5)私がお寺にさせていただいたこと

 では彫刻家としての私が、寺院にどのような働きかけをしてきたかと言うことをお話させて頂きます。

青松寺プロジェクト)

東京港区の愛宕山といえば、かつては鉄道唱歌にも歌われた景勝の地として有名でした。青松寺はその東南の丘陵にあります。その広大な敷地では10年ほど前に、お寺・港区・森ビルの三者共同で「愛宕地区再開発プロジェクト」が行われ、2002年、四十数階建ての超高層ビルが二棟とともに豪壮な七堂伽藍が姿を現しました。

 このお寺は、もとは幕府お膝元に位置する永平寺直系の専門道場としてたくさんの修行僧を抱えていた曹洞宗の名刹です。また駒沢大学は、このお寺の修行道場をはじめ、曹洞宗系のいくつかの道場が統合されて設立されたとか。しかし残念なことに、関東大震災で伽藍の大半が崩壊してしまいました。本堂は、昭和の初めに鉄筋コンクリートの耐震建築として再建されましたが、専門道場の機能はながらく停止したままでした。しかし行住坐臥すべてが修行である禅宗寺院にとって、僧堂の復活は歴代ご住職の悲願であったと聞きます。さきほどの二棟の超高層ビルの敷地は、僧堂の復活と維持運営のために、百年の大計をもって再開発事業に提供されたものでした。

 十五年ほど前、老朽化した本堂の大改修工事のときに、当時の方丈さまが、「禅寺に釈迦の弟子である十六羅漢像がないのは寂しい。この改修を機にぜひお像を請来したい。」とお考えになっていました。たまたま私の「釈迦十大弟子」の作品を展覧会でご覧になって、「この男にやらせてみよう。」とお考えになったということでした。仏師としての実績などほとんどない若い彫刻家の大抜擢でした。

 その後、わずか十ヶ月の制作期間に私と工房のスタッフが総力を挙げて取り組んだ十六羅漢像は、現在、青松寺の山門楼上に安置されています。

「十六羅漢」
そしてこの十六羅漢像がご縁となり、青松寺境内周辺の一大再開発事業にふたたびお声を掛けて頂きました。新装なった開山堂に「ご開山」と「道元禅師」「塋山(けいざん)禅師」の三高祖像をお納めし、
三祖師像
「ご開山」と「道元禅師」「塋山(けいざん)禅師」
大きな山門に総高三メートルを越す木彫の四天王像をお納めし、そして港区と青松寺との協定公園内に、たくさんのブロンズ作品を設置いたしました。このお寺には、およそ40点の私の作品が収蔵されており、私にとってはたいへんありがたい存在です。伽藍復興が成就した青松寺では、「仏教ルネッサンス塾」という活動をはじめ、在家者に対するたいへん活発な活動が始まっています。

 このしごとを通じて、私の工房の若者たちも大きく成長しました。そして彼らが、現実の宗教施設に働くひとびとと身近に接することによって、宗教の意味や現代における意義を学んでくれたことと思います。宗教施設に奉仕することで、信仰とまではいかないまでも、社会的責任感や使命感を持ってしごとをすることの大切さを身を持って体験してくれたようでした。

大仏開眼1250年奉賛 籔内佐斗司 in 東大寺展)
「大仏開眼1250年奉賛 
  籔内佐斗司 in 東大寺ー太陽と華と」展
2002年5月8日
「こぼすなさま」
「縁結び童子」
「十六羅漢像」
虚空蔵菩薩

2002年に奈良の東大寺で「大仏開眼1250年奉賛 籔内佐斗司 in 東大寺」という展覧会をさせて頂きました。南大門のすぐ横に、かつて東大寺学園という付属高校の体育館であった「金鐘会館」という建物があります。普段はお寺でさまざまな集まりにお使いの所ですが、そこを展覧会場にいたしました。私は、3歳のころに大仏さまの柱の穴をくぐって以来のご縁とともに、奈良の寺々から授かったさまざまなご恩に感謝する気持ちを、奉納展覧会というかたちで表現させて頂きました。当時の管長さまであった橋本聖園長老をはじめ山内のお坊さまや職員のみなさまにもとても喜んで頂き、たいへん気持ちのいいかたちで奉納することができました。今もお寺をお訪ねするたびに、あの展覧会のことが話題に出て、ほんとうにいいご縁を頂戴し、ありがたいことだったと感謝しています。

