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2009.11.10.臨山会青年部「聖和会」講演

「東京藝術大学と奈良のご縁」

1)はじめに

 こんにちは。籔内佐斗司でございます。小一時間ほどお付き合いをお願い致します。どうぞお楽にお聞き下さい。
 ただ今ご紹介を頂きましたように、私は彫刻家です。寄木造りという技法で木曽檜を彫刻して、漆を塗って、その上に日本画の顔料で彩色をしています。こういう彫刻技法を使っている作家は、現代の彫刻界ではたいへん少数です。しかし、実はこうした作り方は、平安時代以来連綿と続いてきた仏像技法を基にしているわけで、わが国の彫刻家の本道を踏襲していると密かに自負しています。
 そして私がこの技法を、いつ、どうやって修得したかというと、実は仏像の修理を通じてなのであります。
 まだ二十代のなかごろでしたが、東京藝術大学大学院の文化財保存修復技術研究室というところで、約6年間仏像の修理をしていました。そのなかで一番印象に残っているのは、新薬師寺の影清地蔵といわれた六尺の大きなお地蔵さまでした。このお像につきましては、時間があればのちほど詳しくお話しさせていただきたいと思っています。

 東京藝術大学は、明治22年に創立された東京美術学校を前身としています。この学校の設立に尽力したひととして岡倉天心がいます。彼は、二代目の校長職を勤めていますが、実質的な創立者と考えてよいと思います。
 また彼は、日本美術史を作った人とも言われます。明治政府のお雇い外人教師で、美術好きであった米国人・フェノロサの通訳として、彼と一緒に京都や奈良を歩きました。フェノロサ自身は、哲学や経済学の概論を東京大学で講義しましたが、日本美術の独創性とレベルの高さに驚き、収集を始めました。また廃仏毀釈の後遺症で奈良の仏教美術の惨憺たる有様を見て、その破壊と流出の危険性や、修復の必要性を説きました。漢学と英会話に堪能であった天心は、フェノロサと行動をともにすることにより、日本美術についての認識を深め、その研究にのめり込みました。

 いま廃仏毀釈といいました。文字通り仏教を廃して釈迦像を捨てるという意味です。こうした激烈な仏教排斥運動は、朝鮮半島や中国では何度も、しかも徹底して行われました。私たち日本人は、漠然と中国も韓国も仏教の国と感じている人が多いようですが、じつは両国とも仏教は傍流であって、道教と儒教がひとびとの生活の隅々にまでしみ込んでいます。

 私の大学の文化財保存学には毎年中国や韓国からの留学生を受け入れています。そんな彼等の前で最初の講義の時に、「日本では人が死ぬと、佛教の僧侶がやって来て葬式を執り行います。」というと、みな一様に「へええ」と驚きの声をあげます。日本以外の国では葬送儀礼に僧侶が立ち会うことは極めて希だそうです。それを聞いて、日本人の学生がまた「へええ」と驚きます。あるとき、韓国の留学生と話をしていたとき、彼女がたどたどしい日本語でいった言葉に、なるほどと思ってしまいました。「仏教は生きているひとのための教えであって、死んだ人を弔っても意味がないと思います。お葬式は、子が親に示す孝養の儀式ですから儒教式でするのが私たちの国では普通ですし、死んだ後の霊魂を鎮めるのは道教(巫俗)の役目です。」私が見落としていた東アジアの思想と歴史を思い知らされた思いでした。

 日本の仏教は、それまでの八百万の神々への信仰とみごとに折り合いを付けながら1300年以上の時を刻んできました。その神仏が出会った場所が奈良でした。それがあまりにも自然に融合していたがために、日本人は仏教とそれ以外の宗教や思想との境目を意識することなく過ごして来たようです。

 九月の末に、東京の国立劇場で「東大寺修二会の声明」公演を拝見しました。二月堂のなかで繰り広げられる修法の一端を垣間見ることができたわけですが、そこではお坊さまがなんの不自然さもなく、わが国の神々の御名を読み上げておられました。

また先日は、興福寺で、中金堂の鎮壇具の埋納と手斧始めの儀式に参列させて頂きましたが、春日の神官と興福寺の僧侶が役割を分担しながら、工事の無事を祈念していた姿に、日本人の信仰のありかたのもっとも自然なかたちを見た思いがしました。

 奈良は、私たち日本人のこころの故郷であるとともに、彫刻家にとっては聖地ともいえる場所ですし、文化財保護発祥の地でもあります。

 今日は、そこら辺の事情を踏まえながら、現代のアーティストがどのように寺院と関連を持ち、お互いによき関係を築き上げているかということをみなさまにお伝えししたいと思います。

