともかく彼らの先進知識のおかげで、体部は丹念な修復が行われ、頭部や腕は新しく原形から作り直し鋳造された。お顔の造形はおそらく平安末期の和様を踏襲したと想像されるが、唐代の様式を持っていたであろう創建時の大仏を見なれていたひとびとには、いささか違和感を禁じ得なかったことが九条兼実の「玉葉」によって察することができる。
大仏の修復は3年足らずで完成するが、伽藍の再建事業は約20年を要している。これは技術的な問題以上に、用材と資金調達に困難を極めたためらしい。勧進職の重源(ちょうげん)は、一輪車に乗って全国を行脚した。また新たに実権を掌握した源頼朝は、平氏が破壊した東大寺の復興に惜しみなく協力したといわれる。歌舞伎の「勧進帳」で弁慶が即席に読み上げる口上は、東大寺復興事業の「勧進」文書であることもよく知られたことで、頼朝側の関所の役人を黙らせるに絶大な効果を持っていることを弁慶は充分に承知していたわけだ。
鎌倉時代の東大寺復興事業は大仏殿や廻廊、南大門などの建物だけでなく、大仏を取り巻く巨大な脇侍像や四天王像などたくさんの木造彫刻もあらたに制作された。この巨大プロジェクトを担ったのが後に慶派といわれる運慶、快慶ら南都の仏師集団であった。イタリアルネッサンスに比肩しうる鎌倉時代の仏像彫刻の数々は、悲しいかな南都の焼き討ちというカタストロフィを経験しなくては生まれなかったことも、私たちは理解しなければならない。
松永久秀の焼き討ちと江戸再建
大仏受難の第二章は、1567年に始まる。戦国武将・松永久秀の軍勢による東大寺の焼き討ちで、大仏殿を中心に周辺は焼け野原となり、大仏さまは「湯とならせ給う」(「多聞院日記」)と記録されている。この表現は、平重衡の時よりも損傷が激しかったことを想像させる。その原因は、最初の焼き討ちで構造的にもろくなっていたうえに、修復の際に融点の低い金属を使ったためではないだろうか。そして、運慶たちが造り上げた巨像群も大仏殿とともに焼け落ち、今となっては南大門の仁王像からそれらの偉容を想像するしかない。
数年後には織田信長の援助により大仏再建が始まるが、間もなく彼の死によって中断を余儀なくされ、この後ながらく大仏さまは痛ましい姿のまま野ざらしにされていた。秀吉も家康も再建に協力するが、あまり熱心ではなかったらしい。秀吉などは、自らが創建した京都の方広寺に、六丈の大仏を建立しているにもかかわらずである。彼らは東大寺の復興よりも、それぞれの普請や国内のインフラ整備に眼が向いていたのであろう。焼き討ち後100年以上経った1692年にようやく大仏の開眼供養が営まれ、その後大仏殿の落慶には1709年まで要している。
天平時代に東大寺を建立する際、おそらく近畿圏だけで用材を調達できたと思われるが、鎌倉時代の再建時にはすでに巨木の調達に大変苦労し、重源は周防の地まで出向いている。そして江戸の再建時には、巨大建築を構成する建設用材は絶望的に払底していた。このことは、鎌倉再建の南大門が太い檜の通し柱を使用しているのに比べ、江戸時代の大仏殿は再建規模を縮小したにも関わらず、堂内の丸柱は一本の檜の周りをたくさんの細い材で取り巻き、それを釘と金属の輪で束ねた集成材が使われていることでもわかる。その構造は、大仏殿右奥にある根元に四角い貫穴のある有名な柱の内部を見れば確認できる。また大仏殿の左奥には、天平創建時の伽藍模型が置かれており、現在の大仏殿の規模と比較することもできるので、東大寺参詣の折りには、ぜひ見分されることをお薦めしたい。
昨年、アフガンの大石仏がイスラム急進勢力によって爆破されてしまった。ものいわぬ大石仏の破壊の映像に接した時、私は大仏さまの歴史を思わずにはいられなかった。彼らの所業と同じことが、東大寺の歴史のなかで二回も行われたことをわれわれは肝に銘じておかなければならない。しかし、そのたびに営々と再建事業が行われてきたことも事実だ。1250年の間の破壊と修復の歴史を一身に体現している大仏さまの存在は、世界の文化遺産のなかでも極めて稀な例である。私たちはそれを誇りに思うとともに、後世に伝える責務も負っていることを忘れてはならない。
参考文献/「東大寺のすべて」展図録(朝日新聞社/2002)「大仏再建」(五味文彦・著、講談社)「大仏再興」(杉山二郎・著、学生社)「東大寺」(東大寺・編、学生社)
籔内佐斗司/彫刻家
1953年大阪生まれ。東京藝術大学および大学院で彫刻を修め、1982〜87年同学保存修復技術研究室にて仏像彫刻の研究と修復事業に従事。その後、古典研究をもとにした独自の彫刻技法を駆使し、木彫やブロンズ、版画、執筆、映像などさまざまな活動を、国内外を問わず勢力的に繰り広げている。その表現は、日本人がどこかに置き忘れてきた豊かな精神世界を、諧謔と陽気さに満ちた懐かしい造形で蘇らせようとしている。2002年5月「大仏開眼1250年奉賛『籔内佐斗司 in 東大寺〜太陽と華と〜』展(東大寺金鐘会館)を開催。
著書;「籔内佐斗司作品集・大博物誌」(1991、求龍堂)「開運『楽観道』のすすめ」(2002、求龍堂)ほか