羯摩のマンダラ
〜その意味するところ〜
福田亮成
真言宗智山派智山伝法院院長
大正大学教授
摩尼山成就院住職
1.
 “そこに仏陀はおられる”という観念は、歴史上の仏陀が入滅されてより、仏教信仰のなかでたえず想念されてきたことではなかったろうか。当初は仏陀をあらわすものとして、悟りの座をあらわす菩提樹とその前の椅子、あるいは遊行中の説法をあらわす法輪、足跡石などによったものでありました。やがて紀元後一世紀(むろん一説であるが)頃にいたってガンダーラ地方におきまして仏陀の人間像をもって表現する為の方法が出現しました。そして、相前後してマトゥ−ラ地方にも仏像が登場しました。
 私の机上にはガンダ−ラ仏の小さな石膏製の仏頭がおいてあります。そしていつも感ずることなんですが、ガンダーラ仏は、確かに知的な静寂さが表現されていると思いますが、深い禅定の中からたちのぼってきた慈愛に満ちた寂静さは実現するにいたっていないように思えてなりません。一度、マトゥーラ地方に旅をしたことがあります。その博物館に多くの仏像を観察することができましたが、その感を一層強くしました。
 その後の仏教信仰の流れの中で、仏陀を表現する方法が開発され、大乗仏教、密教の教義の展開に呼応してインド、チベット、中国、東南アジア、朝鮮、日本におきまして膨大な仏像群と種々なる表現のための方法が試みられてきました。

「仏頭」ガンダーラ期2世紀
 私は学生の時代から仏像遍歴をくりかえしておりますが、なかなか思うようにはいきません。なかでも、神護寺の薬師如来像、東寺講堂の諸尊像、聖林寺や観音寺の十一面観音像のすばらしさに圧倒されてしまいます。
 それは聖なるものにたいする憧憬と畏怖とが同居しているとでも云ったらよいのでしょうか。それらすべては木造のはずですが、その材質の領域をはるかにこえて、石でもなく、金属でもない、何か生命を感ずるような得体の知れないものに変容してしまっているように感じられるのです。

2.
 弘法大師空海(774〜835)は、入唐の成果を『御請来目録』として報告いたしましたが、その中の特にマンダラ図のリストの直後に、次のようにコメントしております。

 法は本より言なけれども、言にあらざれは顕われず。真如は色を絶すれども、色を侍ってすなわち悟る。・・・・密蔵深玄にして翰墨に載せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示す。種々の威儀、種々の印契、大悲より出でて一覩に成仏す。経疏に秘略にしてこれを図像に載せたり。
(仏法というものは言葉によって表現することはできませんが、言葉によってしかあらわすことができません。真実というものは、存在の領域をこえておりますが、その存在を通してのみ悟ることも可能なのであります。よって密教の深玄さは、ふでとすみ、即ち文字によってあらわすことができないから、図画にたくして開示するのであります。諸仏菩薩のアクション、ムドラ(印)などは、大慈悲心の発露であります。それらにふれることによってこそ成仏することになるのであります。よって、経論には秘密なるものを略述して、その真実なるものを図像で表現するのであります)

と述べておられます。このことは、弘法大師の師であります唐僧恵果和尚の「真言秘蔵は経疏に隠密にして、図画を仮らざれば相伝すること能わず。」とあるのを受けたものでありましょう。そして実際に、供奉丹青、李真等の十余人によって胎蔵金剛界等大曼荼羅等一十鋪の図絵、二十余の経生(写経生)によって金剛頂等の最上乗密蔵の経の書写、供奉鋳博士(揚忠信)趙呉らによって道具一十五事の造がなされ、付託され、日本に請来されました。