2)ほとけさまに教えて頂いた彫刻技法

 今を去ること30年ほど前ですが、私は東京芸大と大学院で6年間、いわゆる西欧風の彫刻技法を学びました。たとえばギリシアやローマの大理石彫刻やロダンの人体彫刻、ヘンリームーアなどの抽象的な彫刻を思い浮かべて頂ければはやいと思います。しかし、どうも自分自身に納得できないものがありました。大学で学んだものを基にして自分なりの彫刻表現をしようとしたとき、その概念や技法がすべて外国からの借り物を背負い込んでいるような気がして、違和感を感じてしまったのです。

 その一方で、大学を出たばかりの若者が彫刻家で生活をしていくなどもちろん至難のことでしたので、何か手を動かして生活できる道をみつけようとも考えておりました。そこで、大学院にあった保存修復技術研究室という地味で小さな研究室にもう一回入学をし直したわけです。自分が本当に納得できる彫刻技法を学び、ついでに仏像の修復技術を習得して生活の糧にしょうと、今から考えるとたいへん安易な考えだったわけですが、当時の私は真剣でした。

 そのころ、この研究室の主任教授は、西村公朝先生でした。奈良のほとけさまの大半がお世話になっている財団法人美術院の国宝修理所長を兼務しておられたわけです。残念なことに私が入学した年に研究室の組み替えがあり、私自身は先生から学生として直接ご指導を頂いたことはありませんでしたが、折に触れお話やお手紙で励まして頂いた記憶があります。

 私は、この研究室に一年間だけ学生として在籍し、あとの五年は、助手として研究室運営に携わりました。主任教授は、西村先生のあとを引き継がれた平山郁夫先生でした。したがって、私の最終学歴は、東京芸大大学院中退になっております。中退した人物が、25年後にそこで教授に採用され、今では博士号の審査までしているというたいへん名誉なというか、妙なことになっているわけであります。

 そして、お茶くみ電話番をしていた5年間に、たくさんの仏像の調査や修復をさせて頂いた経験が、その後の私の人生を決定づけました。

3)文化財の保存と修復というしごと

 さて仏像の保存修復というのは、よく医者のしごとに喩えられます。

 表面の彩色や漆塗りの層が剥落しているのを直すのは、水虫ややけどを治す皮膚科のようなものです。玉眼という水晶でできた目が外れていたりするのをもとに戻すのは眼科です。鼻先や指先が欠けてなくなっているのもよくある症例ですが、これはさしずめ整形外科になります。彩色をし直して綺麗に化粧直しをすることもありますから、美容師のようなこともします。

 木の表面が虫食いや木材不朽菌でぼろぼろになっている場合は、合成樹脂を注射器で注入して固めるような皮膚科的処置で済む場合もありますが、新しい材料で補作したりする成形外科のような処置をすることもあります。

 像全体ががたがたに緩んで、自立出来ないようなものも多く見られます。こういった場合は、もっとも重い治療である全面解体修理という大手術を行います。

 ここで、具体的な修復例をご紹介しましょう。

【新薬師寺地蔵菩薩立像修復画像】

【西念寺阿弥陀如来坐像修復画像】

 こうした修理を行うためには、仏像の材料技法や構造のほか、時代ごとの造形の特質にも熟知している必要があります。そのためのもっとも効果的な勉強方法は、精度の高い模刻制作を行うことです。模刻とはどのような作業であるかは、のちほど例をお出ししながら説明いたします。

 仏像を修復するまえには、さまざまな検診を行って、病状を把握することも大切なしごとです。

 お医者さんが患者の状態を書き込むカルテを、我々は「調書」と呼んでいます。そして寸法を測ったり構造や材質を記したり、写真撮影やX線撮影をし、目視による診断をして、治療の方針を立てていきます。

 そのほかに私どもの研究室では、3Dレーザースキャニングというデジタル技術を用いて仏像の三次元データを収得しています。CTやMRIなどの先端医療技術のもう少し簡単なものとご理解頂ければ結構です。このことによって、貴重な仏像の完全な形状を記録することができますから、今後彫刻文化財の保存修復の現場では、この3Dレーザースキャニングが、仏像調査の標準的な調査となっていくことと思います。

 私は阪神淡路大震災が起きたとき、不謹慎なことながら、最初に心配したことは京都や奈良の仏像のことでした。もしも倒壊や火災で焼失してしまったら、現状では形状を完全に復元することは不可能です。どんなにたくさんの写真や図面があっても、二次元の情報から立体を復元することはできません。しかし、3Dデジタルデータがあれば、すくなくとも形状だけは完全に復元することができますから、彫刻文化財の保護の観点からも、3Dデータの取得と集積は緊急に推進されるべきだと思っています。

