森林と木の文化フォーラム講演会
2005.9.3東京大学北海道演習林講演会
於;富良野市文化会館

はじめに)

 こんにちは。ただ今ご紹介頂きました籔内佐斗司です。
 私は、木彫を本業としていますが、そのかたわら仏像に代表される木造文化財の保存と修復について、東京藝術大学大学院で教育と研究に携わっています。
 籔内佐斗司と申しますのは芸名です。本名は「籔内直樹」と言いまして、「籔のなかのまっすぐな樹木」という意味で、生まれながらに木とは切っても切れない関係にあるようです。

 今日は、酒井先生のご縁で、「わが国における木の文化」について、お話をさせて頂くことになっています。確かにわが国の歴史を振り返れば、溢れるような森林資源を背景にして、世界でも有数の木の文化を生み出してきました。ということは、とりもなおさず木を浪費し続けてきたということでもあるわけです。その結果、森林資源の枯渇が言われて久しくなります。また高度経済成長時代に、石油を原料とする各種合成樹脂によって「木もどき」の商品を大量に安価に生み出されることによって、木材加工に携わっていた木の職人たちの仕事を奪い、木によって育まれてきた私たちの文化そのものが存亡の瀬戸際にあるといえます。
 「わが国の木の文化」の現状を語ることは、「日本文化の危機」を語ることにほかなりません。

1)思い出さねばならぬこと

 私が子供の頃に、アメリカ帰りの人から聞いた話で、向こうの友人たちと郊外の森へ行った際、どの木の名前を尋ねても「パイン」か「メープル」としか言わなかったということです。彼らが、生えている木に対してほとんど興味を持っていないことにたいへん驚いたという話を聞きました。たしかに40年くらい前の日本人なら、針葉樹は松、杉、檜、サワラ、槇など数種類の判別はできますし、広葉樹なら欅、樟、椎、ぶな、桑などはたちどころに判別できたと思います。
 しかし、今の都会に住む日本人で、とくに子供たちに木の種類の判別は、殆ど絶望的ではないでしょうか。
 西行が読んだ「願わくは、花のしたにて春死なむ、その如月の望月のころ」という歌が、私は大好きです。日本人の桜に対する思い入れは、特別だと思っていました。ところがこんな話がありました。
 私の友人に、東京の下町とパリを半年ごとに行き来していたフランス人の老彫刻家がいました。数年前のある日、彼がひょっこりやって来て「パリに帰る。もう日本には戻ってこない」と言いました。理由を尋ねると、彼の答えはこうでした。「自分のアパートのそばに大きな桜の木があって、毎年4月になると見事な花を咲かせ、春の訪れを知らせてくれ、日本にいることの喜びを感じさせてくれていた。先日突然、地主がその木を切り倒して駐車場にしてしまった。近所の住民から寄せられる落ち葉と毛虫の苦情に嫌気がさしたのだという。自分はそれを聞いて、もうあの町に住む気がしなくなった」と。私には、彼を引き留める言葉が見つかりませんでした。
 桜の樹齢は、ひとの一生とよく似ているということを聞いたことがあります。街路樹や庭木として植え替えるには15〜20年くらいの順応性の高い時期のものがよく、30〜50年くらいのものは、もっとも活力があり花を一番たくさんつけ、60年以上は老木となり、病気や虫害を受けやすくなる。老木の幹にこぶこぶや苔が生えているのは、人でいえば肉腫や皮膚病のようなもので、免疫機能が落ちた木だということを聞きました。まるで人の一生を見ているようです。
 毎年春にみごとな花をつけてくれる桜の樹を見上げながら、日本人は今年も無事に春を迎えられたことを感謝して来たのではないでしょうか。落ち葉や毛虫がいやで、桜を切り倒してしまうひとびとの感性を悲しくなるのは私だけでないことを祈っています。

 昨日、東大の演習林のなかでとても美味しい湧き水を呑ませて頂きました。ほんとうにおいしかったです。そこで、水についてのお話です。

 日本通のあるアメリカ人が茶懐石の席で質問をしました。「お箸が最初から濡れているのは何故ですか?」廻りの日本人は唐突な質問にとまどいながら、あるひとが答えました。「こうしておくと、ご飯粒がお箸にくっつかないんだよ」。青い目の彼は、いささかあきれた顔で、「清水で浄めてあるのではないのですか?!」といいました。一座の日本人は、虚を突かれ一本取られた思いでした。

