美術にまつわる木々-十選
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(1)檜-阿弥陀如来坐像(一〇五三年、定朝作、像高二七九.〇B、平等院)
わが国は「木の文化」の国である。私は文化財の修復作業の経験を通じ、そのことを実感することができた。われわれの先人が、造形素材として使ってきた十種類の樹々の話に、しばしおつきあいを願いたい。
かつて日本は檜の原生林に覆われていたという。古代の人々は都や寺院を造営する際に、周辺に生えていた檜を伐採し、そのまま建築材として用いることができた。奈良の大寺院を訪ねるたび、列柱に使われている檜の巨大さに圧倒される。まっすぐな檜は、木口から楔(くさび)を打ち込むことで容易に割って製材をすることができる。おかげでわが国では製材用の縦挽き鋸が中世になるまで普及しなかったといわれる。
彫刻素材としての檜の使用が圧倒的となるのは平安時代以降のことである。浄土教信仰の普及とともに仏像の需要が飛躍的に拡大し、材料を安定して調達し効率的に製材することのできる檜が選ばれてきたのだ。
平安末期の大仏師定朝は、「寄せ木造り」という造像技法の標準化を集大成した大天才である。彼の確実な作品は、平等院の阿弥陀如来像の他は発見されていないが、定朝様式は九百年以上経った今もわが国の仏像造りの規範となっている。 |
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(2)松-広隆寺弥勒菩薩半跏像(七世紀、像高八四・二B、広隆寺)
松は朝鮮半島を代表する木である。広隆寺の弥勒菩薩半跏像は、アカマツで作られており、韓国の中央国立博物館にある金銅の半跏像ととてもよく似ている。以前は、この像のお顔が柔和で日本的であることから、わが国で作られたとする説もあった。しかし、鼻筋や目もと、頬の肉付きなどは明治期に補修が行われている。当時の修復技術者が平安末期の様式を引き継いだ仏師たちであり、まだ古代の様式史の研究も不十分だったことを思えば、修復により顔立ちが和様になってしまったことの説明はつく。この像は、七世紀ころに百済で作られ日本にもたらされたと考える方が自然であると思う。
松は樹脂分が多いため火力が強く、はぜにくい。登り竈や穴竈を使う陶芸家は今も松を薪にして陶器を焼く。根や枝を乾留すると漆芸や油絵具には欠かせないテレピン油がとれる。またバイオリンやギターなど西洋の弦楽器の用材としても使われてきた。松は美術や音楽をささえてくれた木だ。
松は朝鮮半島を代表する木である。広隆寺の弥勒菩薩半跏像は、アカマツで作られている。韓国の国立中央博物館にある金銅の半跏像ととてもよく似ており、七世紀ころ百済で作られ日本にもたらされた可能性が高い。
正月の門松からわかるように、松は神の宿るめでたい木として日本人に愛されてきた。樹脂分が多いため火力が強く、はぜにくい。そのためかがり火として用いられたことは「松明(たいまつ)」の字からもわかる。陶芸家は今も松を薪にして陶器を焼く。多すぎる脂(ヤニ)のため、彫刻材としてはあまり歓迎されなかったが、様々に姿を変えて私達の役に立ってきた。
栄養価の高い松の実は、修験者や忍者の携行食料になった。太古の松脂は琥珀になり、現代の松脂は印刷用紙の滲み止めなどに使われる。根や枝を乾留すると松根油と呼ばれるテレピン油が採れる。アカマツ林は、松茸まで私達にプレゼントしてくれる。
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(3)樟-観音菩薩立像(百済観音)(七世紀、像高一七八・八B、法隆寺)
法隆寺の百済観音は、樟の木で作られている。樟は「楠」とも書くように熱帯から日本を含む亜熱帯に分布し、朝鮮半島には自生していない。百済観音の名前の由来は美術史の長い間の謎でもある。
クスノキは、「臭(くす)し木」が語源といわれ、強い芳香がする。樹液を蒸留して採られる樟脳からは、防虫剤やセルロイドや興奮剤のカンフルなどが作られる。わが国に産する樹のなかでは最も大きくなる種類で、昔から舟材や家具、欄間などに使われてきた。木目が粗くて漆仕上げには向かないため、仏像の材料としては一般化しなかった。しかし明治以降木肌を生かす一木造りが流行すると、そのよい香りや巨木ゆえに多くの木彫家に使用された。私が学生のころも、木彫実習室は樟の香りが充満していた。さきごろ東京国立博物館で開催された「近代日本美術の軌跡」展に陳列されていた「天心像」(平櫛田中作)のそばを通りかかると、懐かしい樟の香りがした。 |
