醍醐寺展記念講演(2005年4月17日)
会場;醍醐寺「ししょう殿」
演題;「アーティストがお寺にできること」
はじめに)

 こんにちは。彫刻家の籔内佐斗司でございます。ただいま教学部長さまから過分なご紹介をいただき、たいへん恐縮しております。
 3月19日から5月8日まで霊宝館のアーティストスペースを会場に「籔内佐斗司の世界 in 醍醐寺」展を開催させて頂いていますが、今からこの展覧会を記念して講演をさせて頂きます。
 時節柄、私もご多分にもれず花粉症を患っておりまして、ごらんのような声をしております。お聞き苦しい点も多々あるかと思いますが、どうか小一時間ほどお付き合いをお願い致します。また、どうぞ足を崩してお楽な格好でお聞き下さい。

縁結び童子
(東大寺大鏡池にて)
 さて、大阪で生まれた私は、幼いころより幾度となく京都や奈良の神社仏閣を訪れる機会がありました。けっして信心深い家庭ではありませんでしたが、折に触れ寺院や神社を家族で訪ねたことはとても楽しい思い出です。「仏教」ということばを知るよりずっと早くから「ならのだいぶつさま」に手を合わせていたような気がします。子供時代の写真帳には、3歳ころの私が、大仏殿右奥の柱の根元の四角い穴から顔を出している写真や、法隆寺の境内を歩いている写真が残っています。
 また、いつも家の近くの遊び場であった天神さんの拝殿では鈴を鳴らしたり石の牛の像の鼻の穴に一円玉を詰め込んだりして遊んでおりました。
 戦後のサラリーマン家庭に育ち、アメリカ的民主主義の教育を受け、社会主義思想が台頭する時代に青春期を過ごしましたが、そのいずれにも違和感を覚え深く傾倒することもなく、成長するにつれ日本の伝統文化や日本人が大切に育んできた精神世界に親しみを持つようになりました。これは、私の無意識の内にこころのなかに起こったことで、私はこれを「遺伝子の記憶」と呼んでいます。

そして彫刻家である私の創作の原点も京都や奈良の寺院にあります。古い仏像の修復と研究に没頭した青年時代に、各地の寺々へ足繁く通った日々を懐かしく思い出します。二十年ほどまえに修復の現場を一旦離れましたが、文化財保護のしごとを通じて知ることができた「ほとけさまから教えて頂いた彫刻技法」を使って、創作家の立場から日本人のこころの世界に関わってまいりました。そして昨年からふたたび、東京藝術大学の大学院で文化財保存学という講座を担当するようになり、以前にも増して寺院巡りは頻繁になりました。今は創作と文化財保護の二足のわらじを履きながら、日々幸せな気持ちで過ごさせて頂いています。
私は今回の醍醐寺での展覧会を、彫刻家としての私の原点である寺々やそこに祀られる諸仏、諸霊に対するご恩返しの一環と位置付けています。こうした奉納は、今回にかぎらず、ピアニストとのコラボレーションなどいままでにもさまざまなかたちで行って参りました。そこで、本日の講演のテーマを「アーティストがお寺にできること」としたわけです。

2002年に奈良の東大寺で「大仏開眼1250年奉賛 籔内佐斗司 in 東大寺」という展覧会をさせて頂きました。南大門のすぐ横に、かつて東大寺学園という付属高校の体育館であった瓦屋根の「金鐘会館」という大きな建物があります。普段はお寺でさまざまな集まりにお使いの所ですが、そこを展覧会場にいたしました。私は、3歳のころに大仏さまの柱の穴をくぐって以来のご縁とともに、奈良の寺々から授かったさまざまなご恩に感謝する気持ちを、奉納展覧会というかたちで思いのたけを会場全体で表現させて頂きました。当時の管長さまであった橋本聖園長老をはじめ山内のお坊さまや職員のみなさまにもとても喜んで頂き、たいへん気持ちのいいかたちで奉納することができました。今もお寺をお訪ねするたびに、あの展覧会のことが話題に出て、ほんとうにいいご縁を頂戴し、ありがたいことだったと感謝しています。
実は、今回の醍醐寺さまの展覧会も、東大寺展をご覧になった醍醐寺の宗務総長さまから頂いた「霊宝館にあるアーティストスペースと周りの庭園でこんな展覧会をしてみませんか?」とのお言葉が発端でした。
おかげさまで、春爛漫のこの時に国宝のお薬師さまのお膝元で、私の展覧会を開催させて頂くことができましたことは、展覧会を成功させるべく誠心誠意支えてくれた展覧会スタッフともども総長さまにはたいへん感謝しているところです。

