WELCOME TO THE WORLD OF YABUUCHI Satoshi・sculptor

文献資料
 1992年3月24日〜4月6日に日本経済新聞文化面に連載したものを一部、修正・加筆したものです。

大衆性の美学-十選

 美術作品において大衆性は時として不当に低く評価される要素となる。だれもが知っているがゆえに、ことさら評価の対象外にされ、人々はその価値を正当に認識する機会を持たずに素通りしてしまう。この十選が新しい発見のきっかけになれれば幸いである。

廬舎那仏坐像
(奈良〜江戸時代、像高1485センチ、奈良・東大寺)
 修学旅行の定番、奈良の大仏さまのお顔が実は四代目であることをご存じだろうか。
 中国・唐の竜門の石仏をお手本に、百済系工人・国中連公麻呂の指揮で完成したのが752年であるが、1180年、平重衡の兵火により東大寺は灰燼に帰し、大仏は台座の連弁と体の一部を残し甚大な損害をこうむった。その後1185年、宋人・陳和卿により大規模な修理が行われ、頭部は新しく鋳造された。しかし1567年、松永久秀の軍勢により再び大仏殿は焼失し、大仏の手や胸から上は大きな損傷を受け、頭部は破壊された。
 江戸時代になって全体を丹念に鋳掛け修理した後、しばらく木造の仮りの頭部がのせられていたという。1690年に鋳物師・広瀬行左衛門らによって現在の頭部が造られた。
 千二百年をはるかに超える長い間、唐の英知をもとに百済や宋そして天平、鎌倉、江戸の各々の時代を代表する造形力と技術が、一体の彫刻として具現化していることの奇跡に驚かざるを得ない。私は奈良を訪れるたび、必ず大仏さまに「ただいま」をいいに行く。
(1992.3.24)

金剛力士立像
(鎌倉時代、木像・彩色、像高836センチ、奈良・東大寺)
 前回の大仏さまを門前でお守りしている東大寺の仁王さまも実は二代目である。初代は天平時代のものであるが、1180年焼失してしまった。
 今に残る天平時代の作例から推測して当時の偉容はいかばかりかと惜しまれる。
 現在の八メートルを優に超す二体の巨像は、記録によると1203年、運慶を総帥とする二十人の仏師が六十九日で完成したとされる。信じ難い数字ではあるが、源平の戦で失われた南都の寺々を見事に復興させてしまった当時の造形力をもってすれば可能であったのかも知れない。
 今この二像は全面解体修理の最中であるが、おかげで今まで知らなかった角度からの映像を見ることができる。学生のころ、ミケランジェロのダビデの巨像は下から見上げることを考慮して、頭部や上半身が異様に大きく造られた事実に驚いたことがあるが、仁王さまも間近でお顔を拝見すると、大きく誇張されていることを知った。洋の東西を問わず、天才のなせる技には感服させられる。

月光菩薩坐像(がっこうぼさつざぞう)
(奈良時代、木心乾漆造・漆箔、高さ47センチ、東京芸術大学芸術資料館)
 東京芸術大学には、芸術資料館という小さな博物館がある。小さいながらも蔵品数二万数千点で、明治時代に岡倉天心が帝室博物館(現・東京国立博物館)の蔵品収集の折、美術工芸の教育上重要と思われるものを東京美術学校(現・東京芸術大学)に振り分けたのが始まりで、古代から現代まで収蔵品のレベルは極めて高い。
 そのなかでとりわけ私が好きな彫刻が、この月光菩薩である。天平時代末の制作で、もとは京都・高山寺の薬師如来坐像と東京国立博物館保管の日光菩薩坐像との三尊一具であったらしい。
 今では離ればなれに保管され、ご覧のようにいたましいお姿であるが、それゆえに唐時代の木心乾漆による造像技法を知る上でこの上なく貴重な仏さまである。
 千年以上の時を経て、崩れ落ちる寸前のお姿で先人の謎の技法を私たちに教えてくださるこの仏さまを見るたび「ありがとうございます」と私は感謝する。

