新潟県立近代美術館講演会/2006年10月29日(日)

演題「木の文化は日本のこころ」

籔内佐斗司
彫刻家/東京藝術大学大学院文化財保存学 教授(保存修復・彫刻)

1)はじめに

 こんにちは。ただ今ご紹介頂きました籔内佐斗司です。

 私は、木彫を本業としていますが、そのかたわら仏像を中心とした木造文化財の保存と修復について、東京藝術大学大学院の文化財保存学講座で教育と研究に携わっています。

 なお当館の館長である水野敬三郎先生は、私が学生から研究室助手をしていたころに、芸大の芸術学科の教授として教鞭を執っておられた私の恩師のひとりでもあります。そして当時からすでに日本彫刻史の第一人者として神さまのような存在でした。その先生が館長を務めておられるこの美術館で講演をさせて頂くということで、いささか緊張しております。

 先生、お忙しいと思いますので、どうぞいつでもご退席頂いて結構でございます。おてやわらかにお願い致します。

 

 籔内佐斗司と申しますのは芸名といいますか作家名です。本名は「籔内直樹」と言いまして、「籔のなかのまっすぐな樹木」という意味で、生まれながらに木とは切っても切れない関係にあるようです。

 そこで今日は、わが国における「木の文化」についてお話をさせて頂こうと思っています。わが国の歴史を振り返れば、溢れるような森林資源を背景にして、世界でも有数の木の文化を生み出してきたことは確かです。しかしながらそのことは、とりもなおさず木を浪費し続けてきたということでもあるわけです。その結果、森林資源の枯渇が言われて久しくなります。また高度経済成長時代に、石油を原料とする各種合成樹脂によって「木もどき」の商品が大量に安価に生み出されることによって、木材加工に携わっていた木の職人たちの仕事を奪い、採算の取れなくなった森林や山は荒れ放題になり、木によって育まれてきた私たちの文化そのものが存亡の瀬戸際にあるといえます。

 かつて未来を予見するときのキーワードとして、科学や化学、それに世界や地球規模、ハイテク、先端などがありました。

 しかし、これからの時代を予見する重要なキーワードの代表として「木」と「日本」が挙げられるだろうと私は考えています。このふたつのキーワードを含んだ本日の講演「木の文化は日本のこころ」は、まことに時宜を得たものと自画自賛しています。

 そしていま、「わが国の木の文化」の現状を語ることは、「日本文化の危機」を語ることにほかならないと思います。

2)思い出さねばならぬこと

 「日本文化の将来」を考えるときに、日本人として自覚しなければならないことがいくつかあります。それを、つらつらとお話してまいりたいと思います。
日本各地の桜

 西行法師が読んだ「願わくは、花のしたにて春死なむ、その如月の望月のころ」という歌が、私は大好きです。旧暦の如月というのは現在の3月中旬でしょう。春まだ浅いころの走りの桜を詠んだものです。この歌に代表されるように、私はすべての日本人にとって桜に対する思い入れは特別だと信じていました。ところがだいぶ前のはなしですがこんな話がありました。

 私の友人に、東京の下町とパリを半年ごとに行き来していたたいへん親日的なオランダ人の年老いた彫刻家がいました。十年ほど前のある日、彼がひょっこりやって来て「パリに帰る。もう日本には住みたくない」と言いました。理由を尋ねると、彼の答えはこうでした。「自分のアパートのそばに大きな桜の木があって、毎年4月になると見事な花を咲かせ、春の訪れを知らせてくれ、日本にいることの喜びを感じさせてくれていた。先日突然、地主がその木を切り倒して駐車場にしてしまった。それは、近所の住民から寄せられる落ち葉と毛虫の苦情に嫌気がさしたのだという。私はそれを聞いて、もうあの町に住む気がしなくなった」と。私には、彼を引き留める言葉が見つかりませんでした。

 桜の寿命は、ひとの一生とよく似ているということを聞いたことがあります。植え替えの時期は10〜15年くらいの順応性の高い時期を選び、その後はぐんぐん成長し、30〜50年くらいのものはもっとも活力があり花を一番たくさんつけます。60年を過ぎる頃から、徐々に免疫力が落ちてきて病気や虫の害を受けやすくなる。老木の幹にこぶこぶや苔が生えているのは人でいえば腫瘍や皮膚病のようなもので、免疫力が落ちた木だということを聞きました。まるで人の一生を見ているようです。