芸術活動の発生は人を超えた存在への奉仕から)

 さて人類の歴史を顧みれば、宗教と芸術はそれぞれの発生の段階から切っても切れない関係にあったといえます。
 人のもっとも基本的な活動に、食料を調達する仕事があります。これは人にかぎらず生命体が生きていくための本能的な活動です。先史時代のひとびとは、狩りをしたり木の実を集めたり、またもう少し時代が進むと農業や牧畜へと発展します。そして衣服を作ったり、家を建てたり用水路を掘ったりという仕事もあります。これらは、人が集団で暮らし社会生活を営むことと密接に関係していて、みんなが安全に便利に生きていくための仕事です。
 しかし、けっしてお腹の足しにはならないのに、太古の昔からひとびとが熱中してきたものがあります。それが宗教活動であり、音楽や芸能そして美術などの芸術活動です。これらをひっくるめて文化といい、便利さを追求する文明とはすこし違った種類の人間活動になります。
 人類が、火を用い道具を使うようになったのと殆ど同時に、絵画や彫刻は生まれたと考えられています。フランスにある先史時代の人たちが住んだ洞窟の壁面には、牛やマンモスを追って狩りをする人々の躍動感溢れる絵画が登場します。また動物の骨を削ったり、土をこねて焼いた見事な女性像も発見されています。これらは現代の美術館に飾られていても、全く見劣りすることのないみごとな芸術作品です。文明の産物は時代遅れになりますが、芸術は時代を超えてひとびとを感動させ続けるのです。
 先史時代のひとびとは、こうした絵画や彫刻を、たとえばたくさんの獲物が獲れるようにとか、無事に元気な赤ちゃんが生まれるようにとか、あるいは死者を弔うこころこめて制作しました。祈りの気持ちと造形活動が不即不離のものであったわけです。ギリシアやローマの彫刻も、もちろんわが国の仏像も祈りの対象です。世界中の音楽も、最初は宗教空間を厳かな雰囲気にするために作られました。このように芸術活動は、祈りや鎮魂という精神活動、ことばを変えればこころの平安と密接な関係があったのです。
 近代以降、芸術活動は宗教から離れて行われるようになりましたが、もともとは人の存在を超えたものに奉仕するものであったことを、私はアーティストのはしくれとして忘れてはならないと思っています。現代の芸術活動は、とても多様になっています。その一方で、芸術表現が行き場を失い、過去の偉大な芸術にくらべ非常に痩せて貧相なものになってきたことを多くの人が指摘しています。これは、芸術家が人を対象とした表現に終始した結果であったからではないかと思います。
 そして昨今では、純粋芸術や工芸以外に、写真や映画などの映像分野がとても広がってきました。こどもたちが大好きなテレビゲームやアニメーションなども、今後、絵画や彫刻を凌駕して視覚芸術の主流として評価されていくことでしょう。しかし映像分野は、芸術活動が宗教と分離されて以降に発達したものですから、刹那的には楽しくしてくれるかも知れませんが、本当に幸せにしてくれるかは未知数です。
 芸術は、いつの時代でも、ひとびとのこころの奥から平安にし、幸福で豊にしてくれものであってほしいと私は願っていますし、そのために自分は何をしなければならないかをいつも考えているのです。

私の童子たち)

 では私は何を表現しているのかを少しお話させて頂ください。
 私の作品には、たくさんの子どもの像があります。彼らは、裸で頭にちいさな「つの」をはやし、腕と足に釧(くしろ)という飾りをしています。
 むかしから「七才までは神のうち」ということばがあります。七才までの子どもは、人間界の存在ではなく神様からお預かりしているとても儚い存在だから大切に育てなければならないという思想です。乳幼児の死亡率が高かった昔は、七才までこどもが無事に育つということは、大変な幸運であったのでしょう。また小さな子どもが亡くなるという悲しい現実を、「神仏にお返しした」と思うことで癒そうとしたのでしょうか。三才、五才、七才という七五三の節目を、昔の親たちは今では想像もできないほどの感慨と感謝をもって迎えたことでしょう。

