日本の仏像のお顔裏話)

「広隆寺弥勒菩薩のお顔の秘密」
【広隆寺弥勒菩薩】
もっとも早く国宝にしてされた仏像として知られるこの仏像ですが、いろいろななぞがあります。むかしから論争の的になってきたのが、制作地のなぞです。この像は赤松で作られています。わが国には、広葉樹としては楠、針葉樹としてはヒノキが仏像の材料とし一般的で、赤松の作例はほとんどありません。しかし朝鮮半島には赤松が多く自生し、彫刻材や建築材として多用されますが、逆に楠やヒノキほとんどありません。

「興福寺蔵、旧山田寺仏頭」

【興福寺蔵、旧山田寺仏頭】

白鳳時代を代表する傑作ですが、きわめて数奇な運命を辿った仏さまです。

藤原氏の氏寺として、すなわち民間寺院として創建された興福寺は、藤原氏の権勢と財力を背景にかなり強引なことをやってきています。

685年(天武14)讒言により死亡した蘇我倉山田石川麻呂のために飛鳥に創建された山田寺講堂の本尊として造立。多武峰、談山神社と興福寺精力の確執

1187年、興福寺東金堂再建に伴い、同寺堂衆によて奪取される。

1411年、落雷により再建東金堂が焼失。同時に本像が罹災。

1415年、東金堂再々建時に、須弥壇下に安置。

1937年、東金堂修理の際に偶然発見される。


「飛鳥〜天平のお顔」

【聖林寺 十一面観音】

飛鳥時代の仏像は、中国の北魏の様式を踏襲しています。

白鳳時代は、唐の中期の様式です。

天平時代の仏像は、唐末期の様式です。

「秋篠寺の技芸天」

【秋篠寺の技芸天】

興福寺の阿修羅とならぶほどの人気の仏像として秋篠寺の伎芸天像があります。たいへんたおやかなお姿で、おもわず抱きしめたくなるような危うい感じが人気の秘密ではないかと思います。ところが、このお像の頭部と体部は別々の時代に作られたものであるこことをご存知の方は案外少ないかもしれません。

秋篠寺は、奈良時代に創建されたたいへん大きな寺院でした。この仏像は、最初天平時代に作られた脱活乾漆、すなわち漆と麻布をつかった張子の像として作られました。それが源平の戦乱で、東大寺や興福寺と同じ時期に焼き払われてしまったわけです。 

「唐招提寺の仏像群」

【如来形立像】

【伝獅子吼菩薩立像】
【伝薬師如来立像】
【伝衆宝王菩薩立像】

飛鳥や白鳳時代の仏師は、それぞれの豪族の所属していました。したがって各豪族が建立する寺院ごとに仏像の顔に特徴がみられます。それが天平時代になると、東大寺、西大寺、元興寺、薬師寺などのような大きな官営寺院を作る際には、造仏所といわれる仏像制作の役所が作られ、仏師はそこに所属させられてしごとをしました。したがって、この時代は、寺院ごとに仏像の特徴が現れるというよりは、東大寺にいっても、興福寺にいっても、似たような顔の仏像があちこちでみられます。同じ工人グループが、寺院の造営のたびに集められたことが伺えます。いわゆる天平様式といわれるものです。

唐招提寺には独特の一木つくりの仏像群があります。これは天平様式のイメージからかなり相違があります。それは、鑑真さんが唐から仏像ともに仏師もつれてきて制作されたためと考えられます。ごらんのように、壇像といわれる緻密な造形を細部まで彫刻しています。この流れが、平安時代初期の一木造りの木彫に引き継がれ、わが国特有の木彫による仏像へと花開いていったわけです。飛鳥から天平までは、朝鮮半島や唐の造形技法や感覚のままに制作していたのが、ようやくわが国の造形と技法を確立していく、その元となったのが唐招提寺の仏像群であったわけです。