伎楽面・治道(ちどう)
(奈良時代、木像・彩色、高さ30.5センチ、東京国立博物館)
 日本人のフォークロアの重要な担い手である天狗、烏天狗、河童、鬼などの造形的源流をご存知だろうか。もしご存知でないなら東京国立博物館の法隆寺宝物館をお訪ねあれ。(好天の木曜日のみ開館)ここに収められている伎楽面(ぎがくめん)がすぐに答えてくれる。
 伎楽は呉楽(くれがく)とも呼ばれ、西域人や南方人の滑稽な仕草を唐の人々が舞曲化したもので、652年百済人・味摩之(みまし)が日本に伝え、平安前期ごろまで仏教寺院の祭礼などで盛んに行われたらしいが、その詳細は伝わっていない。伎楽面としては法隆寺伝来のもの以外に正倉院のものがよく知られているが、中には天平以降のあきらかに和様化した仮面も見受けられる。
 平安時代になり伎楽が廃れたあと、多くの仮面が修験者や陰陽師らの手に渡り、大衆を驚かせ教化するのに用いられた。それが山や川の妖怪や鬼のイメージとして定着していったのではないかと私は考えている。
 それにしてもこの仮面の造形的な完成度の高さはどうだろう。私の作品の原点の多くはこの展示室にあり、いまだにこの部屋から出られずいる。

地蔵菩薩立像(通称・影清地蔵)
(鎌倉時代、木像・漆・彩色、像高188.1センチ、奈良・新薬師寺)
日本独特の彫刻技法である寄せ木造りは、複数の材木を合理的に組み合わせて体幹部を造り、腕や頭を別材で木取りし、最後に組み立てるという作業効率の高い方法である。麻布を貼り漆を塗って仕上げるため、木の継ぎ目は外からでは分からない。
昭和五十八年から一年をかけて東京芸術大学で修理されたこの像の構造は、我々修理担当者のみならず美術史の関係者を大変驚かせた。簡単に言うと、裸の男性像に多くの板を張り付け、そこに衣紋を彫り込んで見事なお地蔵さまの姿に造り変えていたのであった。
こんな構造を持った仏像は皆無であり、技術的にも大変困難である。なぜこのような像が造られたのかは謎であるが、東大寺の仁王さまが巨大さの点で寄せ木造りの頂点であるなら、本像はその応用技術の頂点といえるだろう。
国宝の本堂の片隅で絶えず人目にさらされていたこの像がこんな秘密を持っていたことをだれにも気付かせなかった鎌倉仏師のハイテク技術に脱帽する。

陽明門
(江戸時代、1636年、栃木・日光東照宮)
 修学旅行の東の定番、日光東照宮は、おおかたの知識人による評価が永い間かんばしくなかった。しかし近代主義的思考の総点検が行われるご時勢に、霊廟全体の文化史的な見直しが行われているのは喜ばしい。
 社寺の建築装飾は宮彫りや大工彫刻と呼ばれ仏師とは別系統の発生で、建築工人の中から彫り物を得意とした者が絵師の下絵に基づいて細工したものである。したがって平安時代の寺院建築の飛天や荘厳具とは異なり、装飾が構造材に直に彫刻され建築構造のなかで機能している。
 日光東照宮の場合、彫り物の意匠や彩色は狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師によっており、意味付けは儒教のほかに道教などの影響が最近の研究で明らかになってきた。
 私は小学生のころ初めて日光を訪れた。湿潤な山奥の杉木立の中、極彩色の彫刻と緑青の銅葺き屋根の豪壮な建物の見事な調和に、素直に「きれいだな」と感じた。その幼く純粋な感性をいつまでも大切にしたいと思う。

模造・無著菩薩像
(明治時代、竹内久一作、木像・彩色、全高187.9センチ、東京国立博物館)
 岡倉天心は、日本の古美術の理解と保護を考える時、決して忘れてはならない人物である。また、院展で知られるR日本美術院と彫刻の分野で国宝や重文の保存修理を一手に手掛けているR美術院の源を作った人でもある。彼は、日本美術の古典技法の研究と、それを新しい創作に生かす人材の育成にいち早く着手した偉人であった。
 東京国立博物館の平常陳列はいつも閑散として静かな雰囲気であるが、国宝や重文に混じって模造と表示された彫刻群があるのをご存知だろうか。
 百済観音や無著・世親像、法隆寺の九面観音などがさりげなく並んでいて、ほとんどの人は模刻像であることに気付かずに鑑賞している。
 これらは明治の中頃、帝室博物館美術部長の天心が指導した森川杜園、竹内久一、新納忠之介らの模刻作品である。これらを前にする時、私は天心をはじめとする明治の人々の謙虚にして旺盛な研究心と、時代を超えた知性に心から敬意を覚える。