 かつて日本人は、水には穢れを浄化する力があると信じていました。しかし今の水は、水道局によって川の「不潔な」水を殺菌消毒し、塩化ビニールの水道管を通って蛇口から供給され、排水は下水管を通って汚水処理場に集められ濾過され川に流されます。人の目に触れないこのシステムでは、山も樹木も介在していませんから、もはや水に精神的な霊力や浄化力などを感じることが出来なくなってしまったのでしょう。そして直接口にする水は、遠くヨーロッパから輸入したペットボトルの銘水では、日本の山々がかわいそうではありませんか。日本のこころを考えることは、まず私たちが忘れてしまっていることを思い出すことから始めなければなりません。

2)季節

 日本の食文化の特徴は、「旬」と表現される「新鮮さ」にこだわることに尽きると思います。「旬」とは「十日間」を意味し、「旬の味」とは、ある季節の十日間だけの味覚を大切に慈しんだのです。そして、その味覚は、豊かな山と森林によって浄化された水に負っていたことは論を待ちません。長い期間熟成させた中国の乾物や保存食の多様さとはみごとな対比をみせています。
 しかし食品の流通や保存システムの進歩は、時の移ろいを止めてしまいました。日本人の味覚は画一化、無国籍化、無季節化の一途を辿っています。
 戦後、私たちは国土の外から原料とエネルギーを買い付けて工業生産物に作り変え、それらをたくさん販売し所有することが幸福に繋がる、と信じてきました。また化学的に処理された合成物質を信頼し、自然のままを不潔なものとして忌避してきました。その姿勢には、四季の移ろいを愛でる心や、自然への畏敬も感謝も入り込む余地はありませんでした。結果として、山を荒廃させ、里の風景を台無しに、水や空気を汚しつづけることに邁進してしまったことはご存じの通りであります。
 最近、小学校の音楽の教科書を見る機会がありました。次々出てくる見知らぬ曲の歌詞を見ていて、あることに気がつきました。季節と植物の名前を読み込んだ歌がとても少ないということです。逆に言うと、一年中いつでも歌える内容で、教える方はとても便利かもしれませんが、とてもおおきな忘れ物をしているようで気になりました。
 俳句にはかならず季語が必要なように、季節は言葉で感じる部分が大きいものです。和歌、短歌、俳句、歌謡、散文、日常の挨拶など、ひとが自然から感じた情感を言葉に置き換えて語り継ぐことによって、共通体験としての四季が形成されてきたのです。もちろん季節を何よりも敏感に感じさせてくれるのは木々や草花であり、それらを語り伝えるべき文芸作品に昇華する努力を私たちは怠るべきではないのです。

 細長い日本列島は、穏やかで実に豊かな季節の情趣を私たちにもたらしてくれました。季節の変化を敏感に感じ取れる風土と暮らしは、実はたいへんに贅沢な環境であることを思い出して、わが産土(うぶすな)の神々に感謝すべきときではないでしょうか。

3)芸術

 外国のひとに、日本を代表する芸術表現として紹介できるものを思い浮かべてみて下さい。お茶、お花、お香、書、浮世絵、水墨画、仏像、歌舞伎、日本舞踊、数寄屋建築・・・。いずれも木、あるいは植物系の素材を用い、それらの主題を抜きにしては語れないものばかりで、まぎれもなく日本のこころを表現してきたものです。

 さて、私が勤めております東京藝術大学は、国家の予算で運営される数少ない美術と音楽の専門大学ですが、実はこの組織のなかに、いま申し上げた芸術表現を専攻するコースがすっぽり抜け落ちているのです。このことを申しあげると、大半のひとは意外に思われることと思います。
 日本画科では、鮮やかな岩絵の具を用いた描画技法を教えますが、「墨に百彩あり」の水墨技法を体系的に教えていません。
 私が学んだ彫刻科では、仏像や能面などの古典技法を教えることはありません。大学院に、文化財修理の基礎研究として仏像の模刻をするささやかなコースが存在する程度です。
 工芸科には、漆芸、陶芸、染織、鍛金、鋳金などの専攻がありますが、これらを統合する実践思想である茶の湯については、教育研究の対象にはなっていません。
 建築科においては、数寄屋や寺社建築、造園を担ってきた素晴らしい匠たちの技術を学ぶコースはありません。
 花道、香道、書道に至っては、関連する講座すら見あたらないありさまです。これらは私が学生時代からおかしいおかしいと思ってきたことなのですが、三十年たった今も変わりません。