振鈴童子
 私の「童子」の作品もやはり「人間界ではない世界」に属する存在を表現しているのです。
「童子ってなんですか?」というご質問をしばしば頂きます。そんな時、私は次のように答えることにしています。「中国でいうところの『気』、元気、天気、最近はやりの『気功』の気です。また古代の日本人が呼んだ『たま』、たましいのことです。山で「ヤッホー」いえば『木』のたましいが答えるから『こだま』。たんなる物質である『もの』がいのちを持ったり、さまざまな現象を生み出すのは『できごとのたましい』としての『ことだま』が宿るからです。
また「童子」は、英語でいうと『スピリット』のようなものだとも思います。そして科学者が『エネルギー』と呼ぶ活力の源を、私は『童子』として表現しています」と、そのように説明することにしています。
そしてこのエネルギーそのものである「童子」たちを四方八方に発散しすべての現象の源であり統御している根本的法則を、仏教では廬舎那仏あるいは大日如来として象徴的に表現されているのだろうと私は理解しています。

 昔のひとたちは自然界のさまざまな現象を、いろいろな神さまの作用だと理解しました。雷は「雷神」、風は「風神」、また水は「水神」として龍のかたちをあてました。ひと粒の米から無数の稲が稔る不思議を、「稲荷」すなわち「イネナリ」の神のご加護と考えたわけです。そして、そのなかの最高の神さまがお天道さまだと考えていたのです。私の童子たちは、そんな自然界の現象の象徴である神々の子どもとしての性格を持っています。霊宝館に並んでいる童子たちは、私のそんな思いの結晶であるわけです。

日本人が守りつづけてきた仏さま)
 では日本人が守り伝えてきた仏像についてお話をします。
 修学旅行の定番である奈良の大仏さまのお顔が実は四代目であることをご存じでしょうか。
 大仏さまは、中国・唐の竜門の石仏をお手本に、百済系工人・国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の指揮で完成したのが752年のことでした。しかし1180年、平重衡の兵火により東大寺一帯は灰燼に帰し、大仏は頭部や腕が焼け落ちるなど甚大な損害をこうむりました。その後1185年、宋人・陳和卿(ちんなけい)により大規模な修理が行われ、頭部は新しく鋳造されました。これが二代目です。しかし1567年、松永久秀の軍勢により再び大仏殿は焼失し、大仏の手や胸から上は大きな損傷を受け、ふたたび頭部は破壊されてしまいました。

江戸時代になって全体を丹念に鋳掛け修理した後、しばらく三代目となる木造の仮りの頭部がのせられていたそうですが、1690年にいまの四代目の頭部が造られ現在に至っています。大仏さまをよく見ると下の方ほど激しく傷んでいますが、お顔はま新しい感じがするのはこのためなのです。

こぼすなさま
(東大寺大仏殿基壇にて)
千二百年をはるかに超える長い間、唐の英知をもとに百済や宋そして天平、鎌倉、江戸の各々の時代を代表する造形力と技術が、度重なる破壊を乗り越えて一体の彫刻として具現化していることは、世界の文化遺産のなかでも極めて稀なことです。それを支えたのは、大仏さまを守りたいと願ったひとびとのこころと、それをかたちにすることができたアーティストたちの技によるものであったのです。
先頃、徹底的に破壊されてしまったバーミヤンの大石仏のことを思うと、心が痛みます。しかし、わが国でもほんの100年ほど前に廃仏毀釈という仏像破壊運動が起きたこと事は、ご存じの通りです。また第二次世界大戦では、おろかな政府が引き起こした無謀な戦争の結果、日本全国の歴史的景観とともにたくさんの神社仏閣と仏像が焼失してしまいました。仏像の受難は過去の事ではありません。現在も、地方の過疎化による農村社会の崩壊は、無住寺院をたくさん生み出しています。そしてそこからは仏像の盗難事件が日常茶飯事にように起きています。私は、現代を廃仏毀釈以来の仏像受難のときだと感じています。かつては農村社会の地域センターの役割をしていた寺院が、役場や農業協同組合にそのしごとを奪われ、お彼岸や盆踊りなどの地域行事や先祖供養のこころも希薄になって、宗教施設としての存在意義すら消滅する寸前といえましょう。
こんな時代、現代を生きるアーティストは、今一度、芸術発生の原点に立ち返って、宗教者のみなさまとともにこれからの時代にふさわしい宗教空間の創造をしていく必要を感じています。
 歴史上、仏教再生の時、英明な宗教者の指導のもとに、つねにその時代のアーティストが新鮮な感性と最先端の技術でもって宗教空間を生み出してきたわけです。その後、永い歴史の評価を受けながら、幸運にも残ってきたものが文化財としての評価を得ることとなるわけです。

