原始に帰る、巨木信仰
倉田治夫(くらたはるお)/テレビ信州取締役総務局長


 信州は四方を山に囲まれ、面積の8割弱を森林が占めています。昔は、どの村にも林業関係者がいたり、炭焼きの煙が見えました。今は外材に押されて県産材の出番も少なくなり、学費をまかなってくれた我が家の「山」も最近はなかなか手入れが行き届かなくなってきました。そして、養蚕業の衰退とともに、村々の桑畑も姿を消してしまいました。そんな話は信州のあちこちで聞く話ですが、6年に1回は心踊る日々がやってきます。そう、御柱祭(おんばしら)です。

 モミの巨木とともに男たちが山の急斜面を駆け下りる様子は全国ニュースでも紹介されました。これは一連の祭事のクライマックス、「木落とし」の場面です。

 準備から本番まで4年がかりで行われる御柱祭は、まず、森の中で主役の御神木を選ぶ「見立て」で始まります。大きいものだと、長さ17メートル、重さ12〜13トンにもなる巨木を選ぶのです。木を伐り出して、里に下ろすのが「山出し」。そして「木落とし」。次いで、大勢の人たちが綱で引いて社殿に運ぶ「里曳き」。川を渡っていく「川越し」。最後に垂直に立てて固定する「建御柱(たておんばしら)」で、祭の幕が下ります。この祭り、諏訪地方では人々の生活のかなり奥深いところに繋がっていて、何をおいても御柱祭。役所も会社も「御柱祭で・・・」という言い訳が通ってしまいます。

 でも、いつ頃始まったのか、何のために行うのか、実は正確なことはよくわかりません。諏訪大社は上社(かみしゃ)の本宮・前宮、下社(しもしゃ)の秋宮・春宮という四社からなる神社で、それぞれの境内の四隅に柱を建てるので、計16本が必要となります。建て替えをシンボライズしたともいい、神々の依り代という説もあれば、ファルス信仰と考える人もいます。

 御柱祭は敢えて一言で言えば、木を伐り出して引っ張ってきて、ただ建てるだけの単純なものです。そんなことからも、私の周囲では、かなり起源が古く縄文時代から続いていると考える人が多くいます。このあたりは、八ヶ岳の麓で諏訪湖の周囲に位置していることから、山の恵み、湖の恵みを受けてきました。石器や土器の出土も多く、縄文時代にはこの付近の人口密度(?)は日本の中でもかなり高かったと見られています。縄文前期から中期にかけては、今より温暖で、標高のかなり高いところ(1900メートルあたり)まで、クリやコナラ等、その実が食用になる落葉広葉樹が広がっていたといいます。学問的にはともかく、思いはいっきに太古に飛んで、縄文人の息吹を感じ、縄文人と同じ汗をかく・・・。そんな気分に浸ることができるのです。




木落としの様子



川越しの様子

 木落とし」のとき、柱の先頭にまたがる人を「花乗り」と呼びますが、勇敢なだけでなく人格的にも周囲から尊敬されていないと選ばれないことになっています。そして、「里曳き」はコロも使わず、街道を埋め尽くした何千人もの人々が長さ300メートルの巨大な綱を曳いていきます。あまりに重いため、全員の力を合わせないとビクともしません。祭りの節目節目には必ず木遣りが流れてきますが、「里曳き」の時は、木遣りを聞いて心の準備を整え、一斉に力を結集していくのです。

 どうでしょう?原始時代のリーダーの姿と協力のあり方が目に浮かびませんか?
倉田治夫(くらたはるお)
(株)テレビ信州取締役総務局長、信州大学非常勤講師、(財)東方研究会兼任研究員

1949年 長野県に生まれる。
1980年 東大大学院博士課程(インド哲学)を修了。
(株)春秋社勤務を経てテレビ信州に入社。
1977〜78年 文部省留学生としてインドのマドラス大学に留学、サンスクリット資料により古代・中世インドの思想、解釈学、メディア論(広義)を研究。
現在 信州大学にて、メディア・リテラシー(メディアの特性を知って情報を主体的に読み解き、活用する力)を講じている。中世・近世の唱導文献(寺社縁起等)をメディア史的観点から捉え直すことを試みている。
また松本サリン事件当時の報道部長で、日活映画「日本の黒い夏−冤罪」の登場人物のモデルのひとりと言われている。
著書; 「善光寺縁起集成(特)−寛文八年版−」、「鎌倉英勝寺蔵・善光寺縁起絵巻」、「検証 松本サリン事件報道」(いずれも共著)

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