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(4)桐-伎楽面・迦楼羅(法隆寺献納宝物二二六号)(八世紀、全長三二・〇B、東京国立博物館)
桐は、草と木の中間に位置する樹木である。多量の水分を含んでいるため、伐採後よく乾燥させると多孔質の組織に空気をたくさん取り込んで、体積の割りにとても軽く柔らかい材木となる。物理的性質は弱くても、それゆえの利用法もある。
天平時代に盛んに行われた芸能「伎楽」に使われた仮面の多くは桐材でできている。当時の演者の多くは少年であったと思われ、そのために仮面は軽くなければならなかった。桐は、数ある木のなかでも最適の材料であった。
大切な工芸品や書画などは、桐で作った保存箱に納められてきた。気密性と緩衝性に優れ、樹脂が少ないため内部にヤニがこもることもない。
むかし女の子が産まれると桐の苗木を庭に植え、その娘が適齢期になるとその桐を売り、婚礼用の桐箪笥を用意したという。琴や下駄、木目込み人形の芯なども桐材を用いる。また懐かしい懐炉灰も、桐を燃やした灰である。こうして見ると、桐には優しく女性的な印象がある。 |
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(5)白檀-九面観音菩薩立像(八世紀、像高三七・五B、法隆寺)
インドや東南アジア、中国南部に自生する硬くて重い木のことを唐木(からき)と総称した。幹の中心部は朽ちて空洞になっている場合が多く、大木は少ない。黒檀、紫檀、白檀、栴檀、花梨などが代表的なもので、美しい色や艶をもち、家具や楽器、香木の材料として輸入された。
南方の硬い木を使って器物を作ることを唐木細工という。黒檀や花梨などを使う三味線作りはその代表だが、極めて精度の高い技工が要求され、指し物のなかでも最も難しいものとされる。
高雅な芳香を持つ白檀は、小振りな素木(しらき)の仏像を作る材料として珍重され、削り屑まで香材として利用された。このような仏像を檀像と呼び、貴人らの念持仏として大切にされた。
唐で作られた法隆寺の九面観音菩薩立像は、繊細さとシャープさを合わせ持つみごとな造形表現である。この可愛い像が放つ白檀の香りと異国的な風貌に、当時の日本人は釈迦誕生の天竺に思いを馳せたことだろう。 |
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(6)桜-大判錦絵・虫籠(一八世紀、三八・一×二六・〇B、ギメ美術館)
日本の国花である桜は、植物学的にはりんごと同じくバラ科に属する。いずれも華やかさと風格を感じさせるものばかりだ。古代、「はな」といえば「桜」であり「花王」と呼んだように、日本人の桜好きは年季が入っている。町なかでよく見かけるソメイヨシノは、江戸時代に今の東京巣鴨の染井霊園の近くで交配された新種を、山桜の名所である奈良の吉野にちなんで名付けたとか。それにしても新しい年度の始まりを、桜の花咲く時期にもってきた先人の英断に感謝したい。
桜材は浮世絵の版木に使われた。樹脂分がすくなく、硬く緻密で粘りがあって、刷り師のばれんで酷使される版木には最適のものだ。印象主義の画家たちを狂喜させた歌磨の多色刷り浮世絵版画は、何枚もの版木を刷り重ねる精度の高さが要求された。女性の髪の毛筋一本一本を執拗に彫り分けた彫り師、刷り分けた刷り師の技倆に感服する。日本を代表する絵画が、日本を象徴する樹で表現された偶然が嬉しい。 |
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(7)榧-十一面観音立像(九世紀、像高一〇〇・〇B、法華寺)
奈良時代、仏教の国教化政策による大寺院の造営は、深刻なインフレをもたらした。巨大な大仏の鋳造は国内の金属を使い果たし、大規模な乾漆像は漆資源の枯渇を招いたことだろう。奈良時代末期から平安初期にかけて、木地仕上げの仏像が集中的に作られているのは、そのような社会状況と無縁ではないように思う。
