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THE WORLD OF YABUUCHI Satoshi・sculptor
2000年1月20日(木)
奈良興福寺文化講座
「天平彫刻の心と形」
1 はじめに
 こんにちは、みなさん。ただいまご紹介にあずかりました彫刻家の籔内佐斗司です。
 私は、二十代のころに東京芸術大学で仏像の修復や古典技法を研究するしごとをしていました。東大寺や興福寺をはじめ、奈良市内の寺院に足繁く通い、私たちの遠い祖先が遺してくれた桁外れに素晴らしい仏像群を食い入るように見入ったことを思い出します。
そして、このときの経験と研究の成果として、私独自の彫刻技法を確立したわけです。ことばを変えていうなら、彫刻の作り方を、ほとけさまに直かに教えて頂いたというのが正直な気持ちです。

 さて、本日「天平彫刻の心と形」というテーマでみなさまにお話する事となりましたが、私は美術史の専門家ではありませんので、学術的な裏付けのある知識をもっているわけではありません。頭や口を動かすより、もっぱら手をうごかすことがしごとですから、人前でお話しをすること自体、苦手なことでありますので、はたしてみなさまの興味をひくようなお話ができるかどうか、自信はありません。
ただ私が若い頃に、仏さまから教えて頂いた内緒話を、ご紹介できたらと思います。そして天平時代という日本の国ができたばかりのとても華やかな時代について、私なりの思いをお話しさせていただこうと思います。最後までごゆっくりとお気軽にお付き合い頂ければ幸いです。
2 天平という時代
 はじめに天平とはどんな時代であったかを整理してみました。
この時代は、広くは729年から8世紀いっぱいを、そして狭くは729年から767年までの38年間をいいます。
729年から始まる「天平(聖武朝、729.8.5~749.4.14)」という元号のほかに、
二ヶ月半しかなかった「天平感宝(聖武、749.4.14~749.7.2)」、
聖武天皇が法皇となられ大仏開眼会が催された、「天平勝宝(孝謙朝、749.7.2~757.8.18)」年間、
そして「天平宝字(孝謙・淳仁朝、757.8.18~765.1.7)」「天平神護(称徳朝、765~767)」と目紛しく元号が変わっています。
このことからも天平時代が政治的に激動の時代であったことが想像されます。
そして中心となる人物は、聖武天皇と光明皇后であり、最大の出来事は、天平勝宝4年(752年)の東大寺の大仏開眼会です。

38年間といいますと、現代史では日米安保条約が調印された1951年から、バブル景気まっさかりの1989年までの年数にほぼ匹敵します。私は、天平時代を考える時、戦後の日本が、冷戦構造のなかで訪れた復興景気と経済成長時代からバブル景気を経て、公害や環境破壊と経済の停滞、社会不安などそれまでの様々なつけが一気に噴き出してきた最近までの軌跡ととてもよく似ているように思います。
7世紀は、超大国「唐」に後押しされた新羅によって朝鮮半島が統一の方向へと動いた時期です。半島の南端にあり大和朝廷と極めて近い関係にあった百済が、玄界灘に押し出されるように滅亡したのが7世紀の後半でした。
この敗北によって、百済王朝と強く連係しながら国づくりを進めてきた大和政権にとって、百済より遥かに強く優れた文明があったことを思い知らされるとともに、新羅による侵略の脅威に曝されていることを認識させられたわけです。世界のパワーゲームのなかで、精一杯の虚勢を張ってでも国家としての日本を建設する必要を実感した時期ではなかったでしょうか。
戦後日本が、米国に追い付くことに明け暮れたように、当時の天平政権も唐の長安そっくりの平城京を建設し、行政機構もそのまま移植したことは、日本史でお馴染みのことです。
平城京の造営やあいつぐ大寺院の建設など天平バブルは、最近のわが国とおなじように深刻な社会状況を生みました。巨大事業にともなう物資不足によるインフレーションや、労働者の都市集中と農業生産の停滞、銅の精錬や鍍金作業にともなう重金属公害の発生、材木資源の枯渇、そして社会基盤整備の遅れによる生活環境の悪化など、その後遺症は平城京を捨て平安京へ遷都せざるを得なくなるほど深刻であったと想像されます。
このあたりの事情については、杉山二郎先生の「大仏以後」という労作によって詳しく知ることができます。
3 その後の日本文化を規定した天平時代
 さて、国を開き交易を盛んにするということは、いいことだけが起きるとは限りません。文物とともにそれまで日本には存在しなかった病気なども一気に入ってきます。たぶん今まで経験したこともなかったようなはやり病が頻発し、地方の有力豪族の反乱とともに大きな社会不安の原因になりました。
疫学的知識のなかった当時は、祟りや怨霊に原因を求め、解決策を仏教に頼ったわけです。したがって日本の仏教は、釈迦が説いた哲学的思惟ではなく、災を除いたり現世利益の祈願が中心となる信仰形式から出発し、その後の日本における仏教の信仰形態を決定づけたともいえます。日本人が、人間としての釈迦の思想を知るのは、鎌倉時代に禅宗がもたらされるまで待たなければなりませんでした。
 また天平時代の造形は、その後の日本の美術工芸におおきな影響を残しています。
日本の仏像彫刻が木を中心に作られているという常識は、実は奈良時代末以後のことなのです。大仏建立以前は、銅や漆、あるいは粘土や焼き物などさまざまな材料で作られ、木は案外少数派でした。
しかし平安時代になってからの仏像はことごとく木で作られています。これは東大寺の大仏をはじめとする天平時代の巨大仏像の建立が原因となって、銅を中心とする金属資源や、膨大な乾漆像の制作に伴う漆資源が枯渇したことを暗示しているのではないでしょうか。そして皮肉なことにそれが原因で、その後の日本の仏師たちの木彫技術は、飛躍的に向上したともいえ、天平時代が日本文化に残した大きな影響のひとつと私は考えています。

平安京に都が移ってから、奈良は中央政治からは離れますが、東大寺、興福寺などの巨大寺院は独立した経済体として厳然たる力を誇示し続けました。しかし平重衡の南都焼き討ちによって天平文化の大半は灰燼に帰してしまいました。このことは、どんなに惜しんでも余りあることです。
しかし文化史的にいいますと、このことが日本のルネッサンスともいえる鎌倉彫刻の黄金期を生み出すきっかけになったことは歴史の冷厳な事実です。
藤原時代の定朝様式の仏像は、ヨーロッパのゴシックやロマネスクのように完成され尽くしていて完璧に美しいのですが、新しい時代の創造性を受け入れる余地はありませんでした。しかし奈良に本拠をおいていたのちの慶派と呼ばれる仏師集団は、焼け落ちた天平伽藍の復興にあたり、その造形を学び自分たちがなれ親しんだほとけたちを蘇らせる努力をしました。そしてそこで貯えた経験をもとに、その後の鎌倉時代の膨大な仏像需要に応えていくことになるわけです。
大仏を造るということは、戦乱を収拾し天下を統一した権力者が夢見る巨大事業のようです。鎌倉大仏しかり、桃山時代には、秀吉が方広寺の大仏を鋳造しています。
これとほぼ同じ作業を、明治の中ごろ岡倉天心に指導された日本の若い彫刻家たちは、奈良の仏像の模造事業に従事しました。それらは、現在上野の東京国立博物館の彫刻室に古い仏像とともに展示されています。その成果として昭和のはじめまで、日本の彫刻界は、伝統的技法に裏付けられた木彫作品の黄金期を迎えます。私は、これらのことが天平文化への回帰現象に思えてしかたありません。
天平時代は、工芸の分野でも現代にいたるまで決定的な影響を与えつづけています。いうまでもなく光明皇后によって残された聖武天皇遺愛の品と伝えられる正倉院の宝物です。シルクロードの終着駅であった奈良の都に残された当時の工芸品の数々は、現代の工芸家たちにとって、決して追いつくことのできない憧れの品々であります。
4 阿修羅像雑感
 さて本講座の主題でもある興福寺の阿修羅像に、話題を移しましょう。
 阿修羅という不思議な名前は、古代インドバラモン教の好戦的な魔神ASURAから来ています。仏教では、ひとは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つの次元を行き来すると説いています。
これはひとびとのこころのなかに起こる精神状態と考えたほうが現代人には理解しやすいと思います。
 さて本講座の主題でもある興福寺の阿修羅像に、話題を移しましょう。
 阿修羅という不思議な名前は、古代インドバラモン教の好戦的な魔神ASURAから来ています。仏教では、ひとは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つの次元を行き来すると説いています。これはひとびとのこころのなかに起こる精神状態と考えたほうが現代人には理解しやすいと思います。
阿修羅は、他人と争って有利な立場に立とうとして、相手を蹴落とし命までも奪ってしまおうとする恐ろしい心理状態を象徴的にあらわしたものなのです。六本の腕は、相手を傷つける武器を持ち、また敵を陥れるさまざな策略を表しているようです。
古代インド神話には、善なる神・帝釈天と魔神・阿修羅との絶え間ない争いの神話が残っています。余談ですが、クレーンなどのなかった時代に、大きな石を移動するそりのような道具を「修羅」といいました。それは「帝釈天」と「大きな石ー大石(たいしゃく)」を掛け、帝釈をも動かすものとして「修羅」という名前があてられたいいます。
 仏教に取り入れられた阿修羅は、邪悪なこころを改め仏法を守護する頼もしい存在となりました。ですから釈迦のそばにいる阿修羅は、恐ろしい形相には作られていません。釈迦の説法によって争いの空しさを知り仏法に帰順した状態を表現しているからです。
法隆寺の五重塔の初層には、釈迦の一生をジオラマ風に造った塑像群が残されていますが、そのなかに六本の腕を生やした阿修羅像があります。これは釈迦が入寂したときの様子を再現した場面です。文字どおり修羅場をくぐってきた阿修羅ですから、お釈迦様の死に臨んでも取り乱すことなく穏やかに涅槃の意味を噛み締めているのです。

興福寺の十大弟子像や八部衆は、光明皇后が母君の橘三千代の追善のために734年に造営された興福寺西金堂に安置されました。丈六の釈迦三尊を囲むようにならべられていたということです。
「正倉院文書」には西金堂諸像作者として「仏師将軍万福」があげられており、顔つきや衣紋のリズムの共通性からも、仏師・万福を制作の代表者と考えてよいでしょう。もちろん脱活乾漆という制作技法は大変手間と時間のかかる方法ですから、万福が何人もの弟子たちを使って分業制作を行ったであろうことは、実作者の立場から当然と考えます。記録によると西金堂諸尊の制作日数は約一年とあります。八部衆や十大弟子だけでなく、本尊の丈六釈迦像と両脇侍、梵天、帝釈天、四天王などもあったということで、これらすべてを一年で完成させたということは、かなりの経験を積み、すぐれた工程管理のできる優秀な工房であったことは疑いのないことです。
 興福寺の阿修羅像はご存じのように少年のように清楚で穏やかな表情をしています。その他の八部衆や十大弟子も、すべて小ぶりです。そして身体のバランスは華奢で顔つきもやはり少年のようです。東大寺の三月堂に残る同時期の諸尊の堂々たる男性的な体つきと好対照ともいえます。
平安時代以降の仏像彫刻は、厳格なプロポーションが決められ理想の仏のすがたを象徴化しているために、現実の人間のモデルを必要とはしませんでしたが、このころは、近代の彫刻家のようにモデルをつかっていたのではないかと私は思っています。東大寺戒壇院の四天王像に見られる闊達で写実的な表情を作り出すためには、モデルを使わなかったとは考えられません。
ではどんなひとが阿修羅たちのモデルとなったのでしょう。
奈良時代の仏教寺院は、現代人が考える寺とは異なります。大学や学校、研究所、病院を兼ね、土木建設事業や工鉱業生産などの先端事業を担う巨大な公共企業体でありました。そしてその先端的知識や技能を有していたのは渡来系豪族の出身者や、百済滅亡にともなって移住してきたであろう朝鮮半島南部の出身者が中心でした。
もちろん、興福寺の阿修羅を代表とする乾漆像の制作者も、そうした最先端技術に習熟していた渡来系氏族の出身者や大陸から渡ってきた技術者であったことでしょう。
 当時の大寺院には、僧侶のほかにさまざまな世代や役割のひとたちが所属し働いていました。大陸伝来の音楽や舞踊の研修をする雅楽寮には、たくさんの見目麗しい少年たちも生活をしていたことでしょう。ひょっとすると、シルクロードを通ってやってきた異国の少年も混じっていたかもしれません。彼らのすがたが十大弟子や八部衆のモデルになったのではないでしょうか。
 興福寺の諸尊の造形には、もちろん制作者の個性もあったでしょうが、光明皇后の女性として、母としての感性が強く反映されているのではないかと私は考えています。
 なお興福寺西金堂は四度火災にあっています。十大弟子や八部衆はそのたびにかろうじて救い出され今にいたっています。このほとけさまたちを命がけで救い出した興福寺歴代の僧侶たちに、わたしたちは心から感謝すべきであろうと思います。
5 乾漆技法
 阿修羅像が作られている技法は脱活乾漆という不思議な名前で呼ばれる唐代に完成された技法です。わが国では百済系の工人がこの技法に習熟していたようですから、朝鮮半島でも日本に先んじてさかんに行われていたのでしょう。
ただ、朝鮮半島は、仏教国から儒教の国へと変わる過程で、徹底した廃仏運動がおきて、残念ながら多くの仏像が失われてしまい、現在、乾漆の仏像は残っていません。
 乾漆とは、漆液が固まった状態をいいそれほど古い言葉ではないようです。漢方ではその粉末を女性の生理不順の薬や、駆虫薬、咳止め、として用いるとのことですが、効能のほどは存知ません。天平時代の文献には、乾漆という語句より、塞(そく)や莢紵と書かれています。
脱活乾漆技法は、簡単にいってしまうと麻布を漆とでんぷんを混ぜた糊すなわち麦漆や糊漆で張りつけて作る張り子状の立体といえます。
このほかに、木心乾漆という技法もこの頃行われています。
 脱活乾漆は、張り子の芯になるかたちを粘土で作るのにくらべ、木で粗い形を彫刻した芯に麻布を張り重ねて作ります。目鼻や衣の襞などの細かい造作を、糊状の漆に木の粉や植物繊維を混ぜた木屎漆という粘土状の塑形材で形作っていきます。代表作例は聖林寺の十一面観音像があります。
 彫刻は、石や木を削って作るカービングと、粘土のような塑形材を盛り上げて作るモデリングに大きくわけることができます。脱活乾漆は、モデリングであり、木心乾漆は芯木をカービングで、そのあとは木屎漆でモデリングするという折衷の技法です。
これらは唐の時代に完成された技法ですが、大陸から発見される遺品には、麻布のかわりに獣の皮を使ったり、漆にひつじなどの獣の繊維を練り込んでいるものもあります。正倉院御物には漆皮箱(しっぴばこ)という皮で作ったはこに漆を塗ったものがありますから、わが国にも紹介されてはいたのでしょうが、一般化はしなかったようです。

 ただこの技法は、とても時間と手間がかかることと、漆を大量に使います。そこで、木心乾漆の技法をもとにしながら、木屎漆でモデリングをするのではなく、木心部分を細部まで彫刻し、木彫だけで形を完成させるようになりました。このことが結果的には、平安時代の素晴らしい日本独自の木彫へとつながっていくひとつの原因ではないかと私は解釈しています。
6 さいごに
 天平時代は、単に政治史だけでなく、精神史および技術や産業の歴史においても、その後のわが国の枠組みを決定づけたといっても過言ではありません。
私は、大きな動乱のあとの建設の時代には、日本人は天平的なるものに還るという持論を持っています。それは鎌倉時代、桃山時代、明治時代に顕著に現れています。
ちょっと大胆なたとえをするなら、天平文化が日本文化の母であると言えるのではないでしょうか。日本列島に住みついていた粗削りで素朴な男が、大陸から美しくあでやかな女性を娶って生まれたのが日本文化であったといえないでしょうか?遥かなる国、毋なる国への願望は、わが国の文化人が持つ普遍的姿勢であったことを思いだします。
天平時代の遺品を見るとき、なんと素晴らしい才能が当時の日本に住んでいたことかと私はいつもため息がでます。ほんとうに奇跡のようなできごとです。天平時代が残してくれたすべての美術工芸品の完成度は、技術的にも造形的にも完璧なものです。それらは、その後の日本の美術工芸に携わったすべての末裔たちの永遠のお手本であり、自分の拠って立つところを見失ったときに還っていく故里のような存在であると私は思っています。

 まだお時間が、少しあるようです。
はじめに申しましたとおり、私も天平彫刻をはじめとする日本の古典彫刻につよい影響を受けた彫刻家のひとりです。みなさまのなかには、「では、お前はどんな作品を作っているのか?」とお思いの向きもいらっしゃるかと思います。
そこで時間調整のために、私が仏教的な主題で制作しました作品のスライドも、少々ご用意いたしました。
天平彫刻のあとにお見せするにはかなり勇気のいることであり、お目汚しで蛇足であることを重々自覚しながらも、恥を忍んでご紹介させていただきたく思います。しばしおつきあいのほど、お願いいたします。

私の講演はこれでおわりです。ながい時間おつきあいをいただきましてありがとうございました

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