■■■■■
拝啓、中村正義さま
はじめてお便りを差し上げます。
生前のあなたにお目にかかったことのない私ですが、このたび「ふたり展」ということで、同じ会場に作品を並べさせて頂くことになりました。
私が初めてあなたの作品に触れたのは、すでにあなたがお亡くなりになって久しい昭和六十三年、銀座のフジヰ画廊モダーンで行われた「中村正義仏画展」においてでした。もちろん印刷されたものは知っていましたが、そのとき初めて実物を目にしたのでした。渋い色調のなかに釈迦と幾人かの亡者たちが描かれている作品を見て、私の脳裏に「ナカムラマサヨシ」という名前が深く刻み込まれてしまいました。
このたびの展覧会が決まってから、私はあらためてあなたの作品をたくさん拝見しました。そしてあなたのことを書いた文章をいくつか読みました。暗唱できるほど、あなたの年譜を読みました。蝉時雨のある日、かね吉栄画廊の岩瀬吉弘さんとともに川崎市麻生区にある「中村正義の美術館」を訪ねました。現在館長を勤めておられるご息女の倫子さんから、娘の目から見たさまざまなお話しを伺いました。
この数ヵ月のあいだ、あなたが私のすぐそばにいたような錯覚さえ覚えています。
世に「異端」「反骨」と呼ばれる表現者は数多くいます。あなたもそのひとりです。
いまさらあなたの生涯について私が紹介しても始まりませんが、結核による肺の摘出や直腸癌などの病と闘いながら、表現上の驚異的な変貌、書や著述、不動産売買やプレハブ住宅の研究などさまざまな分野に果敢で痛快な挑戦を行った作家がいたことは、後世にいつまでも語り継がれるべきだと私は思います。
師である中村岳陵氏、権威としての「日展」、その背後に温存された天皇に繋がる社会の枠組みに対して、あなたは猛烈な義憤をもって攻撃を繰り返しました。「義憤」即ち「社会性の高い憤り」をもって制作をしている作家が今の日本にどれだけいるでしょう。
私は幸か不幸か、「日展」をはじめとする団体展に一度も魅力を感じたことはありませんし、関係を持ったこともありません。あなたが「東京展」の事務局長として奔走しておられたころ、私は芸大の学生でした。そのころの私たち美大生
|