 今年、興福寺の八部衆と十大弟子が東京と九州の国立博物館にお出かけになって「国宝 阿修羅展」が開催されましたが、両館で170万人とういう空前の動員を記録しました。その九州国立博物館には、わが国ではじめて文化財用のCTスキャンが導入され、阿修羅さんをはじめとする脱活乾漆像が三次元のCTデータになりました。このことによって、今後、天平時代の脱活乾漆像の研究が飛躍的に進むことになると思います。

 また、すこし余談になりますが、デジタルデータはモニター上でどのような加工も、また様々な表現も可能にします。いろんなイベントや美術館・博物館、また寺院での活用もまだ緒に就いたばかりで、無限の可能性を秘めていると言っていいでしょう。

 だいぶ話がそれてしまいましたが、このような、わが国の文化財修復の発祥の地は奈良県であります。明治39年、東大寺の勧学院という建物に、岡倉天心の薫陶を受けた新納忠之助らに率いられた美術院第二部が事務所を設置して三月堂の仏像の修復をはじめたのが発祥なわけであります。彼らの修復理念は、作られた当時を尊重し、現状を大きく変更しないという現在の大原則を世界に先駆けて打ち出した近代の文化財保護理念の先駆的なものでありました。

 現在、財団法人美術院は京都国立博物館の中にある国宝修理所で、重文以上の仏像や大型の工芸品の修理を行ってきましたが、数年前には、奈良国立博物館のなかにも立派な修理施設がつくられて、そこでも修復作業を行っています。

 なお西村公朝先生以来、南大門の仁王さまの修理を率いられた小野寺久幸先生や、現所長の藤本青一先生も、私どもの研究室の客員教授としてご指導を頂いていますし、卒業生の何人かは美術院職員として作業に従事しています。

4)東京芸大の文化財保存学とは

 さて大学には、医者を養成したり基礎医学を研究する医学部があるように、東京藝術大学の大学院には文化財保存学という文化財の医学部があります。これは、先ほど申しあげた、わが国の文化財保護の先駆者であった岡倉天心が、東京芸大の前進である東京美術学校の創立者であったことに由来していると思います。日本画の団体展である「院展」を主催する「財団法人日本美術院」と、仏像修復の「財団法人美術院」とは、天心が創立した「日本美術院」をルーツとする兄弟の関係にあるわけです。こうして考えていきますと、岡倉天心という人物は本当に偉大であったと思います。

東京藝術大学大学院文化財保存学の学生たち)

私が担当する大学院の学生が取り組む研究は、古い仏象の材料と技法、および造形です。その方法は、できるだけ本物と同じ材料と技法で、同じ形を再現することです。長い年月による経年変化の古色や朽損も含めて再現することは、現状模刻。造られた当時を想定して、彩色や仕上げを再現することを復元模刻といいます。

具体的には、実際の学生達の研究を紹介しながら説明していきましょう。

円成寺「大日如来坐像」/藤曲隆哉

 この像を研究している藤曲隆哉くんは、武蔵野美術大学の彫刻科を卒業したあと、私たちの研究室にやって来ました。大学時代は木彫をほとんどしたことがなかったといい、廃車になった自動車の部品を組み合わせて作品を作っていたという変わり種です。しかし、模刻作業を通じて、木彫道具の面白さに目覚め、今では日本の木工道具の研究にはまっています。

 彼が修士課程のころから取り組んでいる円成寺の大日如来坐像は、本書でも触れたように平安時代の最末期に、運慶が初めてその名を記した記念碑的作例で、一般に運慶のデビュー作と言われています。運慶の生まれた年がはっきりしないために正確ではありませんが、25歳頃ではないかと言われています。

 後の運慶の技法上の特徴がよく顕れています。また生命力溢れるはち切れんばかりの顔立ちは、晩年までの彼の特徴であります。

 藤曲くんがこの作品を研究していた修士課程2年生の時には、円成寺のご住職のご好意で境内の建物に泊まり込んで制作をさせて頂くという僥倖に恵まれました。

 彼の模刻像は、台座光背を復元したのち、現在の多宝塔に安置したいと、ご住職からご希望がでています。

秋篠寺「乾漆仏心木」/菊池敏正

 本書でも書いていますが、天平時代に一世を風靡した仏象技法が乾漆造です。乾漆とは明治時代から使われるようになった工芸用語で、当時は○(そく、土偏に塞)と表記されました。

鑑真和上がおられた揚子江流域には、高貴なひとの「真身像」という死体の保存方法があったということです。うるしで塗り固めたミイラのようなものですが、これが脱活乾漆技法の源流ではないかと考える人もいます。鑑真和上さんや随行の僧侶達も、こうした遺体の保存方法を知っていて、現在の和上像制作のヒントになったのではないかと思われます。