3.
 さて、『即身成仏義』という著作におきまして、マンダラには四種の表現様式があると述べております。すなわち、
1、 大マンダラ/十一の仏菩薩の相好の身、その形像を綵画したもの。
2、 サマヤマンダラ/所持の慓幟、刀剣、輪宝、金剛、蓮華等の類、その像を画したもの。
3、 法マンダラ/本尊の種子真言、その種の字を各々の本位に書いたもの。
4、 カツママンダラ/諸仏菩薩等の威儀事業、鋳、捏等のもの。
がそれです。
 これは、表現様式を整理したものでありますが、そのマンダラの本体とは、諸仏菩薩と、それらが担っている法、真実ということにほかなりません。
 『即身成仏義』によりますと、この四種のマンダラは、〈六大〉を体大とし、マンダラを相大とし、三密(仏の身、口、意の活動)を用大とする三大説が祥細に述べられております。いうところの〈六大〉とは、「五大と及び識大となり」と定規されております。五大は身を、識大は心を指しているわけですから、直接的には私達人間の全存在ということでしょう。それをあえて〈六大〉というごとき、存在の構成要素とも受け取られかねない言語を創案して、仏と私達との平等平等なる世界をあらわしているのであります。大乗仏教のたとえば華厳経の思想におきまして、遍満と平等との論理は徹底して論じられてきました。弘法大師は、そのと遍満と平等との論理に具体相を注入し、仏と私達との平等平等なる世界を現出したのであります。その現出された相こそマンダラにほかなりません。
 マンダラとは真実なるものの慓幟であります。その相は単に図絵されたもののみをさすのではありません。先述のカツママンダラ的表現の媒体として、諸仏菩薩の種々の威儀事業とか、鋳、捏等、即ち鋳とは鋳造、金属を溶かして鋳型に流し込んで造られた像。捏とは土などをこねて造る像ということでありましょう。むろん、木材を彫刻して像として造形することも、仏の種々の威儀事業の表現にほかなりません。いうならば、〈六大〉によって一切の仏、一切の衆生、器界(人の住む世界)等の四種法身、三種世間(仏と衆生と自然なる世界)を造すと、あるいは生ずとありますことは、〈六大〉によってすべての存在がくくられている、あるいは〈六大〉が存在の全てに遍満している、ということでありましょう。むろんのこと、「能所の二生ありといえども、すべて能所を絶せり。法爾の道理に何の造作かあらん。能所等の名はみなこれ密号なり。」即ち、生ずるもの、生ぜられるもの、という関係は、真実なるもののありかたにおいて本来なりたたないものであります。ということでありましょう。

4.
 東寺講堂内の框に腰かけて、諸尊の中に沈思しておりますと、諸尊の中に自分が変容し、諸尊も変容して、諸尊も自分も均一化した、ある世界に合一していく観を持ってしまうことがあります。東寺講堂内の諸尊達は、木刻像でありつつ、単に木であるということをこえて、あるものに変容してしまっていると感じられるのは私だけのものなのでしょうか。〈六大〉とは、五大と及び識大であるとの実存は、諸尊たちを私自身をもすべてを包含してしまっております。すばらしく拡大な世界、その世界は深い禅定に通ずる、そのような境界がよこたわっているようにみえるのです。すべての存在には、識大、即ち生命というものの本体が遍満しているということが、客観的事実として表明されているはずです。日本仏教におきまして、草木成仏ということがいわれますが、それは観念的なものではなく、現実のものであるはずです。よって、諸尊と自己、そして人びとの生きざま、それを羯摩のマンダラと云ってよいかと思います。

『不動明王』
教王護国寺(東寺)

『降三世明王』
教王護国寺(東寺)
福田亮成(ふくだりょうせい)
真言宗智山派摩尼山成就院住職

1937年、東京に生まれる。東洋大学文学部仏教学科卒業。
現在 大正大学人間学部教授、智山伝法院院長、文学博士、真言宗智山派摩尼山成就院住職
著書 「理趣経の研究」「弘法大師の教えと生涯」「現代語訳般若心経秘鍵」
「解説舎利和讃」「曼荼羅入門」「現代語訳即身成仏義」「空海思想の探究」「空海要語辞典 全5巻(3,4,5巻未刊)」他

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