「木の霊性とアニミズム的感性」
若麻績敏隆(わかおみとしたか)/善光寺白蓮坊住職・画家


 長野県北東部に位置する木島平村のカヤノ平は、美しいブナの原生林で知られる。世界遺産に登録された白神山地ほどの広大な土地ではないが、雪のない期間は志賀高原からも車で一時間足らずの行程であり、比較的平坦な土地でもあるため、山菜採りやキャンプ、ハイキングで訪れる人も少なくない。
 私は、20年ほど前、知人に誘われてここを訪れる機会を持ったが、今でもその時の感動を忘れることはできない。ブナの原生林というものを目にしたのは、その時が初めてだった。私の言いしれぬ魂のふるえには、憧憬と恐怖という相反する感情が入り交じり、これこそ、神の原型のイメージだと直感した。


ブナの原生林


 今日、様々な宗教において信仰される神々は、そのルーツを辿りことばによる既定がなされる以前の原初的な宗教体験にまで遡れば、それはあくまでも知性を介さずにダイレクトに魂に響いてくる「何か」であったに違いない。
 私が最初にこの森を訪れたときに感じた神的なもの、それは神と悪魔、善神と悪神とが分離する以前の神的な霊性の塊であったように思う。神話が生まれる以前の神の原型は、自然の中に今なおその霊感を発し続けているのである。

 日本では、かつて霊木や神木として崇められた木から多くの仏像が生まれた。平安時代前期に特に傑作の多い一木造の仏像には、こうした出目のものが多いと聞く。これらの仏像には、元の木にあった生命力がそのまま像のダイナミックなムーブマンとして現れた。もしかしたら、日本のような仏教文化圏において薬師如来や地蔵菩薩として形作られた木塊は、キリスト教文化圏にあっては聖母マリアとしてのいのちを吹き込まれたかもしれない。別の見方をすれば、これらの神像(仏像)は、人間という限定された存在から見た神の像であって、人間以外の生き物からすれば、神的な原存在の「人間化」以外のなにものでもないのだろう。
 優れた仏師は、恐らく、本能的に本来の木の霊性を認知し、そこに人間的な感性や知性に働きかける「かたち」を与えてきた。原始的といってもよい霊性への直感と、人間としての知性、そして技術、それらが一体となってはじめて優れた作品がうまれたのだ。それによって原存在としての霊性は、「かたち」と「様式」を与えられ、私たち人間のより近くに歩み寄る神としてのすがたを与えられる。

 日本仏教の行き着いた思想の一つに「山川草木悉皆成仏」というのがある。いわゆる「本覚思想」である。これは、『涅槃経』に説かれる「一切衆生悉有仏性」の思想的展開と考えられている。仏教の側から見れば、修道論を根こそぎ揺るがしかねない危険性を指摘されるこの思想は、実は一切のものの中に霊性をみとめるアニミズムが単に仏教的衣を身につけたものだといってもあながち間違いではないだろう。
 アニミズム的感性は、高度な仏教教理の中にさえかたちを変えて密かに流れ続け、そして今なお私たちの感性の底流に確実に継承されている。そしてこのアニミズム的感性こそ、優れた匠たちにとって欠くことのできない能力だったように私は思う。仏像を作る仏師ばかりではなく、様々な彫刻、建築、調度、道具を作る匠たちは、この生得的でなかば無意識的な感性によって、木に宿る霊性、いのちを敏感に感じ取っていたに違いない。
 かつては、それを礼拝し、鑑賞し、使ってきた受け手の側さえも、仏像に、建造物に、道具に、原木から受け継いだ霊性を今の私たちとは比べものにならないほどに敏感に感じ取っていたはずだ。
 木の文化の復権は、木の霊性の復権、換言すれば、それを感じる私たちの原始的感性の復権と不可分なのだろう。

若麻績 敏隆(わかおみ としたか)
善光寺白蓮坊住職、画家

1958年 長野市に生まれる
東京芸術大学および大学院において日本画を学び、大正大学大学院において仏教学を学ぶ
1991年
毎年パステル画による個展を開催
現在 善光寺白蓮坊住職
著書 『パステルで描くやすらぎの山河』(日貿出版社)
共著 『浄土宗荘厳全書』(四季社)ほか
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