「貸画廊有用論」
未曾有の美術ブームだそうです。それを反映してか銀座の新設ビルには、必ずといっていいほど画廊が造られているといわれます。
さて私が、自分の作品の発表の場を画廊空間にしようと決心したのが1979年の4月でした。そして昨年12月の大阪での発表までの8年間に13回個展を開いています。
その間に10回以上のグループ展に参加していますから、インスタレーションや版画の作家を除けば、かなりハイペースな、木彫家としては殆んど非常識な発表回数でしょう。
そんなところを見込まれて編集部より「貸画廊について作家の側から考察せよ」との難題を賜りまして、以下はいささかの想い出を込めながらの苦心のレポートであります。
画廊は、その経営形態から大きく三つに分けることができます。ひとつめは画廊のスペースを展覧会をしようとする人に賃貸するケース。一般に、貸画廊といいます。借り主の多くは、他に発表の場を持たない新人や若手の作家ということになります。展覧会業務の殆ど全てを借り主である作家の権利と責任において行ないます。後で詳しく触れるつもりですが、こんなに沢山の貸画廊があるのは、日本独自の状況のようです。
ふたつめは、画廊主が作家を選んで展覧会を委託したり、ある方向性をもったグループ展を企画したりする画廊、企画画廊とでも呼びましょうか。当然、展覧会の経費や種々の業務は画廊側の負担ですが、その分画廊主は、作家に対し価格や作品について、何かとやかましいことをいう権利を持っています。欧米で、画廊といえば殆どこのタイプで、新人を発掘してその作品を販売し、価格をマネーゲームとして操作していくのが仕事です。
最後は、画商という美術品を日常的に売買する人達が経営するショールーム的な性格を持った画廊、商業画廊としておきましょう。
この商業画廊が企画画廊と大きく違う点は、数十年の画商としての歴史を持っている場合が多いことで、現役作家の作品だけでなく古美術品や「物故」と呼ばれる既に亡くなった大家の高額な作品を扱う割合が大きく、また画廊間で作品を常に動かし得る画商市場を形成していることでしょう。公開競売制を建前とする巨大なオークション会社で古美術品や近代の一流絵画が取り引きされる欧米と日本はこの点でも大きな違いがあるようです。
では、このような日本の画廊状況、とりわけ貸画廊システムがどうして形成されたかを私自身の体験をケーススタディとして考えてみようと思います。
私が学生の頃、上野のお山の団体展は、彫刻家を目指す若者にとってあまり魅力的な存在ではありませんでした。また読売アンデパンダン展などで若者たちの耳目を集めた「前衛的」作家達は、都美術館を追われたあと、ある人は海外で、ある人は故郷で、そしてある人は貸画廊を舞台に、極めて難解な芸術活動を始めます。難解であればあるほど、理解されなければされないほど高次元の芸術と見なされるかのような思い込み。かつて新左翼と呼ばれた人達とほぼ同じ思考のパターンで、時代というものの怖さを今さらながら感じます。
私が神田の小さな画廊で初めて個展を開いたのは、1979年の11月でした。くしくも、あの南画廊が閉じられたその日です。
まだ大学院の学生でした。今ではごくあたり前のことですが、当時は「彫刻の学生が画廊を借りて個展をするなんて」と、とても珍しがられました。その頃、彫刻家を志す若者のうち、塑像の好きな人は団体展の公募に、抽象的で石材や金属を用いた新しい傾向の仕事に興味のある人は、ぼつぼつはやり始めた美術コンクールに出品するのが一般的でした。
美術コンクールの草分け的な「毎日現代美術展」や箱根の「彫刻の森美術館展」、各自治体が主催する野外彫刻コンクールも続々と全国に創設されました。審査員も従来の団体展も枠にしばられない意欲的作家や美術関係者、評論家などで構成され、当時はとてもオープンで新鮮な感じがしたものです。
神戸市の須磨や宇部市で行われた野外彫刻展の受賞や買い上げのニュースが仲間うちでよく話題になりました。今から思えば地方美術館の新設ラッシュに伴うかさ高い収蔵品を効率よく集める会といった側面は否定できなかったように思います。そうした野外彫刻のコンクールも、応募作品の急増や審査会場の都合もあったのでしょうが、マケット審査と呼ばれる作品模型による一次選考が多くなり、審査員の顔ぶれも固定化し、入選作品にもある種の傾向が見え始めました。