 毎年春にみごとな花をつけてくれる桜の樹を見上げながら、日本人は今年も無事に冬を乗り切り、春を迎えられたことを感謝して来たのではないでしょうか。落ち葉や毛虫がいやで、桜を切り倒してしまうひとびとの感性を悲しく思うのは私だけでないことを祈っています。

 つぎは、水についてのお話です。
懐石膳の色々

 日本文化にたいへん詳しいあるアメリカ人が茶懐石の宴会でしらばっくれて質問をしました。「杉のお箸が最初から濡れているのは何故ですか?」。廻りの日本人は唐突な質問にとまどいながら、あるひとが答えました。「こうしておくと、ご飯粒がお箸にくっつかないんだよ」。青い目の彼は、いささかあきれた顔で、「清水で浄めてあるのではないのですか?!」といいました。これには一座の日本人は、虚を突かれ一本取られた思いでした。

 かつて日本人は、水には穢れを浄化する神秘的な力があると信じていました。しかし上水道が完備した現在、都会に住む私たちが安全だと考える水は、水道局によって完全に管理された水以外なくなってしまいました。川の水は「不潔」であるから殺菌消毒し、塩化ビニールの水道管を通って蛇口から供給される化学物質を多量に含んだ水を安全だと信じ込んでいる。今日お集まりのみなさんの世代の殆どの人は塩化ビニールどころか鉛でできた水道管の水を飲んで育ったことと思います。

 近年、下水道システムはかなり整備されました。排水は下水管を通って汚水処理場に集められ濾過されてから川に流されるようになりました。しかし人の目に触れない現代の上下水道システムでは、山も樹木も大地も介在していませんから、もはや水に霊的な力や浄化力などを感じることが出来なくなってしまったのでしょう。最近ではビルの古くなった貯水槽が汚染されているため、水道水も飲まない人が増え、直接口にする水は、遠くヨーロッパから輸入したペットボトルの銘水では、日本の川と大地と山々に申しわけが立たない気がしてなりません。日本のこころを考えることは、まず私たちが忘れてしまっていることを思い出すことから始めなければなりません。

3)季節

次は季節の話です。
秋の味覚
 日本の食文化の特徴は、温暖で豊かな自然環境に裏打ちされた「旬」と表現される「新鮮さ」にこだわることに尽きると思います。「旬」とは英語でいうdecadeすなわち「十日間」を意味し、「旬の味」とは、ある季節の十日間だけの味覚を大切に慈しんだのです。そして、その味覚は、豊かな山と森林によって浄化された水に負っていたことは論を待ちません。長い期間発酵させたり熟成させた中国の乾物や保存食の多様さとはみごとな対比をみせています。
巷にあふれるレトルト食品

 しかし食品の流通や保存システムの進歩は、時の移ろいを止めてしまいました。日本人の味覚は画一化、無国籍化、無季節化の一途を辿っています。

道祖神
野仏

 お産の「産」に「土」と書いて「産土(うぶすな)」と読ませる言葉があります。これは私たちのような定着型の民族が世界共通に持っている自然観であります。先祖から代々住み続けている土地を命の源と考え、大地から命が芽生え育ち、またその大地に還っていくという循環型の自然観です。それはそこに暮らす自分たちもその中に含まれます。したがって大地に感謝し祖先を敬う気持ちと共同体意識が芽生え、結果的に国を愛する気持ちが自然に形成されるのです。

 「自分が暮らす土地に育ったものを喰え」とは昔から言われる言葉ですが、ひとびとが流動化し、都市に集中した現代では夢のまた夢であります。

 戦後、私たちは国土の外から原料とエネルギーを買い付けて工業生産物に作り変え、それらをたくさん販売し所有し消費することが「幸福」そのものである、と信じてきました。また化学的に処理された合成物質を信頼し、自然のままを不潔なものとして忌避してきました。その姿勢には、四季の移ろいを愛でる心や、自然への畏敬も感謝も入り込む余地はありませんでした。結果として、山を荒廃させ、里の風景を台無しに、水や空気を汚しつづけることに邁進してしまったことはご存じの通りであります。

 すこし前、小学校の音楽の教科書を見る機会がありました。次々に出てくる見知らぬ曲の歌詞を見ていて、あることに気がつきました。小学唱歌の殆どが四季をテーマに構成され、植物を歌いこんでありました。しかし今の学校唱歌は、季節と植物の名前を読み込んだ歌がとても少ないということです。逆に言うと、一年中いつでも歌える内容で、教える方はとても便利かもしれませんが、とてもおおきな忘れ物をしているようで気になりました。