菊池くんは、修士課程において興福寺迦楼羅像の現状模刻を行い、博士課程では、秋篠寺の脱活乾漆像の心木を研究しました。残された乾漆断片から推測して、失われてしまった菩薩像を復元するという研究を行い、博士号の学位を取得し、現在は東京大学大学院総合研究博物館に勤務しています。

興福寺「天燈鬼・竜燈鬼」/益田芳樹

 現在研究室の講師として後進の指導に当たっている益田芳樹くんは、修士課程で興福寺の竜燈鬼を模刻研究し、博士課程ではその像の復元彩色に取り組むとともに、天燈鬼の特異な構造に着目し、鎌倉時代初期に集中して現れる「胴継ぎ構造」の研究をして、学位を取得しました。当然のことながら、研究にあたっては、興福寺さまの特段のご理解を頂いたことはいうまでもありません。彼の研究によって、この時期に集中して見られる「胴継ぎ構造」をみごとに再現し、慶派仏師の自由闊達な制作技法の一端が解明されました。とくに、天燈鬼像の当初の寄木構造については、いままでの美術史の通説に変更を加えることになりました。

東大寺俊乗堂「阿弥陀如来立像」/吉水快聞)、

 現在博士過程で、東大寺俊乗堂の快慶作の阿弥陀如来立像の研究をしている吉水快聞くんは、実家が奈良の浄土宗のお寺です。2008年、長野・善光寺で新しく確認された阿弥陀如来立像が快慶の様式を持っていることがわかり、今私たちの研究室で、その像の全面解体修理をしていますが、彼がその主任となって、模刻研究と並行して、快慶様式の造形と技法の研究を行っています。快慶様式を材料と構造技法という新しい視点で捉え直していることは、とても意義があるといえましょう。善光寺さまと東大寺さまの特段のご理解のもとに、古い仏像の修復と、模刻制作の両方を同時に行えるということは、たいへん有意義な研究の機会であるといえましょう。

高野山金剛峯寺霊宝館「矜羯羅童子像」/黒柳奈未子

 高野山金剛峯寺にある不動明王の眷属である八大童子は、運慶が制作したと思われる大変すばらしい像です。とても大切にされてきたため、保存状態もよく、そのことが逆にこの群像の修復の機会がありませんでした。したがって胎内の納入品の調査などが行われていないので、運慶の作であることはまだ確認されていませんが、エックス線調査で納入品の存在が確認されており、またそのすぐれた造形は、運慶作である可能性を十分に感じさせます。

 博士課程に在籍する黒柳奈未子さんは、学生時代に展覧会で見た矜羯羅童子に魅了され、この像を模刻したい一心で私たちの研究室に進みました。その熱意は、高野山のみなさまにも届いたようで、ひと夏、お山の宿坊に泊まらせていただきながら毎日のように霊宝館に通い、素晴らしい素木の模刻像を完成させました。現在は博士課程において、彩色の研究と、もう一体の制多迦童子にも挑戦しようとしています。

興福寺「乾闥婆像」/小沼祥子

 2009年の仏像界の最大の話題は、「国宝阿修羅展」でした。門外不出といわれた興福寺の阿修羅をはじめとする八部衆と十大弟子が東京国立博物館と九州国立博物館にお出かけになり、両館合わせて170万人という入場者数を記録しました。これは社会現象といえるような事件でした。彼女は、乾闥婆のおっかけとして、太宰府に2ヶ月泊まり込んで、毎日九州国立博物館に通い詰めて、なかなか迫真の脱乾漆像を完成させつつあります。これは夏休み期間中に太宰亜府の下宿先で撮影された者ですが、現在はもっと作業が進んでいます。

 このような若い学生達が、古いご仏像の模刻制作をするということは、複製品を作ることが一番の目的ではありません。いにしえの仏像技法と時代の造形力という無形文化財を現代に蘇らせ、未来に継承していくことが最大の目的である私は考えています。そして、受け継いだ無形の文化を、現代に、また未来のどのように活用していくかは、彼らだけでなく社会全体の責務であると思います。

7)さいごに

 歴史を振り返ればすぐにわかることですが、アーティストは、いつの世にも時代に鍛えられ育くまれるものです。また彼らは、その創造力でもって、社会にご恩返しをするのです。そして、その積み重ねが、文化の継承と創造にも繋がっていくことを確信しています。これは、私が仏像の保存修復事業にたずさわっていた二十代の頃からの思いでもあります。

 本日、臨山会青年部のみなさまの前でお話しさせて頂ける機会をえたことを、たいへん光栄 なことと思っています。そして、私たちの研究室でも、現代の若者達が、古いご仏象を通じて、仏教に気付いていることを、どうぞご記憶に留めておいていただきたいと思っています。

 本日はご静聴ありがとうございました。

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