 日本には「芸術」ということばは、明治時代に「art」の訳語として定着するまで存在しませんでした。そのかわり師から弟子に伝える「道」という重要な人間活動がありました。近代の芸術教育は、自我の創造性を過信するあまり、この「道」をことごとく否定してしまったのです。

 もちろん伝統芸術に携わる人たちが、民間のちからで伝承し国際的な評価を得てきた逞しさを私は高く評価したいと思います。と同時に、古来より日本のこころを表現してきたこの領域を、己の中に取り込む努力を怠ってきたわが母校の歴史を憂えます。
 世は、「グローバリゼーション」だ、「世界標準」だのと喧しい限りですが、自分たちの足もとすら固めないで、一体何が出来るのでしょう?私は、「木の文化は日本のこころ」の思いを胸に、こうした分野を、わが国独自の健全なアカデミズム、ことばをかえれば「道」の復活を目指して努力したいと思っています。

4)宗教

 中国では「天」をgodと翻訳し、「神」はgodではなくspirit(霊)の一種になるそうです。私もここでは、古代の「神々(かみがみ)」をspiritとして考えてまいります。

  人とものとの関係は、その精神性に強い影響を与えます。よい石材を産する地域では石に絶対の信頼を置く文化が育ちます。土をすべての根源とする文化もあり、牧畜や狩猟が盛んな国では皮革をこよなく愛します。そして木や草花に恵まれたわが国では、身の回りのものから造形表現まで徹底的に植物素材にこだわり、それらに安らぎを覚える精神文化が育ちました。
 愉快な笑話に、ギリシアの庶民の夢は、浴槽をタイル貼りにすることだそうです。かの国は、ご存じのように大理石の文化ですから、庶民の家でも浴槽はみごとな大理石で作られているそうです。そしてたくさんのエネルギーを使って工業生産されるタイルで浴槽を覆うことは大変な贅沢なのだそうです。所変われば、価値観も逆転するわけです。

 6世紀半ばに朝鮮半島から金色に輝く仏像が初めてもたらされた時、これを異国の神として畏れを以て祭ったと日本書紀にあります。その後、仏像の背景にある世界観を学び、今まで自分たちが信仰してきた八百万の神々に活力を与える源が、宇宙の中心で輝き亘る「毘廬舎那」(すなわち東大寺の大仏)と解釈した天平びとの柔軟性を、私はとても好もしいものに感じます。また空海がもたらした密教で、この国土に営まれるすべての現象を司ってきた神々と仏教とを論理的に共存させる「神仏習合」を考えついた古人の度量にも敬服します。明治初めの狭量な神仏分離令までの千数百年間、この世界観は日本人のこころの支えであり続け、柔らかく豊かな日本文化の源泉となりました。

 宗教を問われたときに多くの日本人が「無宗教」と答えるそうです。もし今日お越しのみなさんのなかですでに特定の宗教に帰依しておいででない方がいらしたら、これからはぜひ「日本の仏教」と胸を張ってお答えになることをお奨めします。あるいは、今日は興福寺の貫首猊下がお越しになっておられるわけですが、「日本の佛教」のなかでも、「南都法相宗の唯識の教えに深く帰依しています」とお応えになると、きっと尊敬の青いまなざしで見つめられることと思います。

5)景観

 かつてドイツ国籍の友人に、「日本の街並みには歴史観がまったく欠如している」と指摘されたことがあります。私がB-29空襲の話をしたところ「破壊したのはアメリカ軍かも知れないけれど、今の街を造ったのは日本人だろう?」「わがドイツの街並みは、ヨーロッパの一地域の歴史的景観として大切に保存しなければならない。これはドイツ人の責務なんだから。」といわれ、ぐうの音も出ませんでした。
 第二次世界大戦の末期、ドイツの大都市の多くは、連合軍による爆撃と市街戦で壊滅的な打撃を受けました。歴史の都ニュールンベルグの90%は瓦礫の山と化したといいます。しかし戦後、行政と市民の地道な努力によって中世から続く街並みの復元が行われ、小さな横丁の一軒一軒を再現し、並木の一本一本までもとの樹種を植えたと聞きました。いま彼の地を訪れる観光客は、街並みが戦後に再建されたものであることに気づかずに中世ドイツの雰囲気を満喫しながら散策しています。同じように連合軍による焦土化作戦のために、わが国も東京、大阪の大都市から穏やかな地方都市までことごとく焼き払われたわけですが、戦後のわが国の無計画で野放図で安直な再建にくらべ、歴史的景観に対する愛着と責任感のあまりの違いに愕然とさせられた記憶があります。

