「枯れ木に花を咲かせましょう」
渡辺精一(わたなべせいいち)/中国古典文学者



 父は大工の棟梁だったので、まんざら木と縁がないわけではないけれども、日頃は漢籍の海にどっぷりと漬かる、商売ちがいの小生である。

 そんな日々の中で、ふっと気なることに出くわし、しばらく仕事を忘れて、その世界に遊んでしまうことがある。「本当は仕事よりそっちのほうが楽しいのではないか」と突っこまれると、少し返答に窮する場合もある。今回は、そうした一例を書かせていただくことにする。

 枯れ木に花を咲かせる「花咲か爺」の話は、中国古典の場合,たとえば次のようなかたちとなる。


花さか童子/籔内佐斗司


 ある大臣の家に、道術士が立ち寄り、大臣は酒だの茶だのをふるまった。

 その後も道術士が来るたびに快く接待をしつづけたある日、道術士は、「よその土地に行くことにしたので、お別れがしたい。ついては今までのお礼に術をひとつ御覧にいれ、お楽しみいただこうと思う」と言った。

 時節は年末だった。大臣は庭にある一本の枯れたスモモの木を指さし、「あれに花を咲かせ,実をみのらせることができるか」と言った。

「できますとも」道士は、青色の大きな幕でスモモの木をすっぽりおおわせると、「どうぞ観客をお呼びいただき、酒など飲みながらごらんいただきますように」と言うと、腰にさげていた袋の中から一粒の丸薬を取り出し、スモモの木の根元に埋め、さらに上から土をかぶせた。

 それからしばらくして幕を少しめくってみると、スモモの木に花が咲きはじめている。再び幕をおろし、幕をあげると、もう実を結んでいる。

 もう一度、幕をおろし、一座に酒を行きわたらせ、次に幕をはらいのけると、木全体に、びっしりと実がなり、しかも完熟している。一座の者は争うように実を摘って食べた。味といい、香りといい、今までに味わったことがないすばらしさであった。

 ……気がつくと、道術士の姿がない。そして、もう二度と、この道術士にめぐり合うことはなかった。

 この話は宋の洪邁(こうまい、1123−1202)の『夷堅志』(いけんし)に見えるものである。

 ここで「ふっと気になる」というのは、日本の花咲か爺は、枯れ木に灰をかけて花を咲かせるのに対し、中国の花咲か爺は、大地を通じて根から働きかけている点である。

 働きかける対象が、木そのものへなのか、大地へなのかという違いがある。

 もちろん、こうした伝承は多様にわたるから、日本は木、中国は大地と、完全に割り切れるものではないだろうが、やはり気になる。

 中国的思考によれば、木そのもの(あるいは枝)にはたらきかけることには、付け焼き刃的な感じがあるのだろう。彼らには、どんなことも根源から見つめようとする、思考の傾向がある。「癖」とか「習慣」と言ったほうがいいかもしれない。これを延長すると、「木そのものを大事にするより、大地そのものから大事にせよ」という態度になりそうである。

 そして「木の文化」は「大地の文化」。しかし、大地だけあっても天からの恵みの雨、太陽がなければ、どうにもならない。かくて、人間を含めた天地万物一体の哲学となる。

 以上を要するに、そんな大げさなことではなく、日本人は収穫までのサイクルが短い農産物については土(大地)を意識して、有機肥料のなんのと言うけれども、材料として使えるまでの時間が長い木については、中国人ほどに大地そのものの恩恵を意識していないのかもしれないということである。

 

 さてさて、小生は考えなくてもよいことを考えてしまったのであろうか。
渡辺精一(わたなべ せいいち)
中国古典文学者

1953年 東京生まれ
1981年 國學院大学大学院博士後期課程単位修得
現在
二松学舎大学講師のほか、朝日カルチャーセンター講師、NHK文化センター講師などを勤める。

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