 俳句にはかならず季語が必要なように、季節は言葉で感じる部分が大きいものです。和歌や短歌、俳句、日常の挨拶など、ひとが自然から感じた情感を言葉に置き換えて語り継ぐことによって、共通体験としての四季が形成されてきたのです。もちろん季節を何よりも敏感に感じさせてくれるのは木々や草花であり、それらを語り伝えるべき文芸作品に昇華する努力を私たちは怠るべきではないのです。

 細長い日本列島は、穏やかで豊かな季節の情趣を私たちにもたらしてくれました。季節の変化を敏感に感じ取れる風土と暮らしは、実はたいへんに贅沢な環境であることを思い出して、わが産土(うぶすな)の神々に感謝すべきときではないでしょうか。

アジア各地の旧正月

 そして、私は日本の暮らしの暦を四季に裏付けられた旧暦に戻すべきだと思っています。東アジア地域で、生活行事まで太陽暦に切り替えているのは、日本くらいしかない異常さにそろそろ気が付くべきだと思います。

4)宗教

日本人の宗教観について考えます。

 私たちは一般に日本の「神さま」を単純に「ゴッド」と翻訳しています。明治時代のまちがった翻訳以来、学校教育でそう教えているからです。

 しかし中国語では「天」をgodと翻訳し、「神」はgodではなく「精神」や「神経」という言葉からもわかるようにspirit(霊)の一種になるそうです。ですから神概念を別のことばで置き換えれば「こころ」や「魂」の「たま」にあたると思います。日本でも、もちろん昔はそう考えていたのです。安土桃山時代、キリスト教は「天主教」といい、GODを「天主さま」といっていたことからもわかるように「GOD」は「天」ときちんと理解していたのです。死んでから「天国」へ昇るのはキリスト教徒です。仏教徒は「浄土」へ還るのです。行き先を間違えないようにしっかり覚えておいて下さい。

 次のおはなしでも、古代の「神々(かみがみ)」をspiritとして考えてまいりますので誤解のないようにお願いします。

 人とものとの関係は、その精神性に強い影響を与えます。よい石材を産出する地域では石に絶対的な信頼を置く文化が育ちます。中国のように土をすべての根源とする文化もあり、牧畜や狩猟が盛んな国では獣を中心にした文化が育ち、毛皮や毛織物や皮革をこよなく愛します。そして木や草花に恵まれたわが国では、身の回りのものから造形表現まで徹底的に植物素材にこだわり、それらに安らぎを覚える精神文化が育ちました。

パルテノン神殿

 愉快な笑い話に、ギリシアの庶民の夢は、浴槽を色鮮やかなタイル貼りにすることだそうです。かの国は、ご存じのように大理石の文化圏ですから、庶民の家でも浴槽はみごとな無垢の大理石で作られています。もちろん大理石が安く手に入るために、たくさんのエネルギーを使って工業生産されるタイルで浴槽を覆うことは大変な贅沢なのだそうです。大理石と聞いただけで豪華と思ってしまう日本人から見れば、価値観が逆転しているわけです。

 私たちのこの日本列島が、活発な火山活動と地殻変動を繰り返したせいだと思いますが、古代の日本人は大地を活力に満ちた巨大な生き物と考え、山そのものをご神体にしました。古代歌謡とされる「君が代」は、細石(さざれいし=小石)が巌(いわお=巨大な岩山)に成長する悠久の時間を謳っているわけです。そして山の中の岩や巨木、ほとばしる川や瀧にも神を見、オオカミやクマや小さな動物たち、そして虫や草花にさえも神々が宿っていると考え、これが縄文時代から続く日本人のこころの原点を成しています。

飛鳥時代の金銅仏

 6世紀半ばに朝鮮半島から金色に輝く仏像が、初めてもたらされた時、これを異国の神として畏れを以て祀ったと日本書紀にあります。

 その後、仏像の背景にある世界観を学び、今まで自分たちが信仰してきた八百万の神々に活力を与える源が、宇宙そのものの「毘廬舎那仏」と解釈した天平びとの柔軟性を、私はとても好ましいものに感じます。また空海がもたらした密教で、この国土に営まれるすべての現象を司ってきた神々と仏教とを論理的に共存させる「神仏習合」に行きついた「いにしえ人」の度量にも敬服します。明治初めの狭量な神仏分離令までの千数百年間、いやそれ以上の年月、こうした世界観は日本人のこころの支えであり続け、柔らかく豊かな日本文化の源泉となっていたわけです。