歴史上のアーティストがお寺にしてきたこと)

 わが国の歴史のなかで、時代にもっとも適合した宗教空間を創造に成功した人物の話をしましょう。そのひとの名は、大仏師・定朝(じょうちょう)です。
 日本人なら、すぐに連想できる「ほとけさま」の姿があります。薄い衣を身にまとい、まるいお顔に細い目で、頭は細かい螺髪で被われた「円満具足」という穏やかなお姿、そして造立当初は身体中を金箔で覆われ、いまはそれが剥がれて下地の真っ黒の漆の色が見えている仏像。こうしたほとけさまは、じつは平安時代の末に完成した平安和様ともいえる日本独自の造形であり、「寄せ木造り」というわが国で創案された制作技法によって造られています。そして、こういうほとけさまの形式を完成した仏師が定朝でした。現代の仏師たちは、今なお基本的には平安時代末期と同じ比率と技法を用いて仏像を作っています。定朝スタンダードは、千年も続いているわけです。私はこの大仏師・定朝を、彫刻家としても、また偉大な組織経営者としても敬愛しています。

 定朝のすごいところは、造形上の様式を作っただけでなく、仏像の品質を落とさずに大量に「生産」するシステムを作り上げたことです。すなわち、定朝だけでなく、ほかの仏師が作っても定朝様式のほとけさまになるように技法と様式を標準化したのです。これは、近代工業の大量生産方式、特に自動車産業に例えることができます。定朝は、仏像彫刻のヘンリ−フォードといってもいいかも知れません。
 「なむあみだぶつ」ととなえれば、誰でもが極楽往生できるというきわめて平等主義の宗教が往生思想であり、その祈願の対象は「全く同じ様相をしていなければならない」と当時の人は考えたのかも知れません。したがって、世界の信仰史上に例を見ないほど均一化された彫刻の大規模な需要が発生しました。
 大正大学の教授で醍醐寺の仏像の研究を続けておられる副島弘道さんが、「運慶」(吉川弘文館)という本で白河上皇が一生の間に作らせた仏像の数を「中右記」という文献から紹介しています。それによると、生丈六像(一丈六尺の二倍の坐像で坐高が約五メートル、立像に換算すれば約十メートル、南大門の仁王さまの二倍近い大きさ)の像を五体、丈六像(坐像で約二.五メートル、すなわち平等院の阿弥陀さまの大きさ)を六二七体、等身以下の仏像にいたっては六千体を越すのだそうです。同じ副島さんの本には、定朝が等身大の仏像二十七体を、約百人のスタッフを率いて五十四日間で作り上げたという「左経記」の記録も紹介しています。当時、仏像制作がいかに巨大ビジネスであったかが伺えます。そのパワーは、とりすました近代や現代の芸術家などひとり残らず吹き飛んでしまうすさまじさです。
来世への旅支度として、寺院を建立し阿弥陀さまを請来しようとするひとは、それぞれの経済力に合わせて仏師たちに仏像を注文しました。それは現代人が車を選ぶ時に似ています。世界に冠たる日本車は、移動の道具としては価格によらず機能に大差はありません。ですから予算に応じて軽自動車から小型の乗用車、また中型、大型高級車と選択して行きます。目的地へ行くまでの方便としては小さな乗用車でもよいわけですが、居住性やステータス、安全性を重視すると、大型の高級車という選択になります。供給側としてもそうした品揃えをしています。宇治の平等院の阿弥陀さまなどは、西方浄土まで乗って行くロールスロイスといったところでしょう。定朝様式の仏像は、大きさと荘厳の豪華さで差別化をはかりましたが、個々の仏像の個性をなくすことで、極楽往生の機会均等を保証したともいえます。