実は私も、学生時代に一度だけあるコンクールに応募したことがありました。とても人気のあるコンクールでしたから作品の搬入場は立錐の余地もないほど彫刻や立体作品であふれかえり、ありとあらゆる色彩と素材が、ごちゃまぜの遊園地の倉庫のようでした。手続きを済ませ、ふと振り返ると、私の手間ヒマかけた素木の木彫作品は、素材の強烈さをむき出しにした粗野な作品の間でうち震える処女の如き趣。後日「選外」の通知を手に作品を引き取りに行った帰り道、「あほらしっ」という思いがこみ上げてきました。そしてその時、作品発表の場は個展形式の画廊にしようときっぱり決心しました。
その年に開廊したばかりの神田の小さな画廊ー駒井画廊を、運よく知人の紹介でスムーズに借りることができました。オーナーは、ビルの持ち主の駒井さんで、背の高い温和な方でした。先年お亡くなりになって画廊も閉じたと最近知りましたが・・・。画廊は、ビルの地下1階、便所と事務所を含めても10坪に満たない小さなスペースで、一日中換気扇の音がブーンとうなっているそんな所でした。
貸画廊で個展をすると簡単にいうけれど、これで仲々大変な事なんです。
おおむね貸画廊は11月頃、翌年度の予約を1週間単位で受け付けます。賃貸料や立地、知名度や壁面などから人気のあるところは、あっという間に予約で一杯になり、仲々不慣れな者は割り込めません。さて画廊と日程が決まり、賃貸料の半分を払い込んでも展覧会までに残りを工面しなければなりません。また案内状の作製や作品の撮影、印刷、送付、新聞・雑誌への手配、搬入・展示・搬出、陳列台、看板等々、作品を造る以外の雑用がこれでもか、これでもかと出て来ます。要領の悪さが仕事を何倍にも増やしました。
それでもどうにか1979年11月26日、「木刳り」と題した初めての個展を開くことができました。さきほどの落選作品を核にしてからくり人形のような木彫作品を並べたわけです。それから一週間、便所のドアの前に丸い椅子を置いてひたすらお客様のお越しを待ちました。画廊への足音が聞こえるたびに「今度はどんな人かな」と緊張したものです。そして、旧知の方や沢山の初めてお会いする方が作品に対して示される反応をつぶさに見て、作品というのは、作り手から離れて第三者の眼と感性に共鳴して初めて完結するものだということを実感できたのは何ものにも代えがたい体験でした。
オーナーの駒井さんは、美術には素人でしたので画廊のアドバイスとマネジメントは近くで1969年頃から田村画廊と真木画廊を経営している山岸信郎氏がしておられました。
氏は神田界隈の画廊村の村長さんといった風情で戦後の前衛的美術を終始一貫応援してきた人です。先に記した「読売アンパン」などの流れを汲む作家たちの発表の場を支えた功労者です。また両画廊でデビューした尖鋭的な若い作家達は枚挙にいとまがありません。真木画廊の何度も塗り重ねられて岩肌のようになった壁の塗料の厚さがそれを物語っています。
私が駒井画廊で個展をした同じ週に、ここ数年海外での活躍も目覚ましい川俣正氏が真木画廊で初めての個展をしていました。山岸氏が私の会場へやってきて「いやあ、面白い作家が現れた」と興奮気味に川俣氏のことを語っていたのを思い出します。時代の先を走ろうとする若い才能に、ともかくも発表の場を確保しようという山岸氏の信念、「作家としてまずやりたいことをやってみろ」という姿勢には頭が下がります。しかし神田と言うビジネス街のビルの1階で、若者達のおよそ販売対象にはなり得ない作品に最低ランクの賃貸料で広い空間を提供し続けることは大変なご苦労だとお察しいたします。いつでしたか、黒の皮ジャンパーに巨躯をあふれさせ、ミニサイクルを軋ませながら銀座の画廊をまわっておられた氏の姿をお見かけして深く感動いたしました。大切にしなければならない画廊だと思います。
その後、いくつかの貸画廊や、川崎市が運営していたギャラリーなどで個展を続けました。時たま新聞や美術雑誌の展評で紹介してもらったり、私の作品に興味を持って継続的に見て下さる人も現れました。しかし作品は全く売れませんでした。作品を造るので精一杯で、それ以上考える余裕もなかったというのが正直なところでした。
この頃私は、芸大で絵画や彫刻の古典技法と古文化財の保存修復を研究する部門の助手として、仏像の修理などをしながら最低限の生活費で糊口をしのいでいました。この研究室の絵画部門のスタッフには院展系の日本画家が何人かいて、その人達の仕事ぶりを間近に見て彼我の作品の市場性について深く考えさせられる機会を得たことはとても幸運でした。
1985年、「ふぇいす・ぱふぉうまんす」という展覧会を銀座のみゆき画廊で開きました。1965年から続くこの画廊は、銀座の一等地にありながら、貸画廊に徹する画廊主の加賀谷澄江
さんの人柄のためか、若手から大家まで多くの作家達に信頼されて評論家やジャーナリスト、コレクターなどが集まる最も完成された形の貸画廊のひとつでしょう。私は「生活空間に持ち込める彫刻」という永年の課題を個展で打ち出したわけです。当時、生活もかなり逼迫していて彫刻家を続けられるかどうかの賭けでもありました。
結果は、私の意図を理解して下さった加賀谷さんのお陰もあって、会期中に殆どの作品に買い手がつくという予想外の好成績をあげ、彫刻家としての可能性を確信できた忘れられない展覧会になりました。
最近、企画画廊が急速に増えているとききます。画廊のスペースを自前で所有している場合が多いので、維持費を賃貸料に頼る必要がないため、画廊主の好みが作家選択・展覧会の傾向に強く反映されます。しかしそれだけに企画力や美術商としての見識と展望が作家と客の双方から厳しく求められます。今のところ残念ながらアメリカの画廊をスタイルだけ追っかけて、将来性となると首をかしげたくなるあだ花のような画廊が多いのが実情です。
しかい中には経営基盤がしっかりして国際感覚を備えた経営者が海外の作家や画商と連係を取りつつ、従来の商業画廊が扱わなかった現代美術の分野で着実に実績をあげつつあるのも事実です。近い将来、こうした企画画廊のいくつかは、日本の美術市場で大きな勢力になるのは確実です。これから社会的にも経済的にも充実する世代を客層としてつかんでいるからです。
1986年に個展をした五反田のエスェズギャラリーは、典型的な企画画廊のひとつです。まだ30代の若い画廊主島田茂氏は、日本の同時代の作家を発掘し彼らに発表の場を確保する一方、彼らの創り出す作品に魅かれる美術愛好家達とともに成長していこうという気の長い戦略です。眼先の利益を追い廻すのではなく自分の目を信じ、将来へのしっかりした展望のもとに誠実に歩んでいこうとする姿勢には共感いたします。
昨年は、銀座のフジヰ画廊と現代彫刻センター大阪支店という二つの商業画廊が私の展覧会を企画してくれました。画廊と作家が協力して作品をお客様に買って頂くための展覧会です。
そしてその折に沢山の画商さんから商品としての美術品とその市場や流通についていろいろ聞き、私なりに考えさせられました。
なかでもフジヰ画廊社長の藤井一雄氏が折に触れ私にお話下さった叩きあげの画商としてのことばは作家として傾聴すべきものがありました。また、プロ中のプロが見せたケタ違いの販売力には開いた口が塞がりませんでした。
数年前から私と同世代の貸画廊育ちあるいはコンクール育ちの彫刻家を大手の画商がぼつぼつ扱い始めました。大きな流れを感じます。近い将来、必ず訪れるであろう美術市場の国際化や価値観の変化の中で、商業画廊のカジ取りは、若いスタッフの先見性とこれからの購買層への誠実な対応にかかっていると色んな所で耳にしました。
さて話を本論に戻し、なぜ日本、特に東京で貸画廊がこんなに隆盛するかについて。まず先に述べたように、都美術館を占有する団体展の多くが、若い才能の登竜門としての魅力を失い、機能しなくなっていることが挙げられます。かつてそこへ吸収されていた若いエネルギーはその発露を画廊空間へ求めたのです。では、なぜ欧米には見られない貸画廊へ若い作家が集まったか。これは、三題噺めきますが東京の土地と交通事情の劣悪さが挙げられます。欧米の若い作家は、足の便のよい所に制作の場だけでなく自分の作品の展示場としても充分に機能し得る広いアトリエを構えることができます。そこへ写真史料などの打診で興味を持った画商やコレクターが車で気軽にやって来れるわけです。
さて東京近郊ではどうでしょう。あるいは地方都市ではどうでしょう。現在の状況では絶望的です。かつて私の親しい彫刻家夫妻が仲間達と郊外で仕事場に隣接した展示場を造りました。私も彼らの勇気に拍手し成功を願いましたが、やはり長続きはしませんでした。
貸画廊についてよく批判的な意見を耳にします。しかい日本の現在の色んな状況を考えた時、画家や彫刻家を目指す若い才能の苗床として都心の貸画廊は有用な存在です。
作家の側は都心の一等地で誰に干渉されることなく最良の状態で自分の作品を展示することが可能ですし、新しい才能を発掘する側は極めて集約された地区で効率よく彼らの作品に直接触れることができるのですから。
貸す側、借りる側、見に行く側が、それぞれの立場から貸画廊システムの再評価とより一層の効果的利用方法を検討されることを提言いたします。