「霊木と仏像」
小川光三/仏像写真家


 『日本書紀』によると、欽明天皇十四年、茅渟海(ちぬのうみ、大阪湾の和泉灘)に厳かな音を響かせ、目の光の如く輝く不思議な楠木の大木が浮かんでいたのを献上し、これで「仏像ニ躯(ほとけのみかたふたはしら)」を造らせたとある。これが日本で仏像を造像したという最初の記事であるが、法隆寺の救世観音や百済観音など、飛鳥、白鳳期の木彫像の多くは楠木の一木造りであることが注目される。
 楠木の語源には諸説があるが、かぐわしい芳香を放ち、奇端の現れる「奇の木(くすのき)」であったとする説が注目すべきで、古い神社には、楠木の大木に注連縄を張って神宿る霊木とするものが多い。またこの木は木遍に南と書くように暖地性で朝鮮半島や中国北部には自生せず、その一木で仏像を造像するのは日本独自の発想であるが、こうした神の降臨する霊木を「神籬(ひもろぎ)」と云い、こうした神聖な霊木から日本の仏像彫刻が開始された。
 中国の一木造りとしては、八世紀には白檀を使用した檀像があるが、いずれも小型の像で、等身以上の木彫像では、「魏氏桜桃(中国産の桜の一種)」という材を用いた、東寺の兜跋毘沙門天や清涼寺の釈迦像がある。だがこれは、いずれも寄木に近い木造で、頭頂から台座までを一木で造像したものは日本独自の発想であるようだ。
 だが唯一の例外としては、広隆寺の弥勒菩薩像が、戦後になって赤松の一材から彫出した朝鮮の像であるとされるようになった。ところが1968年、毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影を行っているとき、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明した。この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、これが日本で造像されたことを示している。(同書参照)


『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」

 松も目出度い常盤木(ときわぎ)として霊木に数えられるが、珍しい木を用いた話では、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我馬子とともに物部守屋を討つとき、白膠木(しろぬるで)で四天王の像を造ったと云う、四天王寺の建立説話が『日本書紀』にある。白膠木は漆の一種だから、これで彫像を造るのは、よほどの勇気が無ければなるまいが、魔よけであるこの霊木で木刀を作って戸口に置けば邪霊を払うとされていた。
 八世紀に入ると一時一木像は衰退し、乾漆や金銅仏が主体となる。だが天平末期から平安期に入ると再び一木の名品が現れ、また材も多様化するほか、地面から立ったままの霊木で仏像を刻んだ立木仏が各地で造られる。日本では、こうした天に向かって立つ樹木や、人工で立てた聖なる柱は天上にいます神が降臨される依代で、神を「ひと柱、ふた柱」と柱で数えるのも神の依代が神籬であったためである。天に向かって真っ直ぐに立つ杉も主要な神籬であるが、彫刻には不向きなこの木で造った法輪寺や法起寺の十一面観音像、また坐像の膝前に横木を使わずに縦木を寄せ、立てた樹にこだわった新薬師寺の本尊などがある。
 このように、神籬と仏像の関係は仏教伝来当初からのもので、樹を神聖視してきた日本古来の信仰と、日本の仏教文化は深い繋がりを持っていた。

小川光三(おがわこうぞう)
仏像写真家、飛鳥園
1928年 奈良市に生まれる
日本画、洋画を志して青年期を過ごすが、父・小川晴暘の後を受け、仏像など文化財の写真と出版を専門とする「飛鳥園」を継承。
以後、写真に専念するかたわら、古代文化史を探究。
また各地で文化史講師なども務める。
著書 「大和の彦蔵」「やまとしうるはし」「魅惑の仏像(全28巻)」「ほとけの顔(全4巻)」など多数

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