籔内佐斗司 in 醍醐寺展)
醍醐寺展
2005年3月19日
境内にて【縁結び童子】
「奥に虚空蔵菩薩・お祈りの童子、童女・大自在天」
「虚空蔵菩薩」

 2005年の5月には、京都伏見の醍醐寺の霊宝館ギャラリーとその周辺で春の宝物公開にあわせ、私の奉納の個展をさせて頂きました。櫻が咲き誇る境内で、思う存分私の作品を展示して、みなさまにご覧頂くことができました。

羯磨会)

羯磨会-護国寺
2005年3月29日

「ライトアップされた天道童子」
桂昌殿正面ホール
桂昌殿内でのコンサートの模様

羯磨会-清水寺
2005年3月29日

初春の清水寺
洗心堂での「羯摩会」
圓通殿

 この他に、ピアニストとのコラボレーションとして演奏と私の作品、および映像による奉納演奏会を開催しています。ピアニストは近現代のピアノ曲を得意とされる堀江真理子さんで、私が監修した映像詩とともに奉納するイベントで、これを「羯磨会」とよんで、今までに三回開催しています。

6)宗教と芸術

 かつて宗教と芸術は、不即不離の関係にありました。宗教なくしては絵画も彫刻もその主題を得ることはできませんでした。またそうした宗教的美術の存在なくしては、宗教活動そのものも成り立たなかったのです。これは音楽や建築、そのほかの工芸すべてにいえることです。
ノートルダム寺院
ランス大聖堂正面扉口上部切妻

しかし、ヨーロッパで近代が始まった頃から、芸術は宗教、特にキリスト教から独立し、純粋芸術としてそれだけで完結することを求められるようになりました。西欧において、キリスト教的世界観から脱却して、人間中心の世界観を築き上げることはそれなりに必然性があり、その結果、世界を制覇するほどに強力な勢力となったことは事実です。そして、それ以後の芸術の発展ぶりも確かに目を見張るものがあります。

 しかし20世紀の後半から、その西欧諸国において、人間中心主義の世界観に対する強い反省が起こってきたのはご存じの通りです。人類だけの幸福を追求すると、結果的には人類そのものが滅びてしまうということが、はっきりと見えてきたからでしょう。

 さて私たちの国では如何でしょう。わが国の信仰は、「山川草木、悉有仏性」という生命観と神仏習合という西欧とは異なる宗教形態を持って千数百年の歴史を刻み、そしてわが国の芸術家は、そうした世界観を表現し続けてきました。仏像や仏画だけではありません。茶の湯やすべての芸道と、それに使われる工芸品や建造物も、やはり日本人の精神世界を具体化するために表現してきたといえます。
茶道
華道
数寄屋建築
わが国では、信仰と芸術、すなわちこころとかたちが分けられることなく19世紀半ばまで続いてきました。
熊野本宮大社
熊野古道
火祭り

 しかし、この事情が大きく変わったのは明治維新と、もの一辺倒の価値観が決定づけられたのが1945年の敗戦だったと思います。明治維新で神仏習合の概念が崩壊し仏教が弱体化し、敗戦で国家神道とともに祖先と産土神への畏敬の気持ちが崩れ去ったのです。

そしてその後は、こころの尺度を失い、ものの尺度だけを持ったいびつな社会ができあがってしまいました。

スモッグに覆われた工場地帯

 しかし、今、状況が変わりつつあります。1945年以後続いてきたアメリカ一辺倒の文明の受容ではなく、わが国本来の文化と精神世界を再構築しようという動きがあらゆるところで見られるようになりました。この動きは、一部の政治家が煽動しておこるような狭量な民族主義や国粋主義ではなく、もっと大きな規模と視野を持ったうねりのように思います。

 近代工業化の道を邁進してきた百数十年の間、経済発展と引き替えに、わが国の国土とひとびとのこころの荒廃は行き着くところまで行ってしまった感があります。そしてわが国は今、こころの再生に向け大きく梶を切りつつあると思います。そして、ものとこころの調和が取れた社会を再構築しようとするとき、わが国本来の歴史的景観と風土が重要な意味をもってくるように思います。

 信州は、善光寺参りのほかにも山岳信仰など神々のさきわう土地であり、古くから仏教や神々の信仰が栄えた地でもあります。
信州の風景
善光寺

まさに私たちのこころの故郷といえる場所なのです。わが国の未来を展望するとき、信州の景観は、ここに住んでおられるひとびとが感じる以上に、重要になってくると思います。

