沈香・・・熱帯多雨林のつぶやき
畑 正高/ 香老舗松栄堂社長

 丁子・桂皮・安息・龍脳・麝香・貝香・白檀・沈香・鬱金・大茴香・唐木香・・・羅列されたこの難解な文字群は、すべて、古代から知られている香の原料の名称です。興味深いことに、今日もまったく同じものが使用されています。温暖でマイルドな気候に恵まれたわが国では、そのほとんどを採集することは不可能です。中国の南部や東南アジア諸国からわが国に運ばれてきてはじめて、私たちはその恩恵に浴することが可能となります。
そして、品質のよい原料を入手し無駄なくその特質を生かすように配合することによって、奥行きの深い香りを楽しむことが始まります。一方、四季の変化にメリハリがあり季節感に対する工夫を自ずと必要としたわが国でこそ、香りが彩る暮らしの趣が深く理解され、ふくよかな香の文化が発達したとも考えられています。
 多くの香料の中でも、沈香という木質系の香りは特に日本人の感性に合致し、歴史を通じて珍重されてきました。平安時代末期から鎌倉・室町時代を通じ、禅宗の伝来や唐物貿易の隆盛の中、沈香は、感性豊かな人々の注目を集めることとなりました。前述のさまざまな香料との配合とは別に、沈香そのものを直接加熱し、その幽玄な香りを楽しむことが流行します。そのことによって、たくさんに舶載されてくる個々の木塊が総て個性を有し、ひとたび使い切ってしまった塊とまったく同じ香りを他に求めることは不可能で、二度と出会うことができないという不思議な存在感が知られることとなりました。この発見から木塊の蒐集が進み、その識別や鑑定などがなされることとなりました。婆娑羅大名として名を残す佐々木道誉の蒐集、東山時代に活躍した三条西実隆や志野宗信による六十一種名香の選定、信長や家康の香木に対する逸話、寛永文化サロンの作名香など、沈香に対する人々の営みは、実に彩り豊かな歴史を育むこととなりました。
 沈香は、水に沈むほどの比重の重さと加熱することによって立ちのぼる濃厚な芳香によってその名前を与えられ、有名な伽羅もその分類上の名称のひとつとして知られています。  沈香の生成については、今もその詳細は解明されていません。東南アジアを広く覆う熱帯多雨林の密林の中で、何らかのきっかけによって特定の樹木が樹脂の沈着を始めます。年輪のない一見柔らかな木質部分が腐朽し土壌と化していく過程で、芳香豊かな樹脂の沈着した部位が硬く茶褐色な色を伴って取り残されてくるのです。
 いかなる香木であってもその香りに出会ったとき、私はさまざまな印象をコメントしてきました。自分で刃物を入れ木質の性格を味わいながら注意深く加熱しその香りの特質に接したとき、自分の想像をはるかに超える豊かな香りの存在に度々圧倒されてきました。実に不思議な計り知れない個性の存在を知ることによって、昨今教えられた新たな発見があります。それは、完全に天然である香木の香りに接したとき、私の発するいかなるコメントも判断もすべて私の経験値の中での判断でしかないという限界です。


樹脂を沈着する沈香の木

私の経験値とは何なのか。どれだけのものなのか。香木の存在は完璧に大自然の営みをつかさどる神のなせる業であって、私の存在などまったく意に介していないのです。私の存在を完全に超越した世界から届けられた神秘のメッセージだったのです。このことから教えられた私の新たな楽しみは、あらゆる香木の存在に接したとき、私の物指に新しい目盛りを確実に刻み、自分自身の経験値の成長を見守ることとなりました。熱帯多雨林のつぶやきだったのです。



畑正高(はたまさたか)
香老舗松栄堂社長

昭和29年 京都生まれ。
同志社大学商学部卒業後、語学研修のため一年間渡英。
翌年、香老舗 松栄堂に入社。
平成10年、同社代表取締役社長に就任する。社業に加え、地元京都での経済活動や環境省「かおり風景100選」選考委員などの公職、同志社女子大学 非常勤講師、香道志野流松隠会 理事などつとめるほか、香文化普及発展のため国内外での講演・文化活動にも意欲的に取り組む。
香老舗松栄堂ホームページ


熱帯雨林を行く

皆様からのご意見を「MAIL」からお待ちしております。

このホームページ内に掲載した全ての文章、
画像は著作権者の許可無しに使用することを固く禁じます。
Forum of Wood Culture and Art
All the text and images used on this site is copyrighted and
its unauthorized use is strictly forbidden.