「枯れ木に花を咲かせましょう」 | ||||||
渡辺精一(わたなべせいいち)/中国古典文学者 | ||||||
そんな日々の中で、ふっと気なることに出くわし、しばらく仕事を忘れて、その世界に遊んでしまうことがある。「本当は仕事よりそっちのほうが楽しいのではないか」と突っこまれると、少し返答に窮する場合もある。今回は、そうした一例を書かせていただくことにする。 枯れ木に花を咲かせる「花咲か爺」の話は、中国古典の場合,たとえば次のようなかたちとなる。 |
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この話は宋の洪邁(こうまい、1123−1202)の『夷堅志』(いけんし)に見えるものである。 ここで「ふっと気になる」というのは、日本の花咲か爺は、枯れ木に灰をかけて花を咲かせるのに対し、中国の花咲か爺は、大地を通じて根から働きかけている点である。 働きかける対象が、木そのものへなのか、大地へなのかという違いがある。 もちろん、こうした伝承は多様にわたるから、日本は木、中国は大地と、完全に割り切れるものではないだろうが、やはり気になる。 中国的思考によれば、木そのもの(あるいは枝)にはたらきかけることには、付け焼き刃的な感じがあるのだろう。彼らには、どんなことも根源から見つめようとする、思考の傾向がある。「癖」とか「習慣」と言ったほうがいいかもしれない。これを延長すると、「木そのものを大事にするより、大地そのものから大事にせよ」という態度になりそうである。 そして「木の文化」は「大地の文化」。しかし、大地だけあっても天からの恵みの雨、太陽がなければ、どうにもならない。かくて、人間を含めた天地万物一体の哲学となる。 以上を要するに、そんな大げさなことではなく、日本人は収穫までのサイクルが短い農産物については土(大地)を意識して、有機肥料のなんのと言うけれども、材料として使えるまでの時間が長い木については、中国人ほどに大地そのものの恩恵を意識していないのかもしれないということである。 さてさて、小生は考えなくてもよいことを考えてしまったのであろうか。 |
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渡辺精一(わたなべ せいいち) 中国古典文学者
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