 私どもの研究室の学生は、毎年各地の仏像の模刻を行っています。その主な作業場は、東京上野公園にある芸大の研究室を使用するわけですが、先ほどお話致しましたように、夏休みや連休などには、たとえば奈良市内に作品を持ち込んで一生懸命制作に励んでいます。しかし彼らの宿舎や作業場を探すのにいつもたいへん苦労しているのが現状です。今年は、奈良市の円成寺さまの特段のお計らいを頂き、お寺の庫裏に寝泊まりさせて頂きながらしごとをすることができましたが、毎年そういうわけにもいきません。昨年の女子学生は、駅前のホテルに泊まり込んで、奈良博通いをして何週間も頑張りました。そして、彼女にとって青春のとてもいい経験になったことでしょう。

 こうした経験が、若いアーティストの県内への定着の促進に繋がっていくことは、大いに考えられることです。仏像の模刻や修復だけに留まらず、様々な専攻分野の将来のアーティスト達が、この町に住んで様々な活動を繰り広げることは、地方の活性化に大いに寄与することと思います。かつてパリやロンドンやニューヨークがそうであったように、また今のベルリンや北京がそうであるように、アーティストが暮らしやすい街は必ず活き活きしてきます。外国のことばかり言いましたが、かつて源平の戦で奈良が灰燼に帰したあと、奈良の街を再生させたのは、慶派と呼ばれた清新なアーティスト集団であったことを思い出して下さい。

長野はむかしから、碌山はじめ多くのアーティストを生み、また育ててきました。そして彼らの遺産が今も多くの観光客を呼んでいることを。

 長野が今よりもっと活性化するために、若い才能にぜひ機会を与えてほしいと思います。そのようなお手伝いでしたら、私はできるかぎりのことをさせて頂こうと思っています。

 今年の夏に東北へ短い旅をしました。そのおりに、福島県の会津地方に立ち寄りまして、慧日寺跡と湯川村の勝常寺を訪ねてまいりました。

 ご存じのことと思いますが、この土地と奈良は1200年以上前にたいへん深い関係にありました。南都法相宗の学僧・徳一がみちのくのこの地でたくさんの大寺院を建立し、第二の奈良を現出していたのです。時あたかも平安京に遷都され、南都仏教が最澄や空海の新仏教におびやかされそうな時代に、徳一の壮図は行われたのです。おそらく藤原氏によってみちのくの鉱物資源と蝦夷地開発の前線基地の意味合いがあったものと考えられますが、おそらく天平時代に造寺造仏を担った優れた工人たちの後裔を率いての大事業であったろうと思われます。一面に拡がる田園地帯にたたずむ勝常寺には、平安初期の堂々たる国宝の薬師如来と重文の仏像が安置されています。これらは、材質こそ欅で作られていますが、その造形力は奈良に持ってきてもまったく遜色のないみごとなお像で、南都の工人たちが作ったことを充分に感じさせる傑作です。
勝常寺・薬師如来坐像
勝常寺・月光菩薩立像

 その後、仏都会津は永らく栄えますが、戦国の動乱で徐々にその伽藍を焼失していき、明治初年の廃仏毀釈によって徹底的に破壊されて、徳一の業績とともに歴史の彼方に埋もれてしまいました。このあたりは、奈良の寺々と共通した歴史を有しています。

 今、会津の慧日寺遺跡は、復元事業が行われています。本堂の立柱式には、南都の法相宗を代表して興福寺の多川貫首もご臨席になったと聞いています。
慧日寺跡全景
徳一菩薩像
徳一廟

7)さいごに

 歴史を振り返ればすぐにわかることですが、アーティストは、いつの世にも時代に鍛えられ育てられるものです。また彼らは、その創造力でもって、社会にご恩返しをするのです。またその積み重ねが、文化の継承と創造にも繋がっていることを実感しています。これは、仏像の保存修復事業にたずさわっていた二十代の頃からの思いでもあります。

 ここ善光寺さまも、長い歴史を有し、善光寺参りは神社仏閣の参詣の代表的なものでありました。これからも、あらたなる庶民の信仰のよりどころとしてさまざまな行事や催しが、有能なアーティストを上手く起用されて開催されますことを祈念して、私のお話を終わらせていただきたいと存じます。

 ご静聴、ありがとうございました。



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