 宗教を問われたときに、多くの日本人が「無宗教」と答えるそうです。残念なことです。もし今日お越しのみなさんのなかですでに特定の宗教に帰依しておいででない方がいらしたら、これからはぜひ「日本の仏教」または「やまとごころ」を持っていると胸を張ってお答えになることをお奨めします。

5)景観

 次は景観について考えます。

 ドイツ国籍の友人に、「日本の街並みには歴史観がまったく欠如している」と指摘されたことがあります。私がB-29による空襲の話をしたところ「破壊したのはアメリカ軍かも知れないけれど、今の街を造ったのは日本人だろう?」「わがドイツの街並みは、ヨーロッパの一地域の歴史的景観として大切に保存しなければならない。そしてそれはドイツ人の責務なのだ」といわれ、ぐうの音も出ませんでした。

廃墟と化したニュルンベルグとその現在
 第二次世界大戦の末期、ドイツの大都市の多くは、連合軍による爆撃と市街戦で壊滅的な打撃を受けました。ニュールンベルグなどの歴史的な都市の90%は瓦礫の山と化したといいます。しかし戦後、行政と市民の地道な努力によって中世から続く街並みの復元が行われ、小さな横丁の一軒一軒を再現し、並木の一本一本まで植え直したと聞きました。

いま彼の地を訪れる観光客は、街並みが戦後に再建されたものであることに気づかずに中世ドイツの雰囲気を満喫しながら散策しています。

 最近では、かつての東ドイツのドレスデンにおいて戦後永らく放置されていた教会の廃墟が見事に復元されたことが話題になっていました。

上段:原爆で瓦礫と化した広島と、大空襲で焼け野原になった東京
下段:現在の復興した広島繁華街と東京都心風景
 同じように連合軍による焦土化作戦のために、わが国も東京、大阪の大都市はもちろん穏やかな地方都市までことごとく焼き払われたわけですが、戦後のわが国の無秩序で野放図で、極めて安直な再建にくらべ、歴史的景観に対する愛着と責任感のあまりの違いに愕然とさせられた記憶があります。
左・ロンドン郊外 右・アムステルダム郊外

 欧米を旅していていつも感じることは、電線と電柱が殆ど見あたらないということです。観光地の町並みだけでなく、遠い山並みにも無粋な鉄塔や電線などが視界に入りにくいように実にうまく隠してあります。これは景観も自分たちが守るべき遺産であるとの考えを徹底してきた結果だと思います。

 しかし日本では、美しい山並みに高圧電線の鉄塔が大名行列をしています。地域の象徴といえる山や丘の頂きに必ずといっていいほど電波塔などが誇らしげに鎮座しています。これが、かつては山をご神体として崇め、祖霊の集まる場所として聖域視してきた民の末裔の仕業かと思うと、情けないかぎりではありませんか。

上段:電線で景観の悪い東京市街地
下段:電線等を消去した場合のイメージ画像
 もちろん近年は、景観に配慮した街作りが確実に増えています。観光地の再開発では、電線の埋設がようやく当然の前提として語られるようになり、河川の改修も護岸の緑化や水辺の再生が言われるようになりました。最近、旅するごとに、わたしたちの国土が、雑木と雑草に覆われた本来の自然景観に戻りつつあることを実感できることは嬉しい限りです。

 もちろん木を代表とする植物資源は、ただ生えるに任せているだけでは、健全な発展をしないわけで、常に手入れをし、産業と密接に繋げていかなければならないわけです。

 水辺の蘆は、毎年刈り取ってさまざまな生活物資に姿を変えなければ、豊かな水辺は維持できません。下草刈りや間伐などの手入れを怠りなく行わなければ、立派な森林には育ちません。竹藪の筍も、適度に間引きをして食べてやらなければ、竹藪全体の活力が失われてしまうと言います。

 森林を守ると言うことは、森林資源を産業として活用することに他ならず、すなわち森と木の文化を守り育てていくことと表裏一体であるわけです。

6)木の文化

 さてひとの営みである「木の文化」について話を進めます。
木造と、鉄筋コンクリートの小学校校舎

 私が卒業した小学校には、昭和初期の木造校舎がありました。今でも、木のにおいや感触を懐かしく思い出します。しかし、団塊世代のこどもたちが大量に就学年齢に達っした頃、木造校舎は壊され鉄筋コンクリートの校舎に建て換えられてしまいました。

