【注1】
明治31年、わが国の古美術保存と東洋美術の維持開発を図ることを目的として岡倉天心によって設立された日本美術院の修理部門を前身とする。同39年、制度改正により「日本美術院第二部」となり(第一部は絵画中心の制作部門)、新納忠之介を監督とし奈良に拠点を置き国宝彫刻の修理事業を展開。天心没後大正3年には第一部と分かれ単に「美術院」と改称。終戦直後に新納が引退、経営難から存続が困難となるが、職員達は3グループに分かれ修理を継続した。昭和30年に美術院として再結集、同43年に財団法人の認可を受け「財団法人美術院」となるが、「国宝修理所」とも通称され、現在も修理総責任者の職名は「所長」である。平成17年で創立107年目を迎える。

『日本美術院 第二部発足東大寺勧学院門前(明治39年)』

『美術院第二部の工房』
画像出典:美術院紀要 創刊号
(財団法人美術院)昭和44年

『現在の京都国立博物館内 修理工房(平成17年1月)』

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【注2】

明治元〜昭和29年。明治27年東京美術学校卒業、同校助教を経て同31年岡倉天心が創立した日本美術院に参加。天心の命により当初から国宝彫刻修理を担当する。同39年日本美術院第二部の監督、大正3年美術院初代院長となり終戦まで仏像修理事業に従事した。

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【注3】

大正4〜平成15年。昭和15年東京美術学校卒業、同16年美術院に入り、同34年美術院第四代院長(国宝修理所所長)就任、同49年東京芸術大学保存修復技術研究主任教授。昭和30年に京都 愛宕念仏寺の住職となり、生涯を通して文化財修復と仏像制作、それらの著述活動を行った。著書に『仏像の再発見』(吉川弘文館)、『やさしい仏像の見方』(とんぼの本シリーズ、新潮社)、『仏像は語る』(新潮社)ほか多数。

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【注4】

一丈六尺。約4.85メートル。坐像の場合はその2分の1。

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【注5】

寄木造で坐像の両脚部を彫り出す材。

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