 欧米を旅していていつも感じることは、電線と電柱が殆ど見あたらないということです。観光地の町並みだけでなく、遠い山並みにも無粋な鉄塔や電線などが視界に入りにくいように実にうまく隠してあります。これは景観も自分たちが守るべき遺産であるとの考えを徹底してきた結果だと思います。
 しかし日本では、美しい山並みに高圧電線の鉄塔が大名行列をし、地域の象徴といえる山や丘の頂きに必ずといっていいほど電波塔などが誇らしげに鎮座しています。これが、かつては山をご神体として崇め、祖霊の集まる場所として聖域視してきた民の末裔の仕業かと思うと、情けないかぎりです。
 もちろん近年は、景観に配慮した街作りが確実に増えています。観光地の再開発では、電線の埋設がようやく当然の前提として語られるようになり、河川の改修も護岸の緑化や水辺の再生が言われるようになりました。最近、旅するごとに、わたしたちの国土が、雑木と雑草に覆われた本来の自然景観に戻りつつあることを実感できることは嬉しい限りです。
 もちろん木を代表とする植物資源は、ただ生えるに任せているだけでは、健全な発展をしないわけで、常に手入れをし、産業と密接に繋げていかなければならないわけです。
 水辺の蘆は、毎年刈り取ってさまざまな生活物資に姿を変えなければ豊かな水辺は維持できません。下草刈りや間伐などの手入れを怠りなく行わなければ、健全な森林には育ちません。
 森林を守ると言うことは、森林資源を産業として活用することに他ならず、すなわち森と木の文化を守り育てていくことと表裏一体であるわけです。

6)木の文化

 私が卒業した小学校には、昭和初期の木造校舎がありました。今でも、木のにおいや感触を懐かしく思い出します。しかし、団塊世代のこどもたちが大量に就学年齢に達する二十年ほど前に鉄筋コンクリートの校舎に建て換えられてしまいました。こうした小学校の木造校舎の取り壊しは、全国規模で一斉に行なわれたようです。このことは、昭和初期の文化財とともに多くの人びとのふるさとを葬った行政の愚行として記憶されるべきでしょう。ふるさととは、ひとびとの記憶を再生する装置が残っている場所だといえます。したがって、戦後のわが国のようなスクラップアンドビルドの街作りでは、永遠にふるさとは生まれないのです。

 木で作られたものは、きわめて脆弱です。私たちが、受け継ぎ守り育てていかなければ消え去るものです。そしてそれは私たちにしかできない責務なのです。現在、「木の文化」は、日本人のこころの分野から日常生活全般に亘り消え去る寸前にあります。また「木の造形」は、技術者の保護育成にとどまらず、林業から消費者までの総合的な大計を緊急に必要としています。

 日本人が、「森林の恵み」を放棄して「石油と鉄」を資源にしたことは、20世紀後半に経済的な大繁栄を齎しましたが、同時に「日本の文化」と「日本人のこころ」を捨て去ることにもなりました。21世紀の今、私たちは「コンクリートと合成樹脂の文明」から「木の文化」へ回帰すべき時期にあると思いなす。天と地のあいだに介在した山と森の木々のたいせつな役割を思い出すことは、日本の文化と古人の知恵を取り戻すことにほかなりません。

 さてお時間も頃合いとなりましたので、お話はこの辺で終わります。今回のフォーラムを通じて、ひとりでも多くの人たちが、木の文化について真剣に考えて頂けるきっかけになることを願っています。

 私の講演は以上ですが、ここで私が企画編集しました10分ほどの映像詩をご覧頂きたいと思います。ことばは、日本に真言密教を紹介した空海、そして日本に初めて正式な坐禅を広めた道元と、西行や良寛の歌や詩です。空海や道元は、俗世と離れた山のなかに修行道場を開き、自分を見つめ、この世の本質を極める場としました。彼らの思想は、その後の日本人の死生観や自然観に決定的な影響を与えました。

 お手許のパンフレットの解説をご覧になりながら、ゆったりとした気持ちで彼らの声に耳を傾けてください。

 映像の準備ができるまで少し宣伝をさせてください。ご覧のような私の作品集やグッズ類を会場の外で販売して頂いています。この売り上げを、私の次にお話を頂く貝澤耕一先生が主宰されるNPO法人「ナショナルトラスト・チコロナイ」に寄付させて頂きたく思います。貝澤先生の活動にご賛同頂ける方は、ぜひお買い求めいただけるとありがたく思います。

 では映像詩をお楽しみ下さい。



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