「平安初期のお顔」

【神護寺の薬師如来】

【新薬師寺の薬師如来】
【勝常寺の薬師如来】

唐招提寺の木彫仏を作った仏師やその子孫と弟子たちは、平安京の造営にともなう寺院の仏像を担いました。天平時代の仏像は、国家を守護しくにを豊かにするための大変ポジティブなイメージで制作されました。しかし平安初期の仏像は、密室の中で僧侶と仏像が一対一の真剣勝負で行う炎の行法を通じて、怨霊を鎮めたり、超能力を示す道具として機能したわけです。

したがって平安初期の仏像のお顔は、たいへん厳しく魁夷です。現代の私たちが仏像にいだく優しさや穏やかさとは対極にあるようないかつくこわいお顔をしています。

これは山岳仏教が興隆し、密教的な超現実的な神秘的体験を重視するためにおきたものだとおもいます。


「平安末期のお顔」
【平等院 阿弥陀如来像】
【安樂壽院 阿弥陀如来座像】

【三千院 阿弥陀三尊像】

【浄瑠璃寺 中尊像】

日本人が考える仏像のイメージを作ったひとが、平安時代中期十一世紀に活躍した大仏師・定朝です。彼が制作に携わったことが確認される唯一の作例である平等院の阿弥陀如来です。ごらんのように平安時代初期の像のイメージとまったくちがいます。阿弥陀浄土への往生を願い安心立命のための仏像ですから、心こら安らげる表情がもとめられたのでしょう。


「鎌倉時代の仏像のお顔」

運慶、快慶で知られる慶派一門が創った仏像群です。

【円成寺・大日如来坐像の説明】

武士の時代、すなわち男の時代であったわけで、この時代に仏像が求められたのはもののふの美学であったと思います。ひとことでいって、現在にも通じる男前です。鎌倉イケメンホスト倶楽部

【興福寺・北円堂の弥勒仏】

【興福寺 東金堂文殊菩薩坐像】
【興福寺 金剛力士 】

お時間も迫って参りましたので、最後のテーマに入ります。私が子どもの時から敬慕してやまない奈良の大仏様のお話です。いままでは、時代や地域ごとの仏像のお顔の特徴を「大仏さまのお顔は四代目」お話しして参りましたが、この大仏さまは、創建から1250年の間の各時代の仏像様式を一身に体現しておられる点で、たいへん希有なご仏像といえます。

お時間も迫って参りましたので、最後のテーマに入ります。私が子どもの時から敬慕してやまない奈良の大仏様のお話です。いままでは、時代や地域ごとの仏像のお顔の特徴を

「大仏さまのお顔は四代目」お話しして参りましたが、この大仏さまは、創建から1250年の間の各時代の仏像様式を一身に体現しておられる点で、たいへん希有なご仏像といえます。

【東大寺大仏】

743年、聖武天皇、大仏造立の詔を発する

745年(天平14)造立開始、聖武天皇、

747年(天平19)鋳造開始

752年(天平勝宝4)大仏開眼会、行基、東大寺初代別当・良弁、開眼導師・菩提僊那

756年(天平勝宝8)聖武上皇逝去、橘奈良麻呂の反乱

758年(天平宝治2)大仏殿完成

1181年(治承4)平重衡による南都焼き討ち

1185年大仏開眼法要、後白河法皇、勧進上人・重源上人、陳和卿、

1187年(文治3)興福寺東金堂本尊として山田寺より薬師如来像を奪取

1190年再建大仏殿完成

1567年(永禄10)三好・松永の戦いで、東大寺炎上

1691年(元禄4)大仏修理完成、大勧進・公慶上人、広瀬行左衛門

1709年(宝永6)大仏殿完成

だいぶ時間が押してしまいました。桂すずめ師匠、えらいすみません。

ではそろそろ真打ちにバトンタッチすることにします。ご静聴、ありがとうございました。

(彫刻家、東京藝術大学大学院教授/文化財保存学)

2007.6.23


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