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文献資料/1994年9月21日新美術新聞「忘れえぬ刻」

忘れえぬ刻(とき)

私は子どもの頃、母方の祖母の家にたびたび連れて行かれました。祖父は、私が三才の頃に脳溢血を起こして、大いびきをかきながら死んでしまいましたので、優しかったという以外、祖父の記憶はそんなに多くはありません。
祖母は、二人の叔母と一緒に大阪南部の岸和田という街に住んでいました。「山車祭(だんじりまつり)」という、かなり荒っぽいお祭りで知られた城下町で、戦前は煉瓦や繊維製品の積み出し港として栄えた港湾都市でもありました。南海電車の岸和田の駅から港までまっすぐに伸びた商店街は、城下町のおもかげを残していて、歴史のある家並みは子どもの眼にも心地のよいものでした。
祖父は兵庫県の出身で、明治末から昭和のはじめにかけていくつもの会社を作ったり、潰したりを繰り返して、なかなか波瀾に富んだ人生を送った人だったと聞いています。また飛行機がめずらしかった戦前に、空から宣伝ビラをまいたりした新しもの好きのアイデアマンでもあったようです。古い写真帳には、会社の仲間や従業員たちに囲まれたダンデイな祖父の姿がたくさん残されています。
祖母や母たちが、そんな祖父を亡くなったあともとても尊敬し大切に思っていたことは、子どもの眼にもよくわかりました。仏壇にはいつも線香があがり、食事のたびに家族と同じ内容の小さなお膳が供えられていました。
黒い大きな仏壇は、その横に掛かっていた円い大きな柱時計とともに、小さな私にとって祖父そのものだったような気がします。
そして夏休みには、お盆の数日を祖母の家で過ごしたあと港の岸壁から精霊流しをするのが私たちの大切な年中行事でした。
子どもの私には、せっかく天国から帰ってきた祖父の霊をなぜ海に送り帰してしまうのか、また帰すのならお墓へ持って行った方が何かと合理的ではないかと思ったりもしましたが、大まじめに心をこめて作業をする祖母たちには、そうした疑問を呈することをはばかられる雰囲気がありました。
余談ながら、仏壇と墓の両方を祭るのは、えらい人の霊廟と陵墓に倣ったもので、古代中国の死生観にもとづいているようです。すなわち、この世のすべての生き物は、地上の無機物が、陰陽二種類の霊(あるいは気)を媒介として成り立っている。陽の霊とは精神を司る「魂(こん)」であり、陰の霊とは肉体を司る「魄(はく)」である。そして魂は、天に昇るために「廟」(仏壇)で祭り、魄は地に帰るために「陵」(墓)にお祭りしなければならない。
もし生命体が死を迎えた時に、何かの事情でこの霊が帰るべきところへ帰れなかった場合、「鬼」となって残された者に災いを為すと考えられました。
ちなみに幽霊の決まり文句に「魂魄この世にとどまりて怨みはらさでおくべきか」というのは、こうした理論にもとづいているのです。
さて日がかげりはじめた頃、祖母たちは仏壇にあがっていた野菜やくだものを、祖父の好物だった煙草やお酒の小びんと一緒に小さな紙箱に詰めはじめます。そして黄昏どきになると私たちは犬と一緒にぞろぞろと家を出て、港に着くころは暗闇となっています。
祖父の霊を詰め込んだ紙箱に、ろうそくとひと束の線香を立てて火をつけ、箱がひっくり返ったりろうそくの火が消えないように岸壁からそっと海面に下ろします。波にゆられながら、ちろちろと頼りなげに離れていくろうそくのひかりが、あちらこちらから同じように流れてきたいくつものひかりとともに突堤の外へ遠ざかっていくのを、哀しいようなほっとしたような不思議な気持ちで見送ったものでした。
こうして毎年くりかえした精霊流しは、死んでいった者と生きている者とのつながりを子ども心にも充分に納得させてくれるものでした。
すべての生きものは、死んだあとも往くべきところはあるし、時折この世の様子をのぞきにやってくることもできる・・・むかしの日本人の、いや東洋人ならみんな漠然と抱いていた死生観は、暗い海の向こうへ流れて行ったろうそくのひかりの記憶とともに、今私が作品を生み出すときの源泉ともなっているような気がします。
(1994.9.21)

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