木をいけるということ
池坊由紀/華道家、池坊次期家元

 歌舞伎に女形がいる。あたり前のことだが女らしい。女性よりも女らしいという人さえいる。(>_<) それは彼らが女性の声の出し方、立居振舞、表情、ニュアンス等を一つ一つ学んで身につけているという表面的な部分はもちろんのこと、女性とは一体何なのかという本質を理解しようと絶え間ない努力を日々払い続けているからにちがいない。そうでなければ目に見えるところだけをつくっても観客をあんな錯覚に陥れることはできない。
 さて、いけばなも同様のことがいえる。私たち花人は、季節の訪れと共に梅をいけ、桃をいける。古来いけばなには型がありそのいずれかの型にあてはめていけるわけだが、たとえば、梅の生花(しょうか)をいけるとしよう。真副体やら水際やら、いくつもの約束
事を守りようやく生花の形にできあがったといって、これで梅がいけられたというわけにはいかない。これは単に生花の形としてよくできているだけであって、その形になるのはもちろんのこと、そのうえでどれだけ梅らしくいかすことができるか、梅らしくいけられるかが本当のいけばななのだ。きちんと型通りいけるのはいけばなの完成というより出発点なのかもしれない。
 梅をいけたら梅であるのはあたり前だがそれは木から切ってきた梅であったり花屋さんで買った梅にしかすぎない。いわば自然の梅である。自然の梅をそのまま花器に入れ、梅をいけたといって満足するのではなく、梅の本質を知りしかもそれを型という制約の中でいけ手の技量と感性で表現していく。---そしてようやくいけばなになる。
 中国では梅をみる時、次のような点に価値を於いたという。
    稀を貴とし繁を貴とせず
    老を貴とし嫩を貴とせず
    痩を貴とし肥を貴とせず
    蕾を貴とし開を貴とせず
 梅は、身体で春を実感するにはまだ早い、厳しい寒気の中で咲く花である。
ひな祭りに飾られ、実際そのイメージ通りの甘くやわらかな枝つきの桃とは違い、枝も堅くごつごつしている。その荒々しい男性的な古い枝と細く青々しいずばえ(新枝)の対比が一層の凛々しさをかもし出す。私たちは先人の美意識や哲学の結集ともいえる型の素晴
らしさに甘えることなくどれだけその梅らしさを捉え表現できていることだろうか。
 木は生きている。梅は梅のごとく、桃は桃のごとく。そしてまたいける私たち人間も共に生きている。その人の生きてきた日々の積み重ねと思いを全部背負込んでその人でなければできないだろう歩みをすすめている。この世に沢山ある植物の中でその選びとった木をもっともその木らしく、そしてこの世に星降るごとくいる人の中で、その人でなければできないようなやり方でもっともその人らしくいけることはなによりも難しい。
池坊由紀(いけのぼうゆき)
華道家

華道家元45世・池坊専永氏の長女として京都に生まれる。
次期家元として、国内外の出張を始め、全国各地の本部展などへの出瓶など精力的に活動を行っている。
1992年より3年間をシンガポールで過ごし、その期間に、池坊シンガポール支部設立に協力するなど、
日本はもとより海外でのいけばな振興のためにも全力を注いでいる。

著書;「幸福の瞬間――池坊に生まれて」(朝日出版社),「秘すれば花」(財団法人通商産業調査会),「花の季」(主婦の友社)
(池坊オフィシャルサイト)

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