石膏複製・アルカイック男子立像
(高さ193センチ、日大芸術学部)
 石膏像と聞くと、美術大学の受験を経験した者には何ともほろ苦く懐かしい気分にさせられる。ルネサンス以降今世紀初めまで美術を志す者は、まずギリシア・ローマの古代彫刻に学ぶのが西欧の常道であった。明治の欧化政策の中、美術学校のの基礎教育に役立てるため、ルーブル美術館や大英博物館などの古代彫刻や、ルネサンス期の大理石彫刻の精巧な石膏複製が大量に輸入された。その後本家ではあまり重視されなくなった石膏素描だが、わが国では今なお美術大学の入学試験に重要な位置を占めている。
 たまに若い美大生と話をすると、石膏素描を入学試験のための方便にしか見ていないようだが、私が日々彫刻の作業をする時、一番役に立っているのは、黙々と石膏像を写生した受験時代の経験にあるように思う。
 自然に学び古典に倣うという姿勢は、我々美術を業とする者にとって、永遠の作法だと思う。

西郷隆盛像
(明治30年、高村光雲作、ブロンズ、高さ396センチ、東京・上野公園)
 おびただしい数の野外彫刻が、町づくりや地域再開発などの名目で日本中の街かどや公共施設に設置されるようになった。しかしそれを取り巻く人々にとってどれだけ親しまれているかとなると、いささか疑問を感じる。
 町の主役は町の人々であり、公共の場は利用者のものである。そこに置かれる彫刻は、何よりもその人たちにとって精神的、情緒的に有益なものであるべきで、作家の個性や知名度は二義的なものに過ぎない。
 ちなみに私の大好きな野外彫刻は上野の西郷さんと渋谷のハチ公である。
 上野公園の西郷隆盛像は皇居前の楠公(楠正成)さんとともに東京美術学校に制作が委嘱され、高村光雲を中心に木彫原型による初めての大型鋳造作品として造られた。ハチ公については詳細を知らない。
 数年ぶりに西郷像のあたりを歩いてみて驚いた。そこは遠い国から出稼ぎにきた人々の情報交換と職探しの場になっていた。今や西郷さんは外国の人々のランドマークとして機能している。

天女像
(昭和35年、佐藤玄々作、木造・彩色、像高109.1センチ、東京・日本橋三越)
 「好きな彫刻家はだれか?」という問いに、私は躊躇なく佐藤玄々(朝山、1888〜1963)の名を挙げる。福島県の宮彫り師の家に生まれ、ブールデルに師事し、古代インド彫刻に影響を受けながら日本の伝統的木彫技術に基づいた大作を次々と発表した。だが惜しいことにそれらの多くは戦災のために焼失してしまった。東京国立博物館の彫刻室に展示されている科学標本かと見まがう精緻な小動物の小品に、この作家の傑出した力量を見ることができる。あくの強い性格や酒席での逸話が災いして、生前の彼を知る人の評判は必ずしもかんばしくはない。しかし彼の作品と虚心に向き合う時、私はその熟れた果実のような魅力の虜になってしまう。
 東京・日本橋の三越百貨店の一階ホールを飾る巨大な天女像を見るたび、あの日光東照宮を前にした時と同じ感動を覚える。

 とりとめもない十選であったが、読者の美術散歩のお役に立てれば幸いである。
(1992.4.6)

このホームページ内に掲載した全ての文章、
画像は著作権者の許可無しに使用することを固く禁じます。


YABUUCHI Satoshi's Public Relations Dept.
UWAMUKI PROJECT
uwamukip@uwamuki.com

All the text and images used on this site is copyrighted and
its unauthorized use is strictly forbidden.