イチイ科の榧は、堅く粘りのある材質で、絶対数では檜に及ばないため、製材効率と供給の面で建築材には適さなかった。しかし肉桂に似た甘い芳香ゆえに白檀の代用として仏像材に選ばれたとする説もある。榧を使った代表的な仏像には、法華寺の観音菩薩立像や大阪・獅子窟寺の薬師如来坐像などがある。いずれも翻波式といわれる鋭く規則正しい衣の襞が美しい。この時期、榧を緻密に彫り上げた経験が、日本の木彫技術を飛躍的に向上させたともいえる。
榧にとっては、捨てる部分が多い彫刻材より、無駄の少ない四角い碁盤に使われる方が、幸せかもしれないけれど。 |
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(8)欅-薬師如来坐像(一一世紀、像高?B、影向寺(ようごうじ))
欅、樫などの堅い広葉樹は、土木建築の道具や工具などを連想し、古代の日本人にとってあまり雅びな樹ではなかったようだ。欅の語源は、「くっきりした」という意味の古語「異(け)やけし」に由来するといわれる。
私は檜を材料に彫刻をしているが、たまに欅を削るとあまりの堅さと重さに閉口する。檜の扱いに慣れたわが国の古代の工人たちにも歓迎されなかったとみえ、近世の城郭建築や民家の構造材や舟箪笥などの他は、あまり造形素材として多用されることはなかった。
しかし平安時代に地方の有力者が寺院を建立する際、その土地に生えていた広葉樹で仏像を作った例がある。地霊神のごとき巨木を仏像の姿に作り変えることが、神仏習合の具現化でもあったのだろう。神奈川県の影向寺にある日光・月光菩薩を従えた薬師如来坐像は大きな欅で作られている。なんともいえない素朴な風情は、遥かな異国の宗教を一生懸命咀嚼していた東国のひとびとを思わせる。 |
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(9)竹-花生・銘-園城寺(一五九〇年、千利休作、高三四・〇B、東京国立博物館)
草のように見える竹は、イネ科の木本類に属する木の仲間だ。地下茎から伸びたタケノコの内部構造と節の数が、そのまま太く長く生長して竹となる。
材料の比較でいうと近代以前の日本にとって、檜は現代の「鉄」に、竹は「合成樹脂」に例えることができる。それほど竹は様々に姿を変え、日本人の生活全般に密着した素材だった。したがって竹林は貴重な資源であり財産であって、そこには「藪代官」と呼ばれた管理人がいたという。もしかしたらわが籔内家のご先祖さまもそのひとりであったのかも知れない。
生活の芸術化を目指した千利休は、茶席で竹を多用した。鋸と鉈で荒々しく作った孟宗竹の花器を用いて、床の間に花を活けた。茶入れから抹茶をすくい出す茶杓は、古竹を自ら茶席のために割り出し、曲げて、削って作った。それは客をもてなす「心」の表現であった。
今われわれの周りに溢れる合成樹脂製品の数々は、便利だけれど泣きたくなるほど貧しい。 |
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(10)漆-八部衆立像・五部浄(七三四年、四八・八B、興福寺)
漆は、塗料としてだけでなく、混ぜ物をすることで優れた性質をさまざまに発揮する。たとえば、漆に砥の粉を練り混むと、下地材としての錆(さび)漆になる。また米糊と練り合わせると、糊漆という強力な接着剤になり、糊漆に木の粉を混ぜると塑形材の木屎(こくそ)漆になる。
天平時代に、唐から学んだ「脱活乾漆」という漆と麻布で作る張り子技法があった。粗土で彫刻の芯を造り、そのうえに麻布を糊漆で貼り重ねてから、なかの土をかき出す。その後芯木をはめ込み、木屎漆で修正をして錆漆や彩色を施して完成させる彫刻技法だ。創建当初の東大寺では大仏を囲む巨大な仏像の多くが、乾漆像であったと記録されている。
興福寺の八部衆のうち「五部浄」像は、最も破損が激しいため内部構造がよくわかる。天平以降急速に廃れた謎の技法「脱活乾漆」を研究するもっともよい資料になっている。
さて今回の十選が、読者が「木の文化」を再発見するお手伝いになれたなら幸せである。
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