遺伝子の記憶のなかから
籔内佐斗司(彫刻家)
はじめに
私は、目で見、手で触れ、考えることのできるすべてのものを形にしたくて彫刻を創ってきました。それは、わたしが抱いている素朴な自然観にもとづいた精神世界を表現しようとしているともいえます。
私は、人間は選ばれた特別な存在ではなくて、ほかの動物や植物などの有機物、鉱物や金属など生命がないと思われている無機物、山、川、海、空、雲、風、雨などの自然界の概念や現象、太陽、月、星などの宇宙の構成要素すらもふくめたこの世のすべての存在と作用の一部分にすぎないと思っています。
また生命については、つぎのように考えています。
われわれは、ひとりとして突然この世に現われたわけではありません。肉体と精神の大半を、ふたりの親から受け継いでいます。そして親はその親から、またその親はそのまた親からと、永遠の絆を遡ることができます。私のルーツである無数の生命体は、悠久の時間のなかで愛しあうために出会ったかもしれないし、食べられるために出会ったかもしれません。愛しあうことによって新たな命を作りだし、食べられることによって相手の生命と同化し一部は排泄されて他の生物を養います。
これを宗教家は輪廻転生といい、科学者は食物連鎖といっています。
このような考えは、ひろくアジアのひとびとがずっと抱きつづけてきた自然観でもあります。
また古代のヨーロッパやアフリカ、またアメリカ大陸の先住民族の文学や物語にもとてもよく似たものを感じます。きっと古代のひとびとは、宗教や科学を知る以前に、生命の本質を直感していたのでしょう。
世界中のすべてのアーテイストは、どんなに独自性を主張しようとしても、それぞれの遺伝子の記憶の制約のなかで創作活動を行っています。
私の遺伝子のなかには、日本だけでなく東洋の数千年あるいはそれ以上の記憶が保存されています。好むと好まざるとにかかわらず、その制約の範囲のなかで私も作品を作っているのです。
私が生み出す作品世界の源泉についてもう少し具体的にお話しましょう。
歴史的には日本の文化の底流には古代の中国文明があります。地理的にとても近く、古くから政治的にも文化的にも日本は中国からとても強い影響を受けました。
千数百年まえの中国は、ローマ帝国のように栄えていましたから世界中の文物や思想が集まり、それを周辺地域に波及させていました。地中海文明がヨーロッパ全域に及ぼした役割に、そして今のアメリカが世界中に影響を及ぼしているのに似ています。
日本独自の文化のように見えるものも、ルーツをたどるとその原形を古代の中国に見つけることがたびたびあります。
私が表現している作品の世界も、中国や広くユーラシア大陸や古代インドに繋がっていることをいつも感じています。
四つのキーワード
私の作品には、四つのキーワードがあります。一つのキーワードで成り立つものもありますし、いくつかのキーワードが重なっているものもあります。
まず最初は、「鎧」です。
「生命の器」という言葉があるように、私は肉体をこの世で生命がまとっている鎧のようなものだと思っています。生命エネルギーはこの世とあの世を繰り返し行き来することができますが、肉体はそのつど解体されて無機物にもどっていくはかない存在です。少なくとも私はそう思っています。だからこそ、私たちのまわりにあるさまざまないきものたちの姿は美しくいとおしいのではないかと思っているのです。
私の木彫作品は、単なる具象彫刻ではなく「生命の鎧」なのです。そのことを表現するために、私は多くの作品の頭部とからだを別々に作り、絹の紐などで結わえています。そして、内側をくりぬいています。(図版-1)
次のキーワードは「童子」です。
日本には、「七才までは、神のうち」ということばがあります。
これは、こどもは人間界ではなく神の領域に属する存在であるという考えからきています。
ちいさなこどもを選んで現人神や仏陀の生まれ変わりとして数年間だけ敬うということは、アジア各地で見られます。私が作るさまざまな童子たちは、単に「おとなではないひと」ではなく、神性をそなえた不思議な存在なのです。
また、私は「おに」のこどもたちをたくさん作っています。裸の姿で、頭にはちいさな一本の角が生えています。「おに」は大自然のエネルギーを、さまざまに偽人化したものです。そしてそれらはひとと神のあいだに位置する超人的な力でひとびとを助けたり、罰を与えたりして天界の意思を見せつける役目を持っています。
私が作る童子たちは、みんな陽気で無邪気で子供っぽい残虐性も秘めています。
そして、時間や場所を飛び越していろんな場面に現われさまざまな演技をしています。
あるときは物語の主人公に扮したり歴史的場面に登場したり、状況や概念の象徴となったり、虚構と現実のはざまで遊んでいます。(図版-2)
次のキーワードは「動物たち」です。
動物たちも私の作品の重要なキャラクターです。
私は、はじめに申しましたように、ひとも動物も根本は変わらないと思っています。
たまたま今の世で、私は「ひと」の姿に生まれ、私という人格を演じているに過ぎないのだと考えています。
私の子供のころの最愛のともだちはいぬでした。何頭ものいぬを育ててその死に立ち合いました。いぬのほかにも、いろんな小動物を観察し育てました。彼等は、今の私より子供のころの私にずっと心を開いてくれたように思います。
私が作る動物たちには直接のモデルはいません。私の手のひらが覚えていた触覚の記憶を再現することで自然とかたちになってきたものなのです。
つぎの言葉は「連続性」です。
私が作った作品は一体で完結するのではなく、動画のようにすこしづつかたちを変えて一連の動作を表わす場合があります。静止した形態ではなく、刻々と移り行く時間を表現したいと思っているのです。また二つでひとつの状況を表わしている作品もあります。能動と受動、正と負などです。子供の顔が五つの母音を発している作品や、いぬが歩いたりこどもが走ったりしている作品も形の変化と連続性が時間の流れを表現しています。そして、現実の世界とは違う空間軸に生きていることを表現するために、壁から突然現われたり、壁のなかに消えていきます。(図版-3)
技法および材質
つぎに私の作品を生み出す技法と材質についてお話しをします。
私たち日本人は、彫刻というとまず木で作られた仏像を連想します。現在の日本に直結する文化が生まれて二千年といわれていますが、そのあいだに作られた彫刻のおよそ90パーセントは木を素材にしています。残りが金属や石などのその他の素材です。
歴史的にみて中国は、土と焼きもの、韓国は石と金属が、造形素材の代表でした。
地理的にも近く、精神的文化的土壌がよく似ているこれらの国でも、自然環境や民族性がその素材の好みにおおきく影響しています。
日本における木の使用の比率は、彫刻にかぎらず建築や身の回りの工芸品や生活用具全般で圧倒的でした。
私の作品は、日本の在来種である「ひのき」という針葉樹を彫刻したあとに、「うるし」という木の樹液から採れる美しい塗料を塗っています。そのあとに鉱物質の顔料を動物性の膠で溶いて着色します。
この技法は千数百年まえに、仏像や工芸品を作る技術として確立されたものです。
また、日本には「木割り術」という製材法則と「寄せ木造り」という彫刻技法があります。
これは規格化された極めて完成度の高い木造建造物や彫刻を短期間に大量に造り出すために、やはり千年前に考え出された生産システムです。
仏像のからだの各部分を一定の比率で割り出し、それによって必要な材木の寸法を決めます。
これを「木割り術」(kiwari)といいます。そして一本の木ではなく複数の四角い材木を組み合わせて堅牢な構造を造ってから彫刻していきます。そうすることで、材木を無駄なく使うことができ、一体の彫刻を部分ごとに取り外して複数のスタッフが同時に制作をすることができたのです。これを「寄せ木造り」(yosegi)といいます。それは、あたかも現代の自動車を作り出すシステムを連想させます。
また乾燥による割れを防ぎ重量を軽くするために、像の内部を彫り込んで空洞にします。これを「内刳り」(uchi-guri)といいます。
参考写真の「羅漢像(釈迦の弟子)」の場合、肩から腰まで縦に六材を使っています。そして頭部や両腕、両足は別の木で作って取り付けてあります。こういう構造が「寄せ木造り」です。また、内側はくりぬいてあります。
メトロポリタン美術館やボストン美術館には古い日本美術の素晴しいコレクションがありますが、そこに陳列されている木造の仏像はほとんどこの像とおなじ技法で造られています。
こうして彫刻したものを、木の樹液から作った「うるし」という塗料を塗り、鉱物質の天然顔料を膠で溶いた絵の具で彩色をします。(図版-5)
このような技法は、現代の仏像をつくる職人たちには今もなお受け継がれていますが、現代美術の彫刻家のなかでこの技法で制作している作家は日本にもほとんどいないといってよいでしょう。私はこの技法を、およそ40体の古い仏像の保存と修復をした経験から覚えることができました。そして、伝統芸術の分野でなく現代美術の作家として積極的に活用しているのです。
おわりに
日本は、東アジアの辺境の島国として特有の文化を育んできました。特に17世紀から19世紀中頃まで日本は「鎖国」を行い、海外との交流を断絶していました。その間に熟成されたさまざまな造形や芸能、たとえば数寄屋建築や歌舞伎や相撲、浮世絵、根付けなどが日本の伝統文化として広く海外に紹介されています。
しかし現実の日本人の生活環境は、1945年の太平洋戦争の敗北以来、圧倒的な米国基準の物資や思考、生活様式に呑み込まれて暮しています。何百年ものあいだ、この島国で熟成してきた繊細な伝統文化や独特な生活様式は、今や消え去ろうとしているのが現状です。これは、東アジアの多く国々が、昨今の急激な経済発展と引き替えに等しく直面している問題です。「大航海時代」「植民地経営」という地球規模の活動を経験しなかったアジアに住むひとびとは、猛烈な工業化とグローバリゼーションの波に対して、自分たちの精神世界や生活習慣、文化をどのように適合させ新しい民族のアイデンテイテイを構築していくのか、まだその方策を見つけてはいません。
そして、新しい生き方や価値観を大衆に先駆けて創造していくことができるのは、政治家や経済人ではなく、表現の自由を保証されたそれぞれの民族の賢明な芸術家であると私は確信しています。
アジアの芸術家は、それぞれの遺伝子に保存された記憶に対するとても重い責務を負うとともに、非常に面白い時代を迎えようとしているのです。
(翻訳:ギャビンフルー)
図版-1 Womenユs Armour - Suspended Eyes
1997 Bronze Photo:Katsura Endo
図版-2 福禄寿童子(Happy,Wealthy and Long Life Children?)
1996 檜・漆・顔料 Photo:Yoshiyasu Tsunekawa
図版-3 森の仲間たち-うさぎ(Some Denizens of the Forest - Rabitts)
1992 Bronze Photo:Yoshitoki Fukunaga
図版-4 羅漢像(制作行程)
1994 檜・漆・顔料Photo:Jun Endo