こうした小学校の木造校舎の取り壊しは、全国規模で一斉に行なわれました。このことは、昭和初期の文化財とともに多くの人びとのふるさとを葬った行政の愚かな行いとして記憶されるべきでしょう。ふるさととは、ひとびとの記憶を再生する装置が残っている場所だと思います。したがって、戦後のわが国のようなスクラップアンドビルドの街作りでは、永遠に本当のふるさとは生まれないのです。

 最近は、少子化の影響で、小学校や中学校の整理統合が増えて、あちこちで学校が余ってきており、その効果的な運用に苦慮しているようです。私どもの東京藝術大学でも、台東区内の廃校を借りて臨時の施設として利用していますが、活用し切れていないのが現状です。

大徳寺・黄梅院

 先日、京都大徳寺のある塔頭のお茶会に呼ばれて行ってきました。

 あたらしく完成した数寄屋の客殿とお茶室のお披露目だったのですが、石油を原料とした化学合成物を一際使わない空間のなんとここちよいことか。

 お茶室の水屋に、プラスチックの洗い桶がひとつ置いてありました。日常見慣れたプラスチック製品ですが、これがなんとも違和感に満ちて見えたのが不思議でした。

「仏像 (特別展)一木にこめられた祈り」 より
 ただ今、東京国立博物館では「仏像 一木にこめられた祈り」と題した一木造りの仏像展が開催されています。これは近年の仏像展のなかでも特筆されるような素晴らしい展覧会で、全国から名品中の名品が一堂に会しています。そして私たちの祖先が、神やほとけを樹木に宿らせてきた思いを目の当たりにすることができるでしょう。お寺でもなかなかじっくりと拝観できない貴重なほとけさまがたくさん出品されておりますので、機会がありましたら是非ご覧頂きたいと思います。
向源寺 十一面観音立像
 先日、この展覧会の後半に出品される滋賀県湖北の向源寺の十一面観音をお納めする新しいお堂が完成し、その落慶法要に参列して参りました。平安時代初期に作られたこの有名な十一面観音は、戦国の動乱期にお寺が荒廃して以来、村のひとびとの手によって大切に守られてきた歴史があります。今回の落慶法要も、向源寺と地域住民で構成される国法奉賛会の主催によって開催されていました。村落のひとびとのこころの中心にこの美しい観音様がしっかり根付いているのがよくわかるたいへん心温まる法要でした。
新潟近代美術館「新潟の仏像展」より

 また当新潟県立近代美術館では、「新潟の仏像展」が開かれています。今回の展覧会は、中越地震で甚大な被害を被ったこの地の仏像を修復する過程で多くの新発見があり、その成果とともに発表されたものと聞いています。

 今まで、京都や奈良の仏像ばかりが脚光を浴びてきましたが、近年は、美術史家や地方自治体の地道な努力に依って、地方の仏像史研究が飛躍的に進み、各地で地元の素晴らしい仏像展が開かれるようになったことは嬉しいかぎりです。

 こうした取り組みが、地元の歴史と文化を見直し郷土に対する理解と思いを深めることに繋がっていくことは間違いないことでしょう。

7)さいごに

 木で作られたものは、物理的にきわめて脆弱です。私たちが、受け継ぎ守り育てていかなければ消え去るものです。そしてそれは私たちにしかできない責務なのです。現在、「木の文化」は、日本人のこころの分野から日常生活全般に亘り消え去る寸前にあります。また「木の造形」は、技術者の保護育成にとどまらず、林業から消費者までの総合的な大計を緊急に必要としています。

 日本人が、「森林の恵み」を放棄して「石油と鉄」を資源にしたことは、20世紀後半に経済的な大繁栄を齎しましたが、同時に「日本の文化」と「日本人のこころ」を捨て去ることにもなりました。今、私たちは「コンクリートと合成樹脂の文明」から「木の文化」へと回帰すべき時期にあると思います。天と地のあいだに介在した山と森の木々のたいせつな役割を思い出すことは、日本の文化といにしえ人の知恵を取り戻すことにほかなりません。

 

 さて時間も頃合いとなりましたので、お話はこの辺で終わります。今回の私の話を通じて、ひとりでも多くの人たちが、木の文化について真剣に考えて頂けるきっかけになることを願っています。

 本日は、ご静聴ありがとうございました。


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