 定朝様式の仏像は、日本全国で見ることができます。しかし彼自身の作と確定できる仏像は、平等院の阿弥陀さまのほかはほとんどありません。もちろん戦乱による焼失が最大の原因です。これほど高名であり後世に影響を及ぼした彫刻家でありながら、本人の作品がほとんど残されていないということは極めて稀なことです。
 定朝以降、彼の様式を踏襲した院派や円派といわれる優秀な工房も育ちました。しかし定朝様式は、その造形と制作システムがあまりにも完成されすぎていたため、彼の後継者たちは、新しい様式を生み出す創造性と活力を失ってしまいました。そして次の鎌倉時代の仏像彫刻は、天平時代の造形を踏まえたベンチャー集団「慶派」が担うこととなりました。
大仏師・定朝は、文化的にはほぼ鎖国状況のなか、貴族がこの世を謳歌した平安時代末期のもっとも爛熟した時代に、その能力を最大限に発揮しえた傑出したオーガナイザーであったと思います。

 その他にも、時の宗教者の熱意と庇護者の篤い信仰のもとに、素晴らしい仕事をなしえたアーティストがたくさんいます。
 運慶や快慶で知られる慶派の仏師たちは、平重衡の南都焼き討ちで灰燼に帰した東大寺や興福寺の復興を超人的な活躍で成し遂げました。日本美術史のなかで「鎌倉時代の彫刻」が存在しなかったら、どんなに寂しいものになるでしょう。平重衡は、日本彫刻史のみならず世界の彫刻史にとって大恩人であるともいえるかもしれません。醍醐寺さまの三宝院には、快慶の素晴らしい弥勒菩薩があります。数年前に東京国立博物館の展覧会でこの像の全体を拝観したとき、人が創り得たものとは信じられない崇高なお姿に、思わず涙が出そうになりました。
 慶派のことをお話し出すと、とても時間が足りませんので、また別の機会にいたします。

 明治時代には、廃仏毀釈という仏像受難の時代がありました。時は19世紀、仏教発祥の地であるインドは英国の植民地となり、儒教発祥の地・中国は、欧米列強の利権争奪の場と化していました。明治維新という大変革の時に、近代文明に立ち遅れたアジアを発祥の地とする宗教や思想を脱却して、欧米のような近代国家に変貌するためにふさわしい指導理念を確立する過程の拙速が起因して、廃仏毀釈という愚行が起こったのではないかと想像しています。
 しかしその後、岡倉天心に率いられた気鋭のアーティスト集団が、近代国家はその国の文化と歴史をしっかりとふまえた上で築かれなければならないということを主張して、わが国の伝統文化と新しい芸術活動の復活を唱えました。天心のもっとも偉大なところは、創造の源泉を伝統文化に置いたことです。残念ながらその後の日本美術界の主流は、西洋美術の模倣の道を歩み続けて現代に至るわけですが、今、そのことの見直しの時期に来ていることは確かです。その伝統文化の保護を担ったひとたちの系譜を引くのが、財団法人美術院で、現在もなお国指定の彫刻文化財の保存と修復を一手に任されていることは、嬉しいかぎりです。また創作分野の系譜を引く団体として、日本画で有名な「院展」を主宰する日本美術院になっていくわけです。

現代のアーティストがお寺にできること)
 さて、現代のアーティストがお寺にできることの例を、僭越ながら私の活動を通じてお話いたします。
 私は「奉り行う」ということばが好きです。どんなことをするにしても、「してあげる」とか「させられている」と考えていると、あくまでも人に対してしているのであって、相手とのあいだに上下関係が生まれてしまいます。しかし「奉り行う」即ち「させてい頂いている」という心持ちは、ひとを超えた何者かに対する感謝の気持ちが芽生えます。
 まるでモラリストのようなことをいいましたが、自分の行動を律するという意味では、忘れてはならない言葉だと思っています。ことにお寺のしごとをさせて頂く時には、そう思うように心がけています。

広目天像
(萬年山青松寺四天王像のひとつ)

東京港区の愛宕山といえば、かつては鉄道唱歌にも歌われた景勝の地として有名でした。青松寺はその東南の丘陵にあります。その広大な敷地では数年前に、お寺・港区・森ビルの三者共同で「愛宕地区再開発プロジェクト」が行われました。2002年、四十数階建ての超高層ビルが二棟とともに豪壮な七堂伽藍が姿を現しました。
 青松寺は、もとは幕府お膝元に位置する永平寺直系の専門道場としてたくさんの修行僧を抱えていた曹洞宗の名刹です。また駒沢大学は、同寺の獅子吼林僧堂をはじめ、曹洞系のいくつかの道場が統合されて設立されたとか。しかし残念なことに、関東大震災で伽藍の大半が崩壊してしまいました。本堂は、昭和の初めに鉄筋コンクリートの耐震建築として再建されましたが、専門道場の機能はながらく停止したままでした。しかし行住坐臥すべてが修行である禅宗寺院にとって、僧堂の復活は歴代ご住職の悲願であったと聞きます。さきほどの二棟の超高層ビルの敷地は、僧堂の復活と維持運営のために、百年の大計をもって再開発事業に提供されたものでした。
 私が青松寺とご縁ができたのは、1993年の「籔内佐斗司の博物学的世界」展がきっかけでした。ちょうど老朽化した本堂の大改修工事のときで、当時の方丈さま(住職)の故・喜美候部継宗師とご子息の宗一師は、「禅寺に釈迦の弟子である十六羅漢像がないのは寂しい。この改修を機にぜひお像を請来したい。」とお考えになっていました。たまたま「釈迦十大弟子」の作品をこの展覧会でご覧になった宗一師が、「この男にやらせてみよう。」とお考えになったということでした。仏師としての実績などほとんどない若い彫刻家の大抜擢でした。
 その後、わずか十ヶ月の制作期間に私の工房が総力を挙げて取り組んだ十六羅漢像は、現在、青松寺の山門楼上に安置されています。
そして十六羅漢像がご縁となり、青松寺境内周辺の一大再開発事業にふたたびお声を掛けて頂きました。新装なった開山堂に「ご開山」と「道元禅師」「塋山(けいざん)禅師」の三高祖像をお納めし、大きな山門に総高三メートルを越す木彫の四天王像を、そして港区と青松寺との協定公園内に、たくさんのブロンズ作品を設置いたしました。このお寺には、およそ40点の私の作品が収蔵されており、私にとってはたいへんありがたい存在です。また青松寺の観音聖堂には、今日も会場にお越し頂いている、仏師の江里康慧先生がお造りになられた観音菩薩像も安置されており、公私ともにとても大きなご縁を頂いているわけです。
伽藍復興が成就した青松寺では、「仏教ルネッサンス塾」という活動をはじめ、在家者に対するたいへん活発な活動が始まっています。
 このしごとを通じて、私の工房の若者たちも大きく成長したと思います。そして彼らが、現実の宗教施設に働くひとびとと身近に接することによって、宗教の意味や現代における意義を学んでくれたことと思います。宗教施設に奉仕することで、信仰とまではいかないまでも、社会的責任感や使命感を持ってしごとをすることの大切さを身を持って体験してくれたようでした。

さいごに)

 歴史を振り返ればすぐにわかることですが、アーティストは、いつの世も時代に鍛えられ育てられるものです。私も、日常の制作のほかに、公共事業や宗教施設などのしごとを経験することによってさまざまなことを学びました。またその積み重ねが、文化の継承と創造にも繋がっていることを実感しています。これは、仏像の保存修復事業にたずさわっていた二十代の頃からの思いでもあります。
 仏教寺院といえば、ともすれば葬式や法事だけが連想されがちですが、この醍醐寺さまは宗派の本山として、たくさんの若い修行僧たちが学んでいると聞きます。生きている人の育成を目的とした寺院本来の姿に接することは、お寺のお仕事をさせて頂ける時の何よりの喜びとなります。
 また、たくさんの国宝を安置している霊宝館のような施設で、現代のアーティストにも発表の場を提供されている醍醐寺さまの姿勢にこころから敬意を表したいと思います。
そして最後になりましたが、この奉納展覧会に深いご理解を示され、貴重な施設の提供をはじめさまざまなご便宜を賜りました醍醐寺さまに、展覧会実行委員会一同を代表してこころよりの御礼を申し上げたいとます。
さてお時間もころ合いとなりましたのでこのあたりにさせて頂こう存じます。長い時間ご静聴頂きありがとうございました。
もしご質問などがございましたら、どうぞ遠慮